カオティックといふ言葉がある.Chaoticといふ英語(意味は「混沌とした, 無秩序な」といふ形容詞)に多分(!)由来する外来語である. 英語のchaoticといふ語はもちろん,chaosの派生語である. chaoticのカナ書き「カオティック」といふ表記にまつわる問題を今回とりあげ る.
問題はchaoticを「カオティック」とは呼まないことである.
「カオティック」といふ表記はたいていの日本人には違和感なく 受けとられてゐるが, 英語の発音と綴り字の慣習を知るやうになった人は 変な感じを受けるだらう.なぜかといふと chaoticは英語では「カオティック」のやうには発音しないためである. むしろ,「ケイオティック」のはうが近い.
だから, 英語の発音に意識が向いてゐる人,英語の発音に忠実?に表記したい人は, おそらく,
「カオティックではなくて,ケイオティックだよ.カオティックなんて英語は ない.そんなことを云ってゐるから,いつまで経っても英語の発音ができない. 英語の発音を表記しないカタカナ表記のせいで日本人の英語能力が... 聞こえたように書くべし... 以下略」といふだらう.
まず,「ケイオティック」のやうに発音する原理を説明する. chaoticという言葉は英語としてはcha-o-ticと分節される. 英語の母音字は一般には開音節(basicのa, エイ)と閉音節(cat, hatのa, ェア) と発音が違う.端的にいって開音節はアルファベットの呼み通りである(I=アイ, U=ユー,E=イー, O=オゥ,). chaoticに関しては 第一音節のchaは開音節だから,aはアルファベットのAと同じ発音になる. つまり,A=エイの発音となる. だから,ケイオティックというカナ書きになる. なお,chをヘボン式ローマ字みたいにチャと読まないこと. ギリシャ語起源の語のchは[k]と読む.
上の説明はイギリス英語を基準にしたものである. アメリカ英語でも開音節の母音の発音は同じであるが, 閉音節の母音は違うので補足する.アメリカ英語ではhotをホットではなく, ハットと,oとアに近く呼むので, アメリカ英語が好きな人にはケイオティックよりは ケイアティックをカナ書きするほうが適当に見えるかもしれない.
どちらにしても,chaoticはケイオティックとは呼めない. 多くの人がカナは音を示す表音文字と理解されてゐるので, 発音と違うカナ表記には違和感がある.
確かに,「カオティック」というカナを英語と思って, すこし英語らしく発音したくらいでは,chaoticとして通じないだらう. 英語の発音をできるだけ正確に表記し,発音する際に正確に再生できる様にする という視点では, 「カオティック」といふカナ表記には問題がある.
だからといって, 通じる英語発音を表記してゐるかどうかといふ基準だけでカナ表記を査定 することにも問題がある. その表記が日本語として発音可能か, 日本語として馴染むかどうかとか 日本語としての運用の利便性をまるっきり考察してゐないからである.
もちろん, 英語の音声学や発音を十分に把握してゐない人のための粗急的な発音記号の 代用としてなら十分に価値がある. 英語のルールを第一義とし日本語のことをなにも考えてゐない表記を 日本語の世界に持ち込むのは問題がある,ということである.
この問題で, 第一に注意しなければいけないことは,「カオティック」の国籍?である. chaoticとアルファベットのまま日本語の文中で使用するのは, 外国語の引用ということになるだらうが, カオティックはカナ書きした時点で英語から日本語に籍が移る. つまり,外来語になってしまふ.外来語の籍は日本籍である. したがって日本語としてカオティックが定着してしまえば, これは日本語として認めるほかない.
また,日本語の音韻の規則から, 全ての外国語は外来語になる時点で, 大なり小なりの修正を受ける. たとえば,「ノーと言へる日本」の 「ノー」は正確さを目指して表記・発音するなら「ノウ」である. もっと云へば,日本語の「ノウ」は「ノ・ウ」と2音節になってしまうが, 英語のnoのo[ou]は1音節で発音する二重母音(oの音で始めてuの音に移行する. 単なるoとuの足し算ではない)だから, 無理矢理カナ書きすれば「ノゥ」になるかもしれない. しかし,日本語では二重母音はなくて, 2つの母音に分解して2音節の連母音になるか,2音節の長音になるかしてしまう. それは日本語が日本語であるために重要な機能を機能させるための規則だから, 円滑な日本語を運用するためには,どんな外来語も日本語の音韻にあはせて 適当に修正するほかない.
アルファベットの歌からして,日本語の音韻にあはせた修正がある. ABCと日本人はエービーシーと云ふ. Aは英語としてはエーではなく,エイ(またはエィ)に近い発音である (ちなみにCも無理にカナ書きすればスィーになるが,今は子音の話ではないので割愛). そこからすると,chaoticは「ケイオティク」といふよりは むしろ,「ケーオティク」かもしれない. たとえば,mailを「メイル」ではなく, 「メール」と表記するのに倣うわけである. ただ,これにも問題がある. mainは「メーン」ではなく,「メイン」と表記する. これは「ケイオディック」と同じ型の表記である. このやうに A=エイという表記には揺れがあり, 日本語として安定していない.
私は最初に,「カオティック」といふ語に接した時,英語の発音を表記したやう には見えなかったので,フランス語から来たカナ表記かと思った. フランス語だったらchaotiqueといふ綴になり, カオティークといふやうな発音になるから, カオティックとかカオティークと表記しても,そんなに違和感がない (参考Boutiqueブティック, Antiqueアンティーク).
私が「カオティック」といふ語が使用されてゐた文脈は地質学の文脈である. 「カオティック」とはゴミ箱に無秩序にモノを放り込んだやうな 乱雑な構造を示す記載用語 である. 地質学の文脈にはdécollementやmélange, levéeといった フランス語起源の術語が多い.mélangeの代表的構造は 「カオティック」である. 「カオティック」もフラ語chaotique起源なんだらうか...?
「カオティック」がフラ語起源かもしれないが,現在のところ, 多くの人は「カオティック」を英語起源と思って使用してゐる.
ギリシャ語由来の語は(ラテン語由来の語も含めて), たいていのヨーロッパ語において元の語形を保存してゐる.chaosも例外ではない. ギリシャ神話にも出てくる. 本家のギリシャ語ではXAOΣで,古典ギリシャ語の一般的なカナ表記では カオスのやうになる.Xは[kh]と発音し,強く息を吐くkで,ハ行が近いが 通例ではカ行で表記してゐる. 現代語ではXは[x]で,Bachのchの発音となり,ハオスとハ行で表記する. (ある外国語を完全に等価な格好でカナ書きすることはできない).
日本語ではchaosを英語風にケイオスと表記せず, ギリシャ語(古典)に従ってカオスと表記してきた.
「カオティック」という表記は −−実はフランス語由来なのかもしれないが;笑−− 英語の発音にあうようにカナ表記しようとしたのではなく, もとの綴り字がわかるやうな格好でカナ表記を決めたのではないか. 綴り字がわかるやうな表記には, 文字通りそれを見て綴れるといふメリットもあるが, それよりも 語形を分析することで,語構成がわかるといふメリットの方が 言葉を遣ふ立場からは重要である. つまり,カオスといふ語を知ってをれば, カオティックといふのはカオスの形容詞形だと推測がするわけである. カオスが「混乱」とか「混沌」といふ意味だから,カオティックとは 「混乱した」とか「混沌とした」といふ意味だと察しがつくわけである.
この場合,カナ表記は発音を示すものではなく 語を示す道具として使はれてゐることになる.
逆に, 英語風のケイオティックとカオスとの間には 繋がりを見出だすことは困難である.カオスを知ってゐる人であっても, ケイオティックから,カオスの意味を引き出すことはむつかしいだらう. 端的には意味がわからないだらう. そこで,chaosも英語風にケイオスと表記することも考えられる.さうすると ケイオス:ケイティックで語形が揃うが, かなり定着した「カオス」といふ語形を捨てるのはむつかしいだらう.
「カオティック」という表記は英語の音韻に従った表記ではなく, これがおそらくラテン語からの転写ではない以上, かなり変な表記であることは否めない.強いて書けば 重箱呼みといふか,前半はギリシャ語からのダイレクトな転写で, 後半は 英語の接尾辞をおそらく英語(ギリシャ語でこの綴を読んでも同じになるが) としての転写でツギハギである.
大部分のヨーロッパの言語は,いはゆるローマ字読みすれば,だいたいの発音になる. それもあって伝統的に,外来語のカナ書きは発音にあわせつつも, 綴り方がわかるやうにカナを決めてゐたと考へられる. 下に,カオスの形容詞のヨーロッパ5言語を示す.
フランス語: | chaotique | カオティーク |
ドイツ語: | chaotisch | カオティッシュ |
イタリヤ語: | caotico | カオティーコ |
葡語西語: | cáotico | カオーティコ |
ラテン語をはじめ他の大部分のヨーロッパの語のchaosを カナ書きすればカオスになる.そして, 派生形にしても,「カオs」といふ語幹の部分は残る.
残念ながら,英語だけは,これとは違ふ. 英語だけ母音の発音が標準的なアルファベットの発音から逸脱してゐる (大母音推移). これが章題にかかげた英語の不幸である. カナはアルファベットとは違う,表音文字である. 英⇔仏,英⇔独などの同じアルファベット同士であれば, それぞれの発音システムにしたがって呼み換えればいいだけだし, 結果として語形もそんなにかはらないから, 問題は目には見えない.しかし,カナで書くと, カナは音節文字なので,母音の違いがそのまま文字の違いとして 顕在化してしまふ.これがカナの不幸である.
ABCはエービーシーと云って違和感がない人が, chaoticだけケイオティックでないとおかしいといふのは, 自分の知ってゐる狭い範囲でのみ通用する知見をふりまわしてゐるに過ぎない. その立場の人からすればchaoticはカオティックではないかもしれないが, ケイオティックでもない筈だ.ケーオティックだらう. おそらく,ケイオティック以上に日本語として受け容れにくい表記と思はれる.
原理的には,chaoticはケイオティックと書きたい人は, まず,chaosをケイオスと書き, ABCはエィビィスィと書き,開音節の母音は全てABC呼みで書けば統一はとれる. 物理のカオス理論のケイオス理論に改名することになるだらう(笑). この手の統一主義は得てして,全ての語に対して伝統的に使用されてきたラテン語や ギリシャ語あるいはドイツ語由来のカナ表記を 英語風のカナ表記に移行することを迫るハメになり, しばしば身動きがとれなくなる.
一方,chaoticカオティックだけでなく, 中途半端に英語風な表記の外来語も多い.英語からの外来語で, 当然もとになった綴りは英語だが,特に母音だけ英語の発音と採用せず, その他大勢のヨーロッパの言語風の発音になってゐる外来語である.
「ケイオティック」は英語の発音としては比較的正確だが違和感があるし, 「カオティック」は慣れてゐるし語構成的にシステマティックだが, 英語の発音としては全然参考にならない.英語由来の外来語といふのも躊躇する 程だ.英語の綴由来の外来語といったはうがいいくらゐである.
カナで外来語を表記するといふことに,万全の正解はない. 統一することは困難である. メリットの多い表記とデメリットの多い表記とに,大別されるだけだ. その,メリットの多い表記を,より適切な表記と読んでゐるにすぎない. ただ,それは,どんな表記にしてもいいといふことではない.やっぱり,どうしやうもない表記はあるし,一方で,適当な着地点となる表記もある.
英語の発音との関係ではカナ書きに発音を求めることはやめて, カナ書きを参考に元の綴りを思い出して, それを英語のPhonicsに照して英語の発音を想起するという方法がいいかもしれない. ただし,カナ書きでは母音の表記は発音のアテにならない. 結局,発音を示すにはアルファベットの綴字によるしかないかもしれない. それも,英語の綴字・発音の概略を知った上で役に立つわけで, 綴字・発音の概略を知らない場合は,辞書を引くのに役にたつくらゐだ.