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Pax et Dignitas: 平和に尊厳をもって
(2009-07-31 版)

辻野 匠(TuZino, Taqumi)


目次

  
2007-09-28起筆

はじめに

生きていく上で心の平和(pax cordis/inner peace)尊厳 (dignit\textrm{\={a\/}}s/dignity)は,不可欠(necessarius/essential)である.

人は,それらが欠けてゐたり見失ったりした時に,面倒なことになったり,つ らい思いをする.心の平和と尊厳を獲得するためには,人の心を深く理解する 必要がある.

ここでは心の平和と尊厳を妨害するものを,主に言葉と思考によって排除する応 答例について取り上げる.

いくつかの原則

いくつかの各論的原則を述べる前にいちばん重要な原則を述べる.いちばん重要 な原則とはリベラルであれ,といふことである.リベラルとはなにか?その定義 は次の引用から推測してほしい.

リベラリズムは一見`なまくら'に見えるが,強い`しん'がなければ存立し得ない ものなのである.そのことはリベラルという言葉を考へても判るだらう.「自由 な」といふ訳語では,リベラルといふ言葉のニュアンスはつくされ得ない.リベ ラルな翻訳とは,自由奔放で雰囲気の出た翻訳といったところである.カネの面 でリベラルといふと鷹揚でケチではないといった意味である.それは決して悪い 意味ではない.だが,自由奔放に雰囲気を出しながら,でたらめとはちがう訳を することは難かしい.それ自身難かしいだけでなく,極度に謹厳な人間からは非 難されよう.カネの使い方についても同じで,鷹揚ではあるが乱費家でないこと は難しい.しかも石部金吉氏からは非難される.つまり,リベラルな立場といふ ものは,自制心と強い自信とがなくては保持できない1ものなのである.(高坂正堯,1981「文明が衰亡すると き」新潮社.Punctuationと假名遣を変更した.)

他人の気分に左右されない

人は相手の感情や気分によって自分の感情を乱してしまいがちだ.怒ってゐる人 につきあうと自分も怒ってくる.また,「あいつが嫌なことをするから,私もや りかえすのだ」という理屈はよく聞く.誰かの嫌な言動に接して自分の心が不機 嫌な気持ちでいっぱいになることは正当なことに思へる.だから,人はえてして, 自分の気持ちが不愉快なのを相手の言動のせいにしがちだ.

でも,それは自分は誰かに従属してゐると告白してゐるに等しい.もっといへば

自分が不機嫌なのを誰かの言動のせいにしてゐる人は,自分は相手の奴隷 だと告白してゐるに等しい.

もし,平和に尊厳をもって暮したいならば,他人の気分に影響される態度は是正 しなければいけない.

堂々とせよ

クマやイヌに対峙した時に,必ず護るべき忠告がある.それは,「決して逃げて はいけないこと.後を見せてはいけないこと」である.野生動物(とりあえずイ ヌも含める)は自分より強いか弱いかを見極めてゐる.それは必ずしも現実の強 さではなく,ある種の雰囲気である.逃げるものは自分より弱いことをアピール する.だから,彼らは自分より弱いと知って(思って)追いかけるのである.逆に, 「自分は負けないぞ」という雰囲気を醸しだしていれば,相手は自分か傷つくこ とを怖れて攻撃して来ない.それは人間も野生動物も同じである.攻撃する側は 自信のなさそうな人を狙う.攻撃的な人間は与しやすい雰囲気,くじけて弱そう な人の雰囲気をカギつける才能がある.

だから,重要なのは自分が弱い雰囲気を醸し出さないこと.いつも堂々としてい れば弱みに付け込む攻撃者も立ち入るスキがない.温和なのと軟弱なのは違う. 軟弱なのは,人柄がやさしいように見えるが,相手に迎合することによって自分 の保身を図ろうとする戦略と見ることもできる.もし,さうなら,それは立派は 態度ではない.直したほうがいい性状である.もっとも,弱い雰囲気というのは 生れつき さうなってゐたのではなく,そのやうに育てられた場合も多い.どう であるかは人によりけりだが,解決するには,いったい何があなたの自信に歯止 めをかけてゐるのかを観察することが重要だ.たいていの場合は,弱い立場に自 分を追い込んでゐるのは他でもないあなた自身だ.

堂々とするには,これまでの逆をすればよい.相手に自尊心があるのと同様に, 自分にも自尊心がある.わざわざ小さく見せなくてもよい.相手の目をじっと見 据えること.状況が不愉快あるいは脅威なものになってきた時には特に.侮辱さ れたら眼力で睨みつけるものよいだらう.卑屈な愛想わらいなどしないこと.媚 びは見苦しい所為と知ること.バカにされた時にヘラヘラ笑うな.自嘲するな. そんなもので同情を買っても役に立たない.邪魔になるだけだ.好悪や善悪を明 快に.だらだら言い分けするな.哀願するな,懇願するな.自分に自尊心がある のと同様に,相手にも自尊心がある.

怒ってはならぬ.しかし怒りを感じたのならそれを否定してもならぬ

怒りは愚かものの所為である.怒るのは,ハンマーで自分の指を叩くくらい愚か なことだ.怒りのすざましい人は経験があるだらう.壁に自分の頭を打ちつけた り,誰でも彼でも自分でも破壊せずには気がすまない猛りを.怒りは,その方向 が他人に向うにせよ自分に向うにせよ,利己的に見れば,自分を破壊する愚かな 行為であり,利他的には自分と他人を汚染し殲滅する間違った行為である.

私は,怒りを我慢しろといってゐるのではない.人間の我慢など高が知れてゐる. 我慢しきったところで大爆発するか,我慢しすぎて自分を殺すか,どちらにして も賢者のとるべき道ではない.そもそも我慢した怒り,自分に向う怒りは鬱であ る.そうかといって怒りを木ッ端微塵にもできない.むしろ,自分のほうが怒り に支配されて「祟り神(モノノケ姫参照)」になって身も心もバラバラになる.気 がついた時は手遅れである(気がつかないよりはいいが).

では,どうしろと云ってゐるのか?残念ながら,怒りにはトンプクのように外か ら強制的に救助する方法は存在しない.私には怒りを治めるためには自分を観察 しろ,としか云へない.

1 まず,自分が怒ってゐることを認める.
2 自分に距離をもつ.
3 相手とも距離をもつ.
4 自分は誰かに怒らされてゐるから怒ってゐるのではなくて,自分で怒りたいから 怒ってゐることを知れ.
5 自分も相手も死すべき存在であることを知れ2
6 その怒りにどうやってケジメをつけるか考へよ.

1 世の中には正しい怒り存在しない.だからといって自分が怒ってゐることを無 視して,怒っていないフリをしても無駄である.4 かう書いてあるから かうだ と思うのは理解ではない.自ら自分はそうだったんだと知らないと意味はない. 6 ケジメについてはケースバイケースで,復讐が間違ったことであることは論を 待たないが,どうケジメをつけるかは,その人の人生に帰属する.

怒りを捨てることが理想だが,怒りを捨てることは無法を許したり甘やかせるこ とを意味しない.それでは尊厳(dignit\textrm{\={a\/}}s)がなくなってしまう.怒りを捨てて も尊厳をもって誤ちを糺したり,不幸の種を排除することはできる,というか, 怒りを捨ててこそ,尊厳をもって誤ちを糺し,不幸の種を排除することができる.

納得できないことに同意してはならぬ

能率人が能率人たりえるのは,どんな仕事でもこなせるからではない.望みがな い仕事,納得がいないことを拒否する勇気をもってゐるからに他ならない.

もし,納得できないことが目の前に表われたら,それは自分がステップアップす るチャンスだと思ってほしい.

納得のいかないまま,人の話をおとなしく聞いてゐたところで賢い人にはなりません.

力でもって他者を捻じ伏せやうとする人間が最も怖れるのは,意志をもって自分 を全うする人間だ.彼等は他者を捻じ伏せなければ自分が滅びる幻想にとりつか れてゐる.だから彼等にとっての最大の脅威は意志をもって自分を全うする人間 だ.彼らは圧殺しようとするかもしれない.しかし,それはたいてい最初だけの ことだ.一種の動物的本能で,圧殺できないとなれば逃げる.なぜなら,彼等に とって相手を圧殺できない時は,自分が圧殺されるわけだから.

あなたに同意など必要ない.誰があなたに同意しなくても,あなたはあなたの気 持ちがある.誰が認めてくれなくてもあなたはあなたの意志がある.誰が支持し てくれなくてもあなたにはあなたの行動をする権利がある.

なにが一番大事か? 心の星を求めなさい

人といふものは今自分の人生で何が一番大事かを考へた時に不思議と心が落着く ものだ.

とにかく傷つかないで生きるには,自分の星を夢中になって追いかけるのが一番 である.心に星をもつ人は,それを叶ゑる力を必ず持ってゐる.

私には星がある.

これを思い出しなさい.人によっては自分には星がない,と思い込んでゐる人も ゐるでせう.それは抑圧が重症だからであって,星がないわけではない.見えて いないだけだ.誰でも子供のころは目がキラキラしてゐたことを思い出してほし い.その星はいまもあなたを見守ってゐる.しかし,星が見えない環境に長く置 かれてゐると,自分には星がないかのやうな錯覚に捕われる.さういふ錯覚を利 用する愚かな輩もゐる.星がないと思う人は燃え尽き症候群3である.心療内科の診断書をもらって,貯金をすべてはたいて,どこか遠 くに行きなさない(もし,少しでもやりたいことがあるなら,それをやりなさい. それが星かどうかはわかりませんが,星につながる何かかもしれない).

無知は罪ではない.失敗は恥ではない

奥行かしい人は自分のことを卑下しがちだ.得てして,知らないことを劣ったこ とと思ったり,失敗したことを悪いことと思ったりする.そのため卑下する人は 知らないことや失敗したことをネタに悪意ある人に攻撃されがちだ.

知らないよりも知ってゐたほうが,失敗するよりも成功するほうがよいに決まっ てゐるが,その自分の弱点を他人が利用していいわけはない.知らないことは罪 ではないし,失敗は恥ではない.

無知や失敗の事実は,あなたが貶められることを正当化しない.

それらを隠そうとすべきでもない.隠そうとすれば逆に容易に目についてしまう ものだ.

あなたは自分の行動に対して自分で責任をとることだと思う.それは,間違う権 利を有するということだ.そして成長する権利も.

完璧はありえない

完璧主義がどれくらい悲惨な結果をもたらすかは,完璧主義の人を観察してみる とすぐにわかる.彼(または自分)がそれでどれくらい損をしてゐるか,箇条書に してみるとうんざりする程,損をしてゐる.

たいていの完璧主義者が理想をする完璧さは……絶対的な基準からすれば……完璧 とはいへない未熟なものだ.それは,完璧主義者の批判する,常識人の基準と五 十歩百歩である.どうやったって完璧には達せられないのだから,どこかで手を 打たなければいけない.「どうやったって完璧には達せられない」という命題は 決して,「いいかげんにやってよい」ということを意味しない.それは同じく愚 かな極論である.どうやったって完璧にはならないし,かといって,テキトーで はいけない.そこにバランスを見出すのが創造であり,決断である.完璧主義者 は……場合によっては……決断をする勇気がないことを体裁よく胡麻化してゐるに すぎない.世の完璧主義者の背景心理はどうでもよい,問題はあなたの勇気だ.

補説:日本語はall or nothingしやすい文型をもってゐる(もちろん,その日本 語をどう使うかは使う人の問題であって,日本語ではall or nothingに考へなけ ればいけないという意味ではない).「彼はいつもやさしい」といふ文を単純に 否定すると,「彼はいつもやさしくない」となる.これは彼は常にヤサシクナイ (極論すればキビシイ)人であるという意味になる.いはば全否定である.これを 英語で``He is always kind.''とし,これを否定すると``He is not always kind.''となり,「彼はいつもやさしいわけでない(やさしい時のほうが多い)」 と部分否定になる(全否定したければ``He is never kind.''とか``He is anything but kind.''とするとよい).英語が論理的とか分析的であるとか,ど うとかといふことではない.All or nothingというのは英語であり,英語話者が all-or-nothing thinkingから免れてゐるわけではなく(しかし,これを指す言葉 をもつことによってそれに対して自覚的なことは評価すべきである),どの話者 でもall-or-nothing thinkingとなり得る.注意すべきなのは,日本語を使って ゐて,単純に否定すると全否定になることである.

人間は自分が思ってゐるほど強くもなく,しんどい時ほど頭もはたらかなくなり, 答えが簡単に出るall-or-nothing thinkingになりがちである(普段から all-or-nothing thinkingの人は普段から余裕がないのかもしれない).さういふ 時に,なにかうまく行かないことがあって,ある命題(信念・テーゼ等々)を否定 すると,日本語の特性から全否定になってしまいがちである.であるから,否定 の際には注意しなければならない.できるだけ限定的に,できるだけ正確に使う のがコツだ.

自分の幸福に責任をもつ

これは「他人の気分に左右されない」原則の論理的帰結であって,実際問題,誰 もあなたの人生の幸福に責任をとってくれるわけではない.交通事故の被害者な ら,損害賠償で人生の幸福が取りもどせるわけではないことを知ってゐるだらう. 他人の人生の幸福に責任を取りたくても取れないのだ.だから,あなたは,自分 の責任で人生を幸福なものにしなければならない.

これは辛い事実に聞こえる人もゐるかもしれない.しかし,この事実は逆説的に あなたを不幸にする種々の物事から守ってくれる.誰も自分の不幸の面倒なんて 見てくれないのだから,あなたが,自分に振りかかってくる不幸の種を排除する ことは正当なのである.そこに,「しがらみ」の介入する余地はない.

私は私のために何をするか?

平凡でいい

世の中には自分が特別であることを証明したいがために元気をなくす人がゐる. 特別であることを証明するためにわざわざ元気をなくす必要はないと思うのは健 全な,あまりに健全な考へ方であって,本人にとっては自分が特別でないという ことは時に死よりつらいことだと信じきってゐる.本人からすると,自分が特別 でないことを認めることに比べれば心の病気などたいしたことではない.もっと も,本人も知らない間にさうなってしまってゐることも多いだらう.本人もウス ウスわかってゐても気がつゐたらさうなってゐた場合もあるかもしれない.でも, もし心あたりがあるなら,自分を特別視することを辞めて,自分が平凡であるこ とを受け容れれば,いままでと違った見方ができるだらう.

ありていに云へば,自分を特別視しないと気がすまないのは自信がないためであ る.特別視とは自信の劣化した代替品である.

自信はどうやったら身につくか,もっとも単純な方法は自分で決めたことを 実行することである.行動以外で自信をつけることはできないだらう.自信とい うのは形がない,まことに厄介なものであるが同時に融通無碍なものでもある. もつ気になればいつだって持てるからだ.

自分を特別視するために過剰に落ち込んだり,似たやうな自己破壊的行為は他に もいろいろある.自分を過度に責める行為や放埒や無規範な行動も自分を特別視 する行為だ.これらの行為の最大の問題は,それをしても解決しないことだ.た とへば自分を落ち込ませても自分が特別であることを証明できない.多少はあは れむべき存在に見せれるかもしれないが,それは特別ではない.なぜか? 自分 が特別であることは証明できないことだからだ.それはself evident(それ自身 が証明=自明)だからだ.

いふまでもなく主観的世界では,自分が特別であることはself-evidentだ.自分 が自分であると感じるのは他でもない自分だけだ.一方,客観的世界では,自分 はまったく特別ではない,なにかと誰かしら共通するものがある.かといって, 自分をまったく同じものは存在しないという点ではやっぱり特別な存在だ.ある いはこうも云へる,他の人が特別であるのと同じくらい自分は特別だ.自分は客 観的には特別,特別ではないが普通に特別なことには違いがない,主観的には 自分は自分という特別な存在だ,

鍵は行動である.人が行動しない時には二つの客観的世界と一つの主観的世界の 間を思考がさまよい自分を見失う.なぜか.それは思考がstatic 動きのとまっ た世界の産物だからだ.考へというのはどこにも特別性はないからだ.たとへば, アルキメセスが浮力についての理解してゐること(アルキメデスの原理)と,私の アルキメデスの原理についての理解に違いはない4.行動することに よって3つの世界が一つのものに関連づけられる.一つのもの,それはあなただ. なぜか.それは広報はどんなものであっても特別だからだ.たとへば,昨日,私 は駅前の公園の清掃をしたとふ行動は特別だ(こう書いてしまうと特別ではなく なるが),それは二度とない.明日,清掃するとしても昨日の清掃とは違う,人 が違えば清掃内容も違う.行動は特別なものだ.だから特別でありたい,特別で あることを実感したいと思うなら,なにより行動することだ.

ひきよせの法則

もし,あなたが,誰かを怨んでゐるなら,何十年後でも,そのチャンスは巡って くるだろう.なぜか.それは,二度あることは三度あるのとを同じだ.二度あっ たことは三度あるだろうと思って,期待して見てゐるからだ.あなたの心にある 怨みは,怨みを晴らす機会を常に窺ってゐる.あなたが怨みを捨てない限り,きっ と,その時が来るだらう.なぜなら,あなたの怨みはその時が来るまでずっと待っ てゐるからだ.その時に,あなたは正々堂々と正当な方法で対処しなければいけ ない.さうでなれけば,逆にあなたが怨みの因となる..

これを魅き寄せの法則といふ.厳密な法則ではなく経験則である.この法則は, 漠然とあってゐる程度だが,特に長期間で観測した場合,二度あることは三度あ るのと同じ程度に蓋然性をもつ.上は悪い意味(?)での魅き寄せの法則だが,よ い意味での魅き寄せの法則もある.あなたが,こうであるとよいことを思へば, 長期間のうちにそのようになるだらう.

応答例文集

ここでは平和と尊厳をおびやかす攻撃から心を護るための応答例をとりあげる. 体系立てで分類することもできるし,抽象化して法則にすることもできるが,さ ういふものは得てして役に立たないので,ただ,ひたすら例文を揚げるに 留める.なぜ,役に立たないのかは,思考は母語の習得と同じで,習うより慣れ ろ,であるためである.異国語や自然科学のように法則から入っても,実践が伴 なわないので法則の適用方法がわからない.身をもって知る他ないのである.ま た,人にはそれぞれ,その人の基質にあった攻撃パターンや応答方法があるので, 自分と基質が違う人のそれはピンとこないためである.たとえば,ここでは「罪 悪感による攻撃」を重点的にとりあつかってゐるが,人によっては「なにそれ, バカじゃないの?」で一蹴できる人もゐるだらう.さういふ人も違う攻撃には見 事に弱点をさらけだすこともある.つまり人それぞれであって,網羅的にして, 誰の役に立つやうしても,往々にして,誰の役にも立たないためである.

トラウマとパニック

この本は残念ながらトラウマやパニック状態にたいしてほとんど役に立たない. 第一にトラウマやパニック状態にある時は過覚醒であったり低集中力状態であっ たりして,こんな小さな字は読めない.理屈っぽいことを言われても理解できな い.

この原稿が役たつのはトラウマやパニックが来る前までだ.トラウマやパニック が来てしまった時に一番大事なことは,自分を安全に感じられるように努力する こと,そしてその努力は正しいと認識することだ.あなたが不安に感じたり恐怖 に思ってゐることは決してツマらないことではなく,確かにあなたがさう感じる に値することだ.うまく対応しようと焦ってはいけない.そんなことより,あな た自身の気分が少しでもよくなることが大事だ.走って逃げたっていいし,部屋 でうずくまっていてもいい.

反論に際して第一に確認すべきこと

反論に際しては第一に,相手の主張を正確に把握しなければならない.相手の主 張を把握せずに,自分の心の中の妄想を対手に格闘してはならない.そんなのは 無駄で,下手をすると自分が怪我をする.

かういふ例がある.あなたが女性だったとして,誰かに次のやうに言はれたとす る.

「女には探偵稼業は務まらない」
註:「女」といふところにあなたの属性(男,修士卒,関西出身,太ってゐる等々), 「探偵稼業」とはあなたがやりたい/今やってゐる仕事を代入すればよい 5

かくも言はれては,相手の悪意と無理解にカチンと來て,即座に反論したくなる 人もゐるだらう(少なくとも心の中でムカと來たり,あるいは非道く傷つくだら う).しかし,直情にかられて即座に反論してはいけない.なぜか? それは空回 りするためである.相手は「さういふつもりでいったのではない」と辯解(ある いは言い訳,言い逃れ,抗辯)するだらう.実際に当方の勘違い,誤解,曲解だ といふこともある.上のやうに云はれたと思っても,「相手の思った(意図した) こと」「相手が実際に云ったこと(逐語)」「当方に聞こえたこと」「当方が理解 したこと」とは全て異なっており,「当方が理解したこと」が「相手の意図した こと」ではない場合がある.反論が滑らないためには,正確に相手の主張を把握 しなければならない.その上で,相手の主張は是であるか否であるか,是ではな いなら如何なる理由で是ではないか,を追求すべきである.であるから,最初に 問ふべきは,

「探偵稼業とはどんな仕事ですか? そしてなぜ務まらないのですか?」

である.相手は無能あるいは熱意の低さから,仕事を定義できない場合がほとん どであり,なぜ務まらないかについても明解な回答を得ることはほとんどの場合 できない.要するに感想を述べてゐるにすぎないことが多い.誰しも感想を述べ る権利はあるので,それ自体は結構なことだが,あたかも自分の感想が絶対に正 しいかのような体裁をとってゐることが問題なのである.無能あるいは熱意の低 さかはともかく,これ以上の補足説明がない言及にこれ以上つきあう必要はもと もとない.

もし感想とわかったなら,あなたは撰択できる.この人の感想を変えるためにな んらかの行動を起こすこともできるが6,あなたは自分のやりたい ことを実現することへの影響を見極めた上で,この人の感想に干渉するかしない か,するとしたらどのやうにするか,どこまでするかを撰択できる.

「世の中はそんなものではない」攻撃

「世の中はそんなものではないのだ」
応答:
「世の中は,さういふものかもしれないが,それは正しいことではない」
「現時点では,さうかもしれないが,それは努力して変へていかなければいけないことだ」]

現実とは端的に既成事実と同一視されがちだ.そこでは「現実を見ろ」「現実的 であれ」ということは既成事実に屈伏せよ,とふことに他ならない.しかし,現 実とは与へられたものであると同時に,一方では日々,造られていくものである. したがって,「現実=所与のもの(与へられたもの)=動かないもの」といふ見方は 一面的で間違いである.現実の二面性については丸山眞男によった.

「そんなことは世界では通用しない」攻撃

`世界を知ってゐると自認する某氏'曰.「そんなことは,世界では通用しない」

この言明はよく聞くもので,権威を笠に着てさういはれると反論できない場合が 多いだろう.しかし,「世界」というのが何を指してゐるのか曖昧(語義曖昧の 虚偽)で,`世界を知ってゐる某氏'と聞いてゐる人とで同じものを考へてゐると は限らない.「世界」といふ言葉が曖昧なために,聞いてゐる人はなにかとてつ もないことを想像しがちであるが,実際は「世界」とふのはたいてい,アメリカ の誰かの派閥のことや,自分と同じ意見の人達のことである場合が多い.もっと いへば,「世界」とはその人自身のことだと思って差し支えない.であるから, このような言明には

応答:「『世界』とは,どの世界のことですか?,具体的に誰と誰のことですか?」

と聞きかへせばよい.また,

「そんなことは世間が許さない」「社会的に葬られる」

とは,ご本人が「許さない」,ご本人が「葬りたい」にすぎない(場 合がほとんど).個人が自分で考へればいいことに,わざわざ「世間」や「社会」 をもちだすのは注意をそらす錯誤(燻製鰊)であると当時に,自分の意見に自信が ないことを表明してゐる.であるから,読者諸氏は恐れる必要はない.

「世間って誰のことですか?」

冷笑屋の攻撃

冷笑屋といえば,おそらく説明は不要だらう...説明(略)...冷笑屋は虚無 主義に掴まった人達のことだ.しかし冷笑屋の行動には矛盾がある.本来の虚無 主義者は,議論や討論,人との意見交換・交流は無駄だと見切ってさういふもの には参加しないのが普通だし,彼らの主義の論理的帰結である.しかし,冷笑屋 は意外にも,そのような交流の場に出没し,参加者の発言をかたっぱしから否定 してまわる(自分が否定できないものについては無視する).おそらく,理由はか うである.生きてゐることに価値を見出せない彼らにとって,なにか価値のある と思ったことに打ち込んで情熱を傾むけ,生き生きとすることは容認できないか らだ.

彼らと,その他の参加者は同じ土俵で交渉してゐるわけではないことに注意する 必要がある.交流の場に参加してゐるように見えて実は参加してゐない.彼らは, アリの群を弄ってゐる子供に近い.人が(アリが)一生懸命にエサを運んでゐるの をとりあげてアリが右往左往してゐるのを上から見て愉しんでゐるのだ.アリに とって子供は絶対的な優位にある.アリの格好をした子供が紛れこんでゐると思 へばよい.気にいらないことは子供が絶対的な権力でもって排除する.

彼らは自分を絶対的な立場に置くことによって自分を特別な存在だと実感してゐ るのである.それは,自分は凡人であることに耐へられない不安の裏返しでもあ る.彼らがもっと上位の立場の者によってアリのように弄ばれることはおそらく 最悪のことだらう.たとへば,もっと上位のスゴイ人に「なんてバカなことやっ てんだ,アホか」と一蹴されることである.これが彼等の弱点である.

彼らも自分の弱点を把握してゐるか うすうす気がついてゐるので他者を自分よ り優位に置かない(もちろん対等にも耐へられない).そんな状況で,彼らに対応 する最良の方法は自信をもつことである.たとえば,冷笑屋に「それが絶対に正 しいとはいへない」といはれても「それがどうした?」と問い返せばよい.心あ る人は,絶対に正しいとはいへることなどないことを知ってゐる.それでも何か しらの前進を求めて行動してゐる.彼等は,そんな心ある人たちがうらやましく もあり,また脅威でもある.なにかを積極的に主張するというリスクを冒さない 彼らにとって,「これはかうである」となにかを自信をもって明確に主張する人 間は最大の脅威である.

「話にならん」攻撃

例:
「そんな意見は話にならん」
「どうして,そんなくだらない質問をするんだ」

とにかく一蹴し,一喝し,切り捨てる攻撃である.この攻撃のずるいところは理 由を述べていないところである.ご本人にとっては理由はいふまでもなく明らか, なのかもしれないが,あなたがそれを前提をする必要はない.

主張には根拠が必要である.それを提示するのは相手の責任であって,あなたが 気をきかせて理解してあげることではない.理由もなく却下されて,あなたが黙っ て引き下がらなければいけない法はない.

対策は,罵倒とか侮辱とかに対する応答を別をすれば,基本的には「ご本人にとっ ては理由はいふまでもなく明らか」かもしれないその理由を云はせることである.

「どこがどう話にならないんですか?」
「そんなことは云ふまでもない.話にならんものは話にならん」
「私にはわかりません.理由を云ってください」
「そんなこともわからんのか.お前はそれでも学校を出てゐるのか(他.侮辱の言葉)」
「わかりません(キッパリ).あなたこそ,理由も説明できないんですか」

重要なのは,あなたは焦点をあわせて一点突破で執拗に理由を訊きつづけること だ.話が逸れてはいけない.そうなったら,あなたが話を逸らしたのだ.

もし,相手が誠実に理由を陳述するなら,もちろん,あなたは傾聴しなければい けない.その主張が正当だったら,あなたはそこから学ぶべきだし,その主張が 不当だったら,今度は逆に,その主張をあなたが批評することになる.

暴言による攻撃

相手が暴言をわめきだした時は,涼しい顔をして,「すみませんが,もう一度, おっしゃってください」というのがよい.理由は云はなくてもいいが,「よく聞 こえなかったから」でも「他の聴衆が聞こえなかったようだから」でもなんでも いい.これは相手が感情的な言葉を口走った時に有効な方法である.相手の暴言 を軽く聞きながすことがポイントである.

感情に駆られて口走った激情を二度と同じ調子で繰り返すのは常人にはむつかし い.まともな神経をもった人なら内省して口ごもるだらう.

相手の暴言に乗って,こちらも暴言で返してはならない.それは挑発である.

たとへ相手に非があらうとも,粗暴な言葉で相手を非難してはならない. 粗暴な言葉は苦痛となって相手の中に残る. そして,仕返しがあなたの身に至る.(ダンマパダ)

むしろ,怒ってゐる人を見れば,かう思ふとよい.

非難の量はまさに非難してゐる人が感じてゐる無能さを示してゐる.(G.M.Weinberg)

また,善良な人は暴言を聞かされるのに耐へられないし,暴言をわめかれると圧 倒されてしまうが,実際は暴言ほど発言者の立場を決定的に弱めるものはない. 場合によっては脅迫などの犯罪に該当することすらある.ある人の暴言が知らな いうちに録音されて,それで墓穴を掘ったということはしばしばあることだ.で は,録音されてゐない環境や密室なら暴言は可能か.それは違う.悪事をなす時, 人は最大限の注意を要し,注意は継続しなければいけない.気がゆるんだ時にポ ロっと洩れた悪事の断片から芋蔓式に暴露してしまう.常に注意しつづけるのは つらい.粗雑な者には悪事は努まらない.話を戻す.たとえば密室なら暴言をいっ ていいと思ってゐるやうな粗雑な者だったら他でも粗雑に悪事の断片が洩れてゐ るはずだ.まさにその密室の暴言は取り締まれなくても,他の件でその者は墓穴 を掘ってゐるから,それを取り締まればいい.

暴言を吐くのは,なにより暴言を吐いたものにとって不利になる.

暴言は吐いたものにとってのダメージなにより大きい,それを勘違いしてはいけ ない.このようなことを踏まえると,暴言にさらされた時に繰り返させる防御以 外の防御も可能である.それは謝罪を要求するという防御である.無自覚にハラ が立ったから謝罪を要求する,というのではない.厳密に相手の暴言を悪事と認 定して追求する姿勢があってはじめて謝罪の要求は効果をもつ.相手は,謝罪に 応じないかもしれない.しかし,相手が謝罪に応じるかどうかは,この際関係な い.こちらは謝罪を要求することで相手をいはば告発し,相手が悪いと宣言して ゐるわけで,相手は自分の暴言を正当化するか無視するかに追い詰められる.暴 言を正当化することはほとんど不可能だから,無視することが多いだらう.相手 も無視することは逃げてゐると半ば自覚するので,今回はともかく,すくなくと も次回からは暴言にさらされる危険は少ない.

謝罪と要求するときは,話がブレてはいけない.謝罪してほしいことに焦点をし ぼってそこから外れてはいけない.(みんな...攻撃での問答を参照のこと)

「本当のことだから」攻撃

感情的な虐待をしておきながら,「本当のことだから」といって虐待を正当化す る人もゐる.正直の美徳というわけだ.この「本当のことだから」「正直は美徳 でせう」は隠れ蓑でしかなく,あなたがそれを真に受ける必要はまったくないの だ.問題は,「本当のこと」かどうかではなく,「本当のこと」なら何を言って もいいのか,ということだ.云はなくてもいいような悪意のある批判(実は非難) や人を打ちのめす言葉が「本当のことだから」といふ旗印のもとで口にされる場 合が少なくない.相手を傷つけるだけで,何の役にも立たない言葉は云ふ者の 「正直さ」ではなく,怒りや嫉妬を表わしてゐる.

かう覚えておくべきだ.

「本当のことだから何を云ってもよい」といふのは無神経以外の何者でもない.
本当のことだからという盾で残酷さを合理化するのは倫理の崩壊でしかない.

「お前はわがままだ」攻撃

これは相手に罪悪感に訴へる攻撃(後述)である.誰しもいくばくかの良心を持ち 合せてゐるから,罪悪感に訴へられると弱い.この攻撃にはいくつか応答の方法 がある.簡単なものは,

(1) 聞きながす.
(2) thank you for your suggestion.

である.簡単というのは双方にとってである.この攻撃は,あなたの 良心を狙ってゐる.これをよく把握してほしい.誰でも(多くの人は)「自分はわ がままであってはいけない」という方針をもってゐる.だから,「わがままだ」 と云はれると自分が悪いかのような気分になる.

しかし,自分の心を正直に観察してほしい.「自分はわがままであってはいけな い」と思うのは果して良心か?それは「人に嫌われたくない」という自分の「わ がまま」に過ぎない.どうやっても「わがまま」なのだ.私たちは,自分のわが ままから逃れられない.

次に,その「わがまま」は,自分を幸福にしてゐるのかしていないのか,それを 検討すべきだ.「人に嫌われたくない」という「わがまま」は結局,容易に他人 の奴隷になる口実になりかねない.「人に嫌われたくない」は自分を幸福にしな い.だから,この「わがまま」には退席ねがおう.ここは自分で考えて納得しな いと身につかない.

自分を傷つけることは崇高なことでもなんでもない.他人を傷つけることと内容 的にはまったく等しい

ここまで来ると,もう一つ別の応答が使用可能になる.

(3) 「その通りです.私はわがままと呼ばれることを目標にしてきました. 気付いてもらえて光栄です」
(4) 「私は,私が幸福になるために行動しています.それはわがままな行為です が,誰でも自分の幸福を追求する権利を有します」

「人に迷惑をかけていいのか?」攻撃

例:「お前のやろうしてゐることは会社(社会,組織等々あるいは私)に迷惑をか ける行為だとは思はないのか?」
「お前は自分がわがままだとは思はないのか?」
「お前は,それでも人間か?」

内容として前述した「お前はわがままだ」と同じで罪悪感に訴へる攻撃であるが, これは疑問文の形で提示されてゐるところに特徴がある.これは疑問文の恰好を しているが疑問文ではない.修辞学(レトリック)でいふ修辞疑問の一つ,反語で ある.反語とは自分の主張をあえて否定形の疑問文で提示することによりより強 く主要するレトリックである.例えば「桜を見て心動かされない人がゐようか? (いや,ゐまい.全員,心を動かされるだらう)」というのが反語だ.だから,こ れらは補完すると真意は「人に迷惑をかけていいのか?いや絶対にダメだ」「お 前わがままではないか? いや絶対,わがままだ」「お前はそれでも人間か? い やお前は人間の名に値しない」になる.これらをここでは真意命題と呼ぶことに する.

注意すべきは,疑問文は論理学においては命題ではない.だから,形式上(論理 学的には),この人はなにも主張してゐないことにあってゐる.しかし,質問の 恰好で主張されてゐるので自分の見解を述べないといけないような雰囲気にさせ られてしまう.単なる質問であれば,返答しなければ,こちらはわからない,あ るいは逃げたものと見倣されるが,このような修辞的反語は,ほとんど全ての人 が真意を悟るので,答へないと真意を認めたものと見倣されてしまう.しかし, たいがいにおいて答へにくい.結果,真意命題を認めた恰好になる.立場を変え ると,真意命題を無理やり認めさせられる.これは対話において反語が卑怯であ る理由のひとつだ.

対策:反語でモノを云ふ人間は,真意の正しさを確信しきってゐる.盲信といっ てもいい.だから,あへて,ストレートに返答してみるのが一つの方法だ.前述 の「お前はわがままだ」の応答例(3)や(4)のように,「はい,そうです」と答へ てみるのだ.それによって彼らの盲信を動かすことができる.反論されてゐるこ とに慣れてゐない彼らに反語による攻撃が無効だといふメッセージを与へること ができる.

盲信と書いたのはわけがある.もし心底,本人がその真意命題に納得してゐたな ら直接,真意命題を云ふはずだ.そうでないのは,彼らは,真意命題が論証とし て正しいとは思ってをらず,信じてゐるだけだからという可能性が高い.

罪悪感に訴へる攻撃

先に述べた「お前はわがままだ」攻撃や「人に迷惑をかけていいのか?」攻撃は, この攻撃の変種である.

例:世の中には仕事もなく,困ってゐる人が大勢ゐる.それに比べると お前は,随分恵まれてゐる.だから,お前はXXすべきだ.

分析:一読してわかるやうに,これはあなたの罪悪感に訴へてゐる.自分が恵ま れてゐるのだから罪悪感を感じろ,XXしないと,もっと罪悪感を感じるぞと脅し てゐるのだ.

正攻法的対策:もちろん,あなたは罪悪感を感じる義務はない.(1) 誰も人の感 情を操作する権利はない.あなたは,自分の罪悪感を感じることを撰択できるの だ.もちろん,感じないことを撰択することもできる.最初に,(2) なぜ,あな たが罪悪感を感じるべきだと主張するのは理由をはっきりさせねばならない.理 由も提示されないのに相手の主張を鵜呑みにする必要はない.更に,(3) 相手の 主張には,XXすれば罪悪感から解放されるとふ確かな保証はないことに注意しな ければいけない.なぜXXしなければいけないのか理由をはっきりさせなければい けない.あなたが罪悪感のためXXをしたなら,相手は今度はYYをすべきだといふ かもしれない(XXとYYにはたとえば「献金」「全財産の献金」が入る).それに, 恵まれてゐるからといって,XXしなければいけない必然性については述べられて ゐない.あなたが自分で撰択したAAAという行動だっていいかもしれない.

注意:罪悪感に煽られて相手の主張を鵜呑みにしてしまうことは,仕方な いことでもなんでもなく人として弱いことだと自覚すべきだ.場合によっては, 犯罪的な結果をもたらすこともある(YYに「反対派の粛清」が入ることだってあ る)し,結果がどうであれ,理由をはっきりさせず,納得もしてゐないのに行動 するのは無責任な行為だ.弱い人はくれぐれも注意されたい.

「お前のXXをYYしてやるためにどれだけ俺達が苦労したと思ってんだ」 攻撃

XXやYYには,「就職」「斡旋」, 「昇進」「推薦」,「成績」「向上」等の言 葉が,それぞれ代入される.

これも罪悪感に訴へる攻撃で,恩を売りつけて相手の思考を支配しやうとする攻 撃である.「お前はわがままだ」と同じで,たいていの人は多少なりとも罪悪感 をもってゐるから,このやうに言い寄られると弱いかもしれないが,これまで述 べて來たやうに,罪悪感に訴へる攻撃に屈することは間違ってゐる.

第一に,誰も他人の感情を食いものにする権利はない.恩を感じるかどうかはそ の人の裁量である.罪悪感に訴へる攻撃に対する正攻法の対策を思い出さう.

第二に,なぜ,恩だけを俎上に乗せなければいけないのか.その必然性は,人間 関係を支配する企図以外には考へられない.人間関係には恩もあるが,常に害も ある.逆に,むこうからみた恩と害もある.それらの比率はいろいろであっても, 全てを俎上に乗せ,検討することを認めるのが対等な人間関係である.

話は少し飛ぶが,「尊属殺」を「殺人」より重罪とする刑法の規定(いはゆる刑 法200条,現在は削除)が違憲になった経緯を思い出さう.尊属(親や祖父母など 祖先筋・目上にあたる親族)を殺した場合は,一般の殺人よりも重罪とされ,処 罰が重くなってゐた.一般の殺人では5年以上の期限つき懲役または無期懲役・ 死刑で情状酌量や執行猶予とつけることは裁量の範囲であるが,尊属殺では無期 懲役か死刑しかないし,執行猶予はつけれない.これでは殺されても仕方のない ような,どうしやうもない親を殺した場合でも情状酌量できなかった.ある裁判 でこのことが問題になり違憲判決が下された.

子が親に恩を感じるのは正常状態では当たり前であって,当たり前の状況では親 殺しは起りえない.それでも親を殺すといふのは恩をはるかに上まわる怨みがあ るからかもしれないわけで(もちろん,それ以外の原因もあるだらう.それにど んな理由であれ,罪が罪でなくなることはない.私は犯罪を擁護しない),状況 を考慮せずに一律に尊属だからといって,どうしようもない親を人間である以上 に保護する必要はない.

これと同じ様に,どれだけの恩をその人からもらったとしても,それをチャラに して余りある害をその人から受けてゐる場合だってあるのだから,単純に恩だけ 見て罪悪感を感じることは不当である.害を無視することを強要する義理は誰に もない.

「当方の損害を考慮しなかったら,誰でも名将です」

害を無視することを強要すれば,どんな人だって恩人である.恩を売りつけて相 手を支配しようとする人がゐたなら,その人の恩と害とを考慮してrespectに値 するかどうかを検討しなければならない.恩だけを考慮して害を無視することが あってはならない.逆もまた然り.それが自分の良心に照して判断するというこ とだ.

恩を売りつける人は,売りつけるくらいだから,たぶん恩はあるのだらう.だか らといって恩だけしかないかどうかは別である.むしろ,普通はわざわざ恩を売 らなくても恩を感じて恩に見当った行動をするもの(たとえば親の恩を子供に返 すことだって恩に見当った行動だと私は見倣す)を,わざわざ押売りするくらい だから,恩以外に押売りしなければ買ってくれない害悪を持ちあはせてゐるかも しれないと予想するのは十分に合理的で,妥当な判断だ.冒頭の質問(修辞疑問 攻撃)には,「これまであんたと付き合うのに,私がどれだけ苦労したと思って るんだ」と言い返すことだって可能である.

ここまで読んだ読者にわざわざ対策を述べることはしない.読んだあなたが罪悪 感による支配から自由になることが第一だ.

恩を押し売りして人を支配しやうとする者に警告する.恩は,恩を与へられた人 にそれなりの影響を与へる.もし,あなたが誰かに恩を打って,相手がかはらな かったなら,それはあなたの恩がそれだけのものだったといふことだ,ラフに云 へば.誰だって誰かからなにかをもらって生きてをり,誰かに何かを与へて生き てゐる.ある人がまったく恩を感じない人であっても,逆に,恩を感じないこと で,誰かに対する恩(というか仇)を返してゐるのだ.それが合理的あるいは妥当 な行動でないとしても(たいていさうだが),それはその人の人生だ(もちろん犯 罪は処罰される).それにあなたは恩返しがほしくて,恩を売りつけたのか?恩 は投資ではない(投資だって,いつもリターンがあるとは限らないが).恩は支配 の道具ではない.そんな恩ならば誰だって逃げだしたくなるのが当然だ.最後に, 恩をわざわざ指摘しなければ恩を感じないやうな相手では,恩返しなど期待する ほうが無駄といふもの.借金のとりたてみたいに,あれもこれもと恩をリストに しなければ返してくれないだらう.

蛇足:本筋とは関係ないが,冒頭の修辞疑問にある「俺達」が本当に「俺達」な のか「俺」なのかは熟考を要す.もし,その人以外はそんなに苦労してゐない, 「俺」個人の苦労なのに「俺達」と言及するなら,それは不正確な言明である. 「俺達が」ということで苦労を大きく,他の人も巻き込まうとしてゐる.実際は このようなワキの甘い言明を含むargumentを破綻されることは容易である.

「隠れてコソコソするな」攻撃

これも相手の罪悪感に訴へる攻撃のバリエーションの一つ.「正しいことをして ゐるなら隠れてコソコソしてはいけない」という道徳律を逆手にとって,「隠れ てコソコソしているということは,それは正しくないことだ」という結論にもっ ていき,相手の動きを封じ込める作戦である.この攻撃を浸透させることができ れば,相手を萎縮させることができる.それが狙いだ.

この攻撃は簡単に否定できる.たとえば,駆け落ちを事前に表明する者はゐない し,自分たちの隠れ家を公開するマキ(maquis)7もゐない.ナチが「隠れてコソコソするな」とパ リ市民に云ふのは,あまりにも下手なジョークだ.駆け落ちを事前に表明しない からといって怒る親は筋違いをしてゐる(駆け落ちそのものに怒るのは正当かも しれないが).

この例は森毅による.森毅は教授であったときに学生が事前に「出席日数が足り なくなる予定だから斟酌してほしい」だの「試験日には用事があって來れないの で追試してほしい」だのと云ってくることを嘆いて,相手(つまり森毅)が「ダメ です」といはれたら,どうするのか?出席日数を確保するつもりなのか?試験日 に來るつもりなのか?もしさうなら最初からさうせい,さうでないなら事前に甘 えたこと云ふなという趣旨のことを(ユーモアたっぷりに)云っていた.そして, 「息子や娘が事前に駆け落ちしたいと云へば,親は不許可に決ってゐる」と締め る.いふまでもないが親が許可したなら,それは駆け落ちではない.

「隠れてコソコソするな」という命題(正確には,命令)に従うならば,「隠れて」 でしかできないことは存在を否定される(例.内部告発).そして,本来公開の必 要のないはずの「隠れて」してよいことだって(例.私生活)だって存在を否定さ れる.世の中には「隠れて」しなければいけないこともあるが,それも存在を否 定される(極端な例で云へば,裸は隠さなければいけない).「隠れてコソコソす るな」は,多くの場合,個人の権利を剥奪し,管理(control=支配)を容易にする マジックワードとして機能することになる.なぜなら,「隠れてコソコソするな」 と云っている本人が自分に対して同じだけ公開しているかというとそうではない からだ.つまり,「自分に教えろ」と云っているだけにすぎないわけで,そんな ものに従う必要はない.

もちろん,隠れてしてはいけないこともあるだらう.正確には,隠れてすること を正当化できないこともあるだろう.隠れてしないほうがよい,むしろ公開した ほうがよいことだってあるだろう.だからといって,一律に「隠れてコソコソす るな」という批判はあたらない.隠れてしてよいこと,隠れてするしかないこと, 隠れてしなければいけないことだってあるからだ.自分のそれがどれに対応して いるか見極めた上で,この攻撃に対応しよう.正当な批判の場合もある.

「お前はえらいんか?」攻撃

例:ある飛行機のなかで,乗客が前の席の老人と口論になり,その乗客は足で前 の席を蹴ったり,暴言を吐くなどの横暴な行為をした(なお,航空法改正後はこ れは航空法に触れる行為である.ただし,改正後も暴力を振う乗客に対して実力 で阻止できる態勢になってゐるかどうかは注意しなければならない).スティワー デスが注意すると,横暴な乗客は
「これは俺とこいつの問題だ」といふ.もちろんスティワーデスも引き下りはし ない.横暴な乗客は
「お前は口出しできるほど,えらいんか?えぇえ!」

このような話術でひるんでしまう人は多いだらう.なんとなれば,面とむかって 自分はえらいと云へる人は少ないからである.たいていの人は,自分のことを偉 いとは云へない,だから注意もできない,と思い込んでしまう.

しかし,問題は「えらいかえらくないか」ではない.前の人の席を蹴るという暴 力,暴言を吐くことをしてよいのかしてはいけないのかである. これが論理のすりかえである. 「えらいかえらくないか」は関係ないのだから,質問に答える必要もない.

応答:「えらいかえらくないかは関係ない.席を蹴ることは暴力であり,許されない」

論理のすりかえは,相手の主張してゐる論理とは別の論理を挿入することで,相 手の論理の進行を妨害し,自分に都合のよい結論を導く方法である.知らずにし てゐる人も多いが,知ってすりかえる場合は詭弁である.論理のすりかえ攻撃は, 自分の本題からはずれないことで容易に防ぐことができる.要は,なにかありさ うなニシンに飛びつかないことである.知らずに論理のすりかえをやってしまう 人は,問題の正面からとりくんでゐるか内省することで防げるかもしれない.わ ざとやってゐる人には自分を貶める行為だと指摘するに留めやう.

ちなみに,同じことをされたある元警官は「これは暴力です.こんなことは私は 許せません.謝罪を要求します」と毅然といった.相手の主張は聞いていない点 で評価できるし,暴言には暴言で返さず,あくまで毅然と対応した点で評価でき る.

「黙って××するな」攻撃

これは,コミュニケーション(コミュニケーションはもちろんフランクでなけれ ばならない)に問題がある人間関係で,立場の弱いものが,しょうがないから黙っ たまま,なにかをすることがある.それを後で立場の強い者が非難するときに, 「黙って××するな」といふ.

もちろん,内容によっては黙ってしていけないこともある.そこは冷静に黙って してよいことなのか悪いことなのかを判断しなければいけない.しかし,より自 分に念を押してほしいのは,立場の弱い者が黙ってしたのは,それを云ふだけの ラポール(良好な人間関係)が存在していなかったからだ,ということ.コミュニ ケーションがうまくいっていない,フランクに話せない,その時点で既に問題が 生じてゐるのである.その時点でミサイルは発射されてゐるのである.黙って× ×して問題が表面化したのは単に着弾したからに過ぎない.

部下は飼犬ではないが,

飼犬に手を噛まれるのは主人に問題があるからだ,
という警句を忘れるべきではない. 立場が上の人は猛省を要すし,立場が下の人は,必要以上に自分を責 めることはない.

マーケティングの法則:
客はあなたの店(商品,宣伝等々)のどこが悪いか決して語ってくれない.
ただ,黙って立ち去るのみ.
というのがある.立場が上の人間は,したがって自分のどこが悪いのか誰も面と むかっては指摘してくれないために,フィードバックしにくい. 注意しないと売れない店の店長になってしまう.部下は黙って立ち去るのみ.

権力は堕落する.なぜなら権力が徹底的に堕落させるものは観察を意味づける能 力だからだ.(G.M.Weinberg)

補説「黙って××すべき」場合

あなたが,なにもかも報告あるいは公表しないといけない,「黙って××すべき ではない」と思ってゐるとしたら,それは勘違いである.むしろ,報告してはい けない場合もある.なんでも報告・公表しなければいけないといふのは,次のよ うな教育訓話に端的に示されてをり,ここで批判する.

北アルプスおよび黒部峡谷に物資を届けるヘリ会社が安曇野にあった(北アルプ スに登山した人ならよくご存知だらう).ある晩,黒部峡谷の建築現場から電話 があった.内容はこうであった.作業員が大怪我をして,2〜3時間以内に専門の 治療をしないと死んでしまう.ヘリで麓の病院まで搬送してくれないか,といふ. ヘリ会社は躊躇した.なぜなら,夜間の黒部峡谷でのヘリの航行は航空規則で禁 止されており,ヘリを派遣することはできないためだ.規則に違反するが,社長 とパイロットはヘリで救出にむかふことにした.通常,飛行する場合,フライト プランを羽田の管制官に提出しなければいけない.今回は規則違反なので,副パ イロットがフライトプランを提出することに反対した(受けつけてもらえないた め)が,パイロットは「法は法だ」といって,提出した.管制官は事情を聴いた 後,「人命は法より重い」といって許可した.そしてヘリは黒部峡谷に飛びたっ た.

よくありさうな訓話であるが,実は重大な問題を含んでゐる.読む方は美談に惑 はされて,どんなことでも報告・公表しないといけないと思い込まされる.

問題は,パイロットの側と管制官の側,両方にある.

まず,管制官の側から述べる.管制官の立場としては規則に照らして,「行くな」 としか云へない.上述の逸話のやうに許可してしまえば,許可した責任がある. 管制官は責任を意識して許可したのか.意識した場合,自分の責任はどこまであ ると考へたのか?(この短編の逸話から読みとることは不可能である).

次に,パイロットの側の問題を述べる.こちらのほうが重大である.もし管制官 が許可しなかったらパイロットはどうするつもりだったのだらうか?「法は法だ」 といふのだから認められなかったら飛ばないつもりだろう.単純に考へるとさう なる.しかし,判断の順番からして,パイロットは救出に向うことを決めてゐた のだらう.止められても救出に向うならば,「法は法だ」といふ自分の信念に反 することは云ふべきではない.おそらく「一応連絡しとく.許可されなくても突っ 切る」といふのが信念の表明だろう.

また,「法は法だ」といふのは調子がいいが,規則違反を知った上でのフライト プランの提出は,実際は管制官を巻き込む,つまり連帯責任にする身勝手な行為 である.それを見越して提出したなら,規則違反の責任を管制官にも負はせやう とする,つまり違反の責任を転嫁する卑怯な行動である.管制官からすれば,そ んなこと云はれたって困るだけである.規則に照らせば許可できないし,許可し ないとしたら,人命救助を妨害してゐるやうな感じになるし...しかし,それ は感じにすぎない.作業員の人命も重要であるが,パイロットの生命も重要であ る.渓谷が夜間飛行禁止になってゐるのはそれが危険だからである.許可すると いうことは管制官が,パイロットの安全は確保されないが,それでもよいといふ 判断をしたことになる.その権限は管制官にあるのか(これ以上はこの逸話から 読みとれない).

この事例では,フライトプランの許可を求めるべきではない.むしろ,求めては いけない.上で述べたやうにそれは身勝手で,わざとなら卑怯な行為だからであ る.さうでなくても自分の責任と相手の責任に含ませる無責任な行為だからであ る.世の中には,黙って××したほうがよいこともあるのだ.いや正確には違う. 正しくは,世の中には,黙って××しなければいけないこともあるのだ.これに 気がつけば,「隠れてコソコソするな」攻撃にも十分対処できる.同じことだか らである.

「そんなこと云ふと後で××がなにするかわからないわよ」攻 撃

この発言は忠告のつもりかもしれないが,はっきり云って××に加担してゐる. 云ってゐる本人には自覚はないかもしれないが.××の恐怖を煽ることによって, 結局××の抑圧を肯定し,××の支配力の強化に貢献してゐる.××はなにも手 を下していない.忠告者が××の手先となってゐるのである.××は一人である が,忠告者は10人にいれば××の攻撃力は10倍にならないにしろ増してゐる.

云ってゐるご本人は気がつかないだろうけれど,その人は××の支配に服属して ゐる憐れな人だ,と思ってほっておくのが一番よい.なんせ,ご本人はよいこと をしてゐるつもりなのだから,水を差すまでもない,ご本人が望まない限り.

逆に,忠告したご本人も××の支配から逃れたいと思ってゐるのなら,「忠告の つもりでも,それが××に加担してゐる」と簡潔に伝えるのは役立つだらう.

口を聞かない理由

口を聞きたくない人がゐる時,理由を説明しなければならないかのやうな錯覚を 覚える人がある.

「どうして○○について云はなかった?」
「私はあなたと口を聞きたくないからです」
「なぜだ?」
「それはプライベートなことなので,お答えする必要はありません」

これは強烈な拒絶であるから,使うほうは用心して使わなければいけないが,プ ライベートについては聞かれても答える義務がないことを覚えておいたほうがよ い.

「私がどう感じてゐるかは,私のプライベートなことですから,それを公表する かどうかは,私の自由です」

曖昧な指示

上司が曖昧な単語だけ並べて指示を与へ,解釈を部下に委ねる,といふことはし ばしばある8. 部下と上司との間で良好な人間関係があるなら,曖昧さをお互いに紐解いていく ことができるだらう.しかし,良好な人間関係がないなら悲惨だ.部下は,上司 に単語の具体的な意味を尋ねることすらできないまま,曖昧な単語が意味してい るだろうところを整理し,明確にしなければいけないかのような錯覚に陥ゐる. そして,その整理やら解釈を間違えた場合,それは部下の失敗であって,指示を 出した上司の失敗とは見倣されない(真実は,部下の失敗であると同時に上司の 失敗でもある.).

しかし,よく考へてほしい.上司は説明する手間を惜しんで曖昧な単語を羅列し, 部下はその`後始末'をさせられてゐるわけだ.部下の解釈が気にいらなければ, 上司はいくらでも文句をつけられる.これは明らかに公平性の原則に反する.ま づ,部下が理解すべきは,このようなやり方は間違ってゐることである.そして, 勇気がない者には現状を変えることができない.勝手に変ってゐるということは 期待できない.

ダブルバインド

ダブルバインドとは,言語学や社会学,コミュニケーションの理論家であるグレ ゴリー・ベイトソンが精神疾患とりわけ統合失調症を説明するために提唱した理 論である.精密正確な説明はベイトソン著「精神の生態学」など原著にあたって もらうしかないが,ここではほんの触り,あるいは筆者の曲解だけを述べる.

例:指導教官が学生にかう云ふ.
「ダレソレ先生のところでもどこでも自分の役に立つなら自由に聞きにいっ ておいで」
実際に,聞きに行かうとすると機嫌が悪くなる.
例:上司が部下にかう云ふ.
「給料もらってゐるんだから,自分で考へて行動しろ」
で,実際に,自分で考へて行動すると...(笑)

いはゆる,「云ってゐることとやってゐることが違う」状態である.人間は完全 ではないから,云ってゐるやうには行動することはできない.だから単に行動で はなく,正確に云へば「云ふことで伝えるコミュニケーションと,それ以外のコ ミュニケーションが違う状態」である.端的には「云ってゐることと態度が正反 対なコミュニケーション」のことである.「メッセージとメタメッセージとが正 反対なコミュニケーション」である.もちろん,相手のほんたうに言ひたいこと (本当に云ひたいこととは何かがまた問題であるが)は,態度あるいはメタメッー ジにある.

指導教官の例で云へば,強引に聞きに行ったら機嫌が悪くなって居づらくなる. かといって,聞きに行かなかったら(研究が進まないので自分は困るが,それ以 外に),「オレの自由な学風を理解しない」と当の指導教官に批判される.表向 きのメッセージ(言語的なメッセージ)と,態度といった非言語的なメッセージと で乖離しているのである.

ダブルバインドのミソはどっちに転んでも,云った側が損(?)をすることはない, 逆に,解釈する側はどっちに解釈しても害を被るところにある.最初から,犠牲 者の席に着席させられてゐるのである.相手を精神的に追いつめる際に,加害者 としてダブルバインドを無意識に適用する人も多いだらう.ダブルバインドにひっ かかると自分の無力感に絶望することになり,精神的に支配されるやうになる.

支配されるだけで終わりになるわけではない.かういふコミュニケーションばか り強制されると,被害者は精神的に追いつめられ,次の3パターンのどれかの困っ た状態に落ち込んでしまう.パターン1 コミュニケーションの言語外の意味に固 執する.たとえ,メッセージが逐語的な意味しかなくても(言外の含みのない単 純・卒直なメッセージでも裏読みをしてしまう).パターン2 メッセージの逐語 的な内容にのみ固執する(云ったことしかわからない融通が効かない人間になる). パターン3 コミュニケーションそのものを拒絶する.パターン3は人に会わない ようになる場合もあるし,人と話をする時に,やはりダブルバインドのメッセー ジや支離滅裂なメッセージを発信(つまり,どちらも理解に苦しむメッセージを 発信)するようになる場合もある.

ダブルバインドのメッセージを受ける犠牲者は精神的に統一性(非学術的な用語 として)を喪ふが,ダブルバインドのメッセージを発信するものはそもそも精神 的に統一を喪ってゐる.彼自身からして,自分を欺いてゐるのである.その者は 自分のダブルバインドに気がついてゐないか,気がついてゐないフリをしなけれ ばならない.なぜなら,自分のダブルバインドに気がついてゐながら,そのまま にしつづけることは大きな矛盾である.自分がどうしたいのか統一されてゐない といふことである.矛盾があると知りながら,ダブルバインドを使いつづけるの は自己欺瞞がなければできない.何らかのウソで正当化するのである.あるいは, 自分の能力を下げて矛盾に気がつかない愚かな人間にならなければやっていられ ない.丁度,暴走気味の原子炉で,警報ばかり鳴って運転に支障があるから,警 報を切るようなものである.それは致命的である.彼の末路はあへて述べるまい. 自己欺瞞でごまかしても同じである.いづれ,自分の能力を切り下げて真実を見 る能力を放棄するしかなくなる.自分がついたウソすら認識できなくなるわけだ から病膏肓といへる.

ダブルバインドは力関係が上司と部下,教官と学生,親と子で大小があるから成 り立つのであって,力関係が逆転すればそもそもダブルバインドはなりたたない. 云った側がどっちに転んでも損をしないこコミュニケーションというのは,力関 係は反転すれば,云った側はどっちに転んでも損をするコミュニケーションにな るからである.

対策:ダブルバインドから逃れる方法は調べた限りでは,逃げるしかないやうだ. 筆者もそれ以上によい方法を思ひつかない.

なお,ダブルバインドに見えて,ダブルバインドではないこともある.上司のは うの例で説明する.自分で考へた結果,とんでもない行動をとったので,上司が 不機嫌になるという場合がある.これは「自分で考へること」に対して上司は腹 を立ててゐるわけではないのでダブルバインドとは云へない.上司自身が自分が 何に対して不機嫌なのか内省して,自分がなにをしたいのかを明確に把握してゐ ないとダブルバインドではないが,どっちにしてもコミュニケーション不全に陥 いる.

人口に上ることも多いので,誰が提唱者が知ることもなく使はれてゐることが多 い.ダブルバインド理論はコミュニケーション不全理解のキーになる理論なので, 各自が独自に研鑽を深めることを願う.

沈黙による攻撃

例へば,黙って怒りを表現する上司.

腹を立ててゐることは誰が見てもわかるが,声に出すわけでもなく,具体的にな にが気にいらないのかが,まわりのものにはわからない.その人の沈黙はどんな 悪口よりも,どんなどなり声よりも苦痛に感じる……といった経験はないだらう か?

その怒りを秘めた(実際は秘めていない)沈黙の解釈は部下に全て任されてゐる. 何が気にいらないか自分で説明しないで,相手に考えさせやうとしてゐる.事情 を明らかにしないことで上司は主導権を握ってゐるのである.

「自分のしたことを振りかえってみろ.それで何が悪かったか自分で考えろ」

部下に考えさせるだけ考えさせておいて,気にいらなかったらreject. いふまでもないことだが,よかったかわるかったかを決めるのは自分である. 沈黙によって何かが悪かったことを示唆されたからといって,悪く思はなくていい. 明示的に「それが悪い」と指摘されてから検討すればよいことだ.

これに対する防御を考案する前に,まず分析しよう.この沈黙による攻撃の理由 は

  1. 主導権を握ってゐたい.
  2. その上司はもし本心を表わしたら,あまりの激しさに相手はビビってしま うだらうと考えてゐるかもしれない.
  3. 逆に自分の弱さを恐れてゐるから,かもしれない.口論になっても正当性 を主張できる自信がないのだ.慘めに負けるのなら黙って威圧したほうがよい.

皮肉なことに,どの理由であったとしても攻撃者は弱い人間であるという結論に なる.第一の主導権を握っていたいと思うのは弱さであるし,第二の怒りのすざ ましさに相手がビビってしまうというのは,たいそうな己惚れだ.実際は怒りは 怒りでしかない.自分の怒りを過大評価することで自分の自信のなさを補ほうと してゐるのだ.

結論として,黙った怒りを表現する人物は怒りを正当な形で表明できない憐れな 人物なのだ.友人や家族でないかぎり,かかわる必要はないが,職業上やむえ得 ず,かかわらざると得ない人もゐるだらう.この種の攻撃は,怒りっぽいのより も質がわるい.うまく付きあっていける対策はないが,沈黙した怒りに追従しな いことが重要である.一つの方法は自分もしゃべるのをやめてしまうことだ.そ の場を離れる方が簡単かもしれない.無視するのも手である.「あなたのように 黙ったまま不機嫌でいられても,なにもわかりません」と,いへるものなら云っ てみたい,無視したくてもできない人もゐるだらう.黙った立ち去るのが一番楽 だが,自分の大切なものを護るためには,あえて云ふ必要がある.黙ってゐたま までは自分の尊厳を護れない時がある.その時でも,その人物は憐れで愚かな人 間であって,自分のほうが強いことを忘れないでほしい.

「そんなんではやっていけない」攻撃

例:あなたが自分の夢とか希望について語ってゐる,あるいは,あなたが自分の 生活リズムやパターン,習慣について語ってゐる.
「そんなんではやっていけない」

これは,前に述べた「世の中はそんなものではない」攻撃や「そんなことは世間 では通用しない」攻撃と同じパターンで,

(1) 聞きながす.
(2) そうですか.
(3) thank you for your suggestion.

で,かわすのも一つの方法(この方法は弱い攻撃には万能)だが,違ったアプロー チもある.

「やっていけないかどうかは,今の話題とは別の問題です.話をそらさないで下 さい.」

あなたは相手に,自分の夢が実現可能かどうか批判してくれ,と頼んだのか. 頼んでいないのに,こっぴどく批判するのは余計なお世話だ. さらに強い方法もある.

「やっていけるか,いけないかの意見をあなたに求めてをりません」
「その話題については議論しません」
「なにをするか,なにをしないのかを決めるのは私です.やっていけるか,いけ ないかを判断するのは社会です.あなたではありません」

最後に相手の背景を分析してみる.ひょっとして相手は夢を断念した負い目があ るのかもしれない.夢を捨てた人は執拗に批判的になる.そうでなくても人の夢 に水をかけたり,ことさらに人を否定するのは強い人間のすることではない.だ から,相手のことを強いと勘違いするのはやめなさい.

命令・依頼のトリック

命令文は3つのパターンがある.1つは願望,2つ目は達成の命令,3つ目は過程の 命令である(仁田義男9).この3つは混同され得るものであり,また,聞く方を混乱 させる意図でもって敢て紛らわしい使い方をする人もゐるので注意が必要である. 次に,内容を簡単に説明する.願望とは「雨,雨降れ降れ,もっと降れ」の文の やうに,命令文の対象者(この場合は,雨)が自分の意思で命令を遂行実現するこ とができない場合である.相手が相手の意思でさうならないのだから,命令は単 に命令した人の願望を表明するに過ぎない.2つ目の達成の命令は「あっちに行 け」のやうに,対象者がやる気になれば命令を実現できるものである.つまり, 命令文は命令した内容の達成を命令してゐるわけである.3つ目の過程の命令と は「元気になれ」「落ち着け」「くよくよするな」のやうに,対象者の意思では どうにもならない命令である.「元気にならう」と心に決めたからといって元気 になるわけではないし,「落ち着け」と云はれて落ち着くのであれば誰も苦労は しない.このような命令は自分の意思のともに実行・達成できるものではなく, 命令が示す状況の達成に向けての過程の段階を遂行することである.「落ち着け」 は言いかへると「落ち着くように努めよ」である.

日常生活ではこの三者,特に達成の命令と過程の命令はしばしば混同されてゐる.

執権「千早城10を攻めよ」
執権「千早城を落とせ(制圧せよ)」

日常生活では有り得ない例文を出したがご寛容ねがいたい.「攻めよ」は,やる 気になれば攻め得る.効果的かどうかは別として竹槍突撃でもバンザイ突撃でも 命令を実行することは可能である.だから,これは達成の命令である.一方の 「落とせ」は,相手のあることだし,命令を達成できるかどうかは状況次第であ り,受令者は「千早城を落すべく,攻める」ことしかできない.つまり制圧は努 力目標であり過程の命令である.前者は,攻めなければ命令違反であるが,攻め た結果敗退しても命令違反にはならない.一方,後者は「千早城を落すべく,攻 め」たが,落とせなかった場合には命令違反なのか微妙である.過程の命令であ るならば,「がむばったんだから,それでいいでせう」といふことで命令違反に はならないが,これを達成の命令と考えれば,落せなかったといふ結果は命令違 反である.

では,次の例を見ていかう.

部長「会議で決まった販促プログラムを来月実施せよ」
部長「来月の販売量を先月の2割増しにせよ」

前者は決まったプログラムだから,やる気になれば実施することはできる.した がって達成の命令である.後者はやる気になっても達成できないかもしれないの で過程の命令である.普通は,部長の威勢のよい努力目標だと解するだらう.し かし,命令した部長はこの区別をしてゐないかもしれない.こうして見ると, 「千早城」とあまり違はない.

「会議で決まった販促プログラムを来月実施せよ」と云はれて,その通りにしなかったことを命令違反だと非難されるのは仕方ないかもしれない.しかし, 「来月の販売量を先月の2割増しにせよ」と云はれて,その通りにならなかっ たからといって命令違反だと非難されては,たまったものではない.であるか ら,自分が命令された場合や人から依頼を受けた場合は,どこまでしてほしいの か達成か,過程でもいいのか,よくよく確認しなければならない.また,自分が 相手に依頼や命令する時にも,この命令は達成か過程かはっきりと相手と合意し なければいけない.

たとえば,「営業成績を倍増させよ」と上司に云はれて「営業成績を倍増させる ように努めます」と返事すると「ヤル気がない」と批判されることがある.批判 してゐる人は言葉のトリックにひっかかってゐるだけで,言明に瑕疵があるわけ ではない.むしろ正確な言葉遣いである.無意味で威勢がいいだけの言葉を述べ ておけば,その人たちは納得するのかもしれないが,あまり気持ちのよいもので はない.また,言葉のトリックで自縄自縛された環境には長くゐないはうがいい かもしれない.さういふ環境に長くゐると,その構成員同様,自分も自己欺瞞体 質になってしまふから.

逆に,達成の命令なのに勝手に過程の命令に誤読して「会議で決まった販促プロ グラムを来月実施する努力はした」といふ言い訳の余地もある.真面目に 実施しようとしたが自分の意思とは関係ないところでできなかった場合もあるか もしれない.この場合は,達成の命令だと思ってゐたがフタを開けたら過程の命 令だったといふことになる.達成と過程は端成分であるが,どちらつかずも多く ある.であるから,命令・依頼に齟齬が生じないよう,発令者も受令者も注意し て過程を追う必要がある.達成が不可能になった命令は撤回するなり,過程の命 令に格下げするなり,いっそ,単なる願望の表明にまで取りさげるなど調整が必 要である.

最初の願望もクセもので,相手に意思がない状況,発令者の意思では達成できな い状況は願望であるが,ある命令文が達成の命令か過程の命令か単なる願望かは 連続的に推移する.そのため,この三者にはグレーゾーンが存在する.野球の試 合で観客が「打て!打て!江夏」と叫ぶのは願望であるが,監督が「江夏,打て!」 といふのは過程の命令かもしれない.命令権がなければ願望だと解釈することは 可能であるが,命令権自体が命令文を命令と解釈させる権限のやうなものだから, 循環論法になる.江夏氏の親御さんが「ここでバントしろ」といふのは命令だろ うか? 命令か願望かは親御さんとご本人との関係によるし,社会が儒教文化か 個人主義文化かなど社会制度・文化にも依存する.ご本人が命令と思っても相手 は願望のつもりだったかもしれない.

食堂で隣りあわせた部長が一言,「水が飲みたい」

これは願望か命令か? 部長との関係にもよるが大方の社会人としては,願望と 解して好意で水をもって来てやるか,命令と解して命令を実行するか,聞き流す, または聞こえないフリをするか,になるだろうが,そもそも,この部長のように, 命令権がありさうな人は願望か命令か無自覚に言葉を発すべきではない.聞いた 人が混乱する.混乱した場合は,些細な件では大人らしく聞き流すか,重要な件 では確認を取る必要がある.欧米のタテ社会系ドラマ・映画ではしばしば「それ は命令ですか?」「これは命令だ」というセリフがある.日本ではむつかしいか もしれないが,あえて相手に言質をとらせる意味で訊いてみたはうがいいかもし れない.さもないと,後で「あれば部下が勝手にやった」「さういふことを云っ たかもしれないが,それは単に願望の表明で命令ではない」などと逃げられるか もしれない.

補足:日本語とは言いかげんなものだとがっかりするのは早計である.どの言語 も多かれ少なかれ曖昧なところをもってゐるし,曖昧さ故に文脈や類推に支えら れて効率的に運用できる状況のはうが多い11.たとえば命令のレベ ルを状況にあはせて格下げすることは命令文が曖昧だからこそできることである. 言語の要は如何に効率的つまり我々の意図に沿って,納得できる格好で運用でき るかである.

最低条件を最高条件にすり替える詐術,あるいはその逆

例:
相談者「母親はずぼらで,私が子供のときに全然,子育てらしいことをし てくれたことがない...(お風呂で身体を洗ってもらったこともない.看病も してくれない.出産の時も病院に來てくれない等々具体例を述べる)...母は 年老いて私を頼るが,私には怨みがある.そんな自分が嫌いだ」

回答者「あなたは,母親はいついかなる時も慈愛に満ちて完璧な子育てができる はずだという神話に取り付かれてゐるのではないか.母親も完全ではない,一人 の人間.長所も短所もあり,子供の愛し方もそれぞれ異なってゐる.母親だって 頑張ってゐるつもりでも,子供を傷つけてゐることもあるだろう.あなたの理想 は脇において,産み育ててくれた人を受けいれる努力をしてみるべきだ」

これはある日,新聞で見掛けたものを改変したもので,別に登場人物は母親でな くともよい.「父親らしいことをしてもらったことがない」でもいいし,他の人 間関係にも当て嵌るだらう.重要な点は,相談者が母親に最低限の母親らしさを 求めてゐるのに対して,回答者は母親に理想像を求めてはならないと回答してい るところだ.これでは相談者が母親に理想像を求めてゐるように論点がすり換はっ てしまってゐる.なにかを抗議する時にこちらが最低条件を求めてゐるのに最高 条件を求めてゐるかのやうなすりかえは起り得る.いつの間にか,こちらがとて も尊大な要求をしてゐるように話が換はってしまうのだ.しかも,その時に二者 択一しかないような雰囲気になることがある.さういふ風になってしまったら, こちらは要求を引込めざるを得ない.

対策:まづは論点のすり替えに気がつくことである.たいていの場合は直感的に なにか話が違うといふことに気がつくだらう.問題は,どこが違うかを明示的に 説明できるかどうかだ.そのためには自分の条件に焦点を絞ること.自分の焦点 がブレてはいけない.そんなことをしてゐると「私は何を主張してゐたんだっけ?」 ということになる.

実際問題として,すりかえをやってしまう人間に理解させるのはむつかしいし, もし理解させることに成功したとしても,自分が望んでゐたカテゴリーの回答は 得られる可能性は少ない.上の例では回答者に理解させることはむつかしいし, 「自分が嫌いだ」という訴へに対して,相談者にとって有効な回答は期待できな い.この場合,回答者は単に回答者であって,回答をする以上のことは必要ない し相談者も求める権利もないが,これが交渉事であったなら(たとえば回答者が 相談者の母親であった場合),相手はまづ理解しないし,理解したとしても容易 には,相談者の要求を受けいれない(心をいれかえて謝罪したり,母親らしいこ とはしない).人間は自分が望まない限り説得されない.それは回答者も相談者 も同じ.だから,相談者としては自分の条件に焦点をあはせつつも,相手……す りかえをするような相手なら……に理解を求めるのではなく,機械的に達成可能 な条件を求めるべきだ.

いくつも理由を疊みかける攻撃

いくつも理由をたたみかけて,理由の多さで強制しようとする攻撃がある.理由 が多いと攻撃力が増すと思う人もゐるかもしれない.たしかに理由の多さによっ て「議論の厚さ」や「論証の厚さ」が増すこともしばしばある.しかし,理由が 多ければ攻撃力が増すと考えるのは早計である.

もっとも簡単な場合は,理由同士が対立してゐる場合である.

例:ある収賄事件の容疑者英.相手の某との収賄現場となった会合について
A 英「当日,私は自宅にゐた」
B 英「会合には某氏は來てゐなかった」
1 英「私は某氏とは面識がない」
2 英「私が受けとったのはカステラであって,金銭ではない」

自宅にゐたといってゐる(A)のに会合の出席者の話をする(B)のは致命的である. あとから誰かに聞いたのかもしれないが,さうなら「來てゐなかったと聞いてゐ る」とすべきで,断定調で「來てゐなかった」と言明するのはおかしい.どちら にしてもそれは当人が言明すべきことではない.1, 2は微妙である.面識がない 人から贈りものを受けとるっていうのは常識的にはおかしいが,収賄事件の容疑 者になるやうな社会的地位のある人には感覚として おかしくないことかもしれ ない(笑).

巧妙だが理由が対立してゐる場合もある.理由の些末な内容ではない.理由のも とになった背景思想が矛盾してゐる場合である.

例:
甲「この仕事は社会にとって重要であるから やらなくてはいけない」
乙「この仕事をすれば,会社で優遇するし,昇進もある」
丙「状況的に我々としても,やらざるを得ない」

この例では甲の論法が,云はば重要性を語ってゐる(ここでは本質論と命名する) のに対し,乙は利益で釣る論法である.甲にしたがへば,会社で冷遇されようと 左遷されやうとその仕事はやらなくてはいけない.乙にしたがへば,重要であら うとなかろうと自分に得にならないことはやってはいけない.丙[状況的にみて. ..] にゐたっては最悪である.誰もが状況から自由になれないのは当然のこと だ.それを殊さらに言明することで,自分(丙)は無力だ,状況の奴隷だと告白し てゐるに過ぎない.だからといって,あなたまで無力である必要はないのだ.

甲乙丙を違う人が述べるのならいい.同じ人物が甲乙という背景の思想が相容れ ない2種類の論法をつかうことは問題がある.人は己れの思想(個性)に基いて行 動するとするなら,背景思想(性格)の異なる論法を使うことは,すくなくともそ の思想を表明してゐるのではない.簡単にいうとウソをついてゐる.おそらく, 発言者はどちらの言明も正しいとは思っていない.単に「なにがなんでもやらせ たい」ということが透けてみえる.ちなみに丙は甲乙どちらとも相容れない.

対策:これまで述べたやうに理由が本質的に違うのなら,その人はウソをついて ゐる.個人的にはウソつきと付き合っても得るものはないと思ってゐる.読者諸 氏にもそのように勧めるものであるが,人間関係,選らべない場合がある(むし ろ,その方が多いかもしれない).この場合にやうに相手が何かを説得しようと してゐるならば相手の矛盾を問い返すことも一つの方法だ.もし聴衆がゐるなら 聴衆に矛盾を訴へる方が本人に問い返すよりも効果的に防衛できるだらう.ただ, 実際問題は,この矛盾は「この人は近付くべきではない」というサインにしかな らないことが多い.

「みんな...」攻撃

例:
甲「みんな,お前がおかしいといってゐる.XXさん(権威ある人)も,お前がおい かしいといってゐた」

相手がハッタリで云ってゐることに……むつかしいかもしれないが……気がつか なければいけない.もちろんハッタリでない場合もある.しかし,さういふ時は 概して相手は冷静である.相手が追い詰められた時に云ふ場合は

乙「さうですか.どなたが私をおかしいといったのですか?」
甲「だから,みんなです.XXさんも」
乙「XXさんが,私をおかしいとおっしゃったのですか?」
甲「いいました」
乙「それでは,XXさんに真意を問い質しに行きましょう.XXさんは,私をおかし いとおっしゃったのですね?」
甲「...でも,みんな,おかしいといってます」
乙「みんなって誰ですか?」
甲「YYさんも,ZZさんも...」
乙「YYさんやZZさんが,私をおかしいとおっしゃったのですか?」
甲「おかしいというか」
乙「YYさんやZZさんが,私をおかしいとおっしゃったのですか?」
甲「...」
乙「誰が私をおかしいとおっしゃったのですか?」

とにかく,この確認作業を繰り返す.結局,おかしいと云ってゐるのは当人だ. 意見を主張する自信がないから,権威づけようとする,誰かが云ったことにする. ここで主張の要点を絞って話を逸らさないことが重要.さうしてゐれば相手の言 動にまどわされなくなる.非道い罵声を浴せられることもあるかもしれない.そ れでも,あなたが見据ゑるところは,相手の発言の確認作業である.人間はハッ タリを通すことができないやうになってゐる.だから最後まで言い切ることはで きない.

それに,3人がおかしいといってゐたとしても,3人はみんなとは云はない.

「はぐらかし」`論法'

これは,実際には論法の名には値しない.かといって攻撃でもない.なお,ここ では私は立論として見るべきものがあるものを論法とよび,立論として妥当では ないが相手を攻撃する言葉の使い方を攻撃と呼んでゐる.これは積極的に攻撃す るものではないので攻撃と呼ぶには不適当であるが,論法と呼ぶには稚拙なので, `論法'とした.

「はぐらかし」……あへて説明するまでもないが,説明しよう.ある人が答へた くない質問をされた.その質問には回答しなければいけない.そこで,回答と称 して,質問の内容とはほとんど関係のない事柄を,だらだらと答へる.もちろん, それは質問者の訊きたかったことではないから,再度,質問者はより強い調子あ るいはより明確な言葉で質問する.回答しなければいけないが,答へたくないも のは答へたくないから今度は,先程の回答よりも若干,質問の内容と関係があり そうな,それでも実際はなんのメリットもない情報を長々を説明するのである. これが「はぐらかし」である.そのうちに質問してゐた人も疲れて,もういいや, となってしまう.あるいは回答の中の些末なネタに誰かが飛びついて議論が他の ところに行ってしまう.

分析:「はぐらかし」と知って「はぐらかし」てゐる人もいれば,知らずに「は ぐらかし」てゐる人もゐる.知ってゐようとゐまいと,「はぐらかし」をする人 に共通するのは勇気のなさである.事実を直視する勇気のなさである.答へたく ないなら「答へたくない」と云へばよい.それすらできないのだから相当重症だ らう.基本的に「はぐらかし」をする話者は対話をすることを拒否してゐるか, 拒否してゐるとは明言しない.そこにもどかしさがある.

「はぐらかし」をする原因は勇気のなさ以外にもあるかもしれない.「はぐらか し」によってなにかその人に利益があるのではないか?「はぐらかす」ことはそ の人にとっては十分妥当な行動なのではないか?だとしてら,それは何か?と考 へてみることも必要である. この場合,相手の気持ちになって利益を計上する ことが重要だ.というのはそれが本当に利益なのかはあやしいからだ.たとへば, 「はぐらかし」て答へないことによって短期的には,回答しないですむというメ リットがあるかもしれないが,長期的に見て相手に愛想をつかされるというデメ リットがあるかもしれない.少なくとも,誠実でない対応をすれば誠実でないと いう評判はついて当然だろう.合理的に考へれば,全然妥当ではない行動だが, 相手にとっては妥当なのだらう.つまり,わざわざ「はぐらかす」ためには相手 なりの価値観(あるいは無自覚)があると考へるべきで,相手の気持ちを推し測る ことが必要である.

対策1:勇気のない人,対話する気のない人と付き合っていてもなにも得るもの はない.付きあはなくて済むなら,G.M.Weinbergのいふやうにその人の部屋から 笑ってドアを閉めて立ち去るがよい.さうでないなら...

なにか有益なことを答へてもらはうという期待は捨てること.次に,相手に要求 することを本当に機械的にできることだけに限って質問すること.

対策2 諦められない場合:「はぐらかす」ことによって相手が得る利益はなにか? もちろんケースによって異なるが,その利益が無効になるまで「はぐらかし」つ づけるだろう.たとえば,「はぐらかす」ことによって質問に回答せずに済む, という利益があるとする.質問しても「はぐらか」されるので疲れる,そして諦 めるわけである.諦めたところで「はぐらかした」側が特に大きな損をしない限 り,「はぐらかし」をやめるインセンティブにはならない.ただ,ひたすら面倒 くさいが「はぐらかし」ておけばいいわけだ.彼は「はぐらかす」ことで,その 場を逃げおおさうとしてゐるだけだ.それは勇気がないせいもあるが,この場合 は戦略として取り扱った方がよい.つまり,こちらは「はぐらかし」戦略自体を 攻撃しなければならない.

対策2-1:相手が「はぐらかし」を重ねてとにかくこちらが疲れるのを待ってゐ る戦略に出た場合,こちらはそれを見抜いて,持久戦の用意をする必要があるか もしれない.押し問答を延々を続けて,逆に相手が「はぐらかし」に疲れるよう に誘導する戦略である.相手が先に折れる可能性もあるが,こちらが先に根負け するかもしれない.どちらにしてもかなり時間をとられるので覚悟が必要.そし て「はぐらかし」につきあう場合は,怒ったりイライラすることは不要.そんな ことで心を消耗すべきではない.そうでなくても,時間も神経も消耗する対策は 下の下の対策であって最後の手段にとっておくべきだらう.(が,対策として保 有してゐることが重要.)

対策2-2:相手が「はぐらかし」を重ねることがデメリットになると相手が理解 すればよい.と,いふはやさしいが行ふは難し.ケースバイケースなので,共通 することだけ述べる.相手への対策は結局,対策1と同じになるが,たいしたこ とはなんにもできない.これをちゃんと自覚することが大事.いっても無駄な相 手にあれこれ云ふのは,クルマがパンクしてゐるのにエンジンを分解するのに等 しい.対策は,したがって相手へ訴へかけるのではなく,相手以外の者や事に訴 へかけるべきだ.そのためには相手がなんのために「はぐらかし」てゐるか, 「はぐらかさ」ないとどんなデメリットあるかを理解することが重要である.多 くの場合,それはパワーの流れである.

「聞きながし」`論法'

「はぐらかし」と同様で問題に真摯にとりくまないことで,問題を回避する論法 である.これが効を奏することもあり,我々も暴言や攻撃的文言は聞きながすこ とで対応しているので,これが常に悪いといふわけではない.ただ,こちらが真 摯に訴へてゐえるのに「聞きながさ」れたら,つらいだろう.その場合の対処法 をここで考察する.

重要なことは,

相手が自分の発言をどれくらい気にするかは正確に推し測るべきである.

たとへば,「今後,こういうことがあったら,協力しない」と言ったところで, ハイハイと聞きながすことも相手にはできるかもしれない.相手がそれを真摯に 聞く理由がない場合はさうだらう.「協力しない」といったところで,彼らには 協力するしかないのだと足許を見られたなら,聞きながせる.あるいは,今こ とさらに言っているだけで長くは続かないと見倣されても,聞きながし得る.

自分の問題でないと思ってゐるのに,どうしてそれを問題だと考えること ができるだらう.人間は自分が問題と思ふことしか,問題にしない.

聞きがなす事例,あるいは聞きながしていたが問題になったので聞きながせなく なった事例については,日本が隣接国に意見を言って聞きながされている事例や 熟年離婚に至る夫婦の例など,現代社会にいくつもあるが,ここでは由井小雪の 乱をとりあげる.

徳川時代初期,家光のころまでは,幕府が諸大名の力を削ぐために大々的に大名 いぢめをした.そのため,取り潰しにあった大名に奉職してゐた武士が浪人となっ た,浪人は江戸に流入し治安が悪くなった.市井の人はこれに危機感を抱いた. 市井の人ばかりではなく幕府要職にある者も提言したが,幕府は無視した.あげ くは浪人救済事業を起こさうとした要職のものもあったが,幕府はこれを乱心と して排除した.諸藩には浪人の再就職を厳しく制限した.市井の軍学者,由井小 雪12は幕府の大名いぢめ政 策を批判していたが,それだけでなく,家光死去と共に幕府転覆の行動を起こし た.これは事前に発覚し,討ちとられたが,幕府はこの事件を契機をして,大名 いぢめ政策を変更し,浪人の再就職事業にも着手した.

つまり,幕府は自分の身に危険がおよぶまでは(自分の問題になるまでは),問題 を問題をしなかったのである.特に,幕府は武力しか信じてゐないから,口で言っ ても聞かない.武力しか信じてゐない者は最悪である.殴られなければわからな いからである.殴られるまでわからない,ということを最悪を思ふなら,口で言 われてわからなければいけない.つまり,他者のいふことに真摯に耳を傾けなけ ればいけない.

重要なのは,

相手が,こちらの主張を聞きながすのなら,それを相手の問題にしなければいけない.

「ほめごろし」攻撃

これはまともに反論しても勝ち目のない相手に対して,逆に相手を褒めて,褒め て褒めちぎる攻撃である.心底,心服などしていないところに注意しなければい けない.

対策:効果的な対策はない.無視する以外にないがそれ自体は実害もない.上で 少し述べたが,ある人が好む論法とその人の性格とはかなり密接な関係があると 考へられてゐる.たとへていへば法医学では,卑怯者は絞殺や刺殺を好まず,毒 殺を好むといふ.「ほめごろし」をする人はおそらく正面きって攻撃することは ないだらう.だから正面ではない攻撃に注意しなければいけない.

外部機関の支援を頼る

*** ほんたうはこの章を最初にもって来るべきかもしれない.まだ未成のため, 後半に位置させた.

最初に私は忠告したい,「外部機関に頼ったはうがいいかも」とちょっとでも思っ た時は,頼るべき時であると.

助けを求めることは強さのあわられであって,弱さのあらわれではない. (G.M.Weinberg)

外部機関に頼りたがらない人もゐる.自立心の強い人ほど,外部機関には頼りた くないだらう.確かになんでもないやうなことで人に頼るのは迷惑なことだし, 人は自分のことは自分でしたいとふ自立心がある.自立心はよいことだし,尊重 されなければならない.しかし,執拗なまでに外部機関に頼ることを拒否すると ふのは,一人で抱え込んで身動きがとれなくなってゐるに過ぎないことがある. 自分が正当な自立心から自分で解決しようとしてゐるのか,それとも一人で抱え 込んでゐるだけなのか,よく見極める必要がある13

一人で抱え込む傾向が強からうと弱からうと,正しい命題がある.「外部機関に 頼っては絶対にいけない」と,もし思ふのであるならば,それは既に心の平和と 尊厳が損なはれた状態のしるし14であるから,外部機関に頼ることを真剣に検討し たはうがよい.得心できなければ,かう考へてみるとよい,「外部機関に頼って は絶対にいけない」理由はなにか? それを合理的ないしは論理的に説明してみ るのだ 15.かならず行きづまる.外部機関の 介入を拒むものは,守っても仕方のない体面だったり16,人に頼ってはいけないとふ,よく考へると 実体のない思い込み・刷り込み17だったり, 自分が生きてゐて愛情を感じられないが故に他人を拒絶したり(がつかりするの はもうたくさんだ.誰も信用できないから私は一人で生きて行かなければならな い等),不自由あるいは傷つた心である.心が自由な状態であれば「私はいつで も必要な時に他者の助けを頼ることができる18」わけで,小泉純一郎氏ではないが「いつが適切かは適切に自分 で判断する」のである.

コジれてどうしやうもなくなってから外部機関の支援をすがる場合も多い.支援 者相談者は「もうちょっと早めにいってくれたら,もっと仕様があったのに...」 と思ふこともあるだらう.でも,これはよいはうで,コジれてどうしやうもなく なっても物理的実体がある場合はやりなおせる.物理的実体は損なはれて しまったら,とりかへしがつかない.であるから,いつの段階でも外部機 関の支援にすがっていい.こんなんで...などと謙遜(?)する必要はない.頼 るべき時ではない場合は外部機関のはうで認定してくれる.

次に外部機関とのつきあい方を述べる.

外部機関にもいくつかの段階がある.難攻不落の城が幾重にも堀と塁と柵で守ら れてゐるやうに,あなたを守ってくれる外部機関にもいくつかの段階がある 19.最初 の外部機関は肉親や友人である.これはむしろ機関といふべきではない.心を通 じあはせる相手を機関を呼ぶのは心理的に抵抗があるだらう.ただ,なんとも参 考にならない肉親しかもてない人もゐる.己の未解決の問題を子供に押し付けて ゐるとしか思へない親もゐる(もちろん,そんな親でも親の恩はあらうが).結婚 相手は撰べるが親は撰べない.友人をつくることは自由に可能であるが,傷つい た人はなかなか友人をつくりにくいことがある.平素からお互い支えあふ関係を 築いておくのが重要なのはいふべきにもあらずだが,今さら云っても仕方のない こともあるだろう.ここではこれらを割愛し,制度的なもの・より機関らしい機 関をとりあげる.第〇段階はもちろん当事者間で解決だが,そんなことができる ならこの文を読まずにてゐられるので割愛する.

第一段階は,職場の上長に訴へることである.高圧的な上長の場合(それ自体が 問題の種だが),ちぢこまって云へないこともあるだらう.それでも1回は声を 大にして,嫌なものは嫌だと主張する必要がある.もし,声にしても理解されな ければ諦めて次の段階に移るとよい.二度殴られる必要はない.また,よい上司 は統計的に少ない.

第二の段階は,コミュニティー内の問題解決機関である(職場では,セクハラ相 談室とかカウンセリングがこれに相当する.NPOや市民組織,医療やカウンセラー もこれにあたる).たいていは,専門の知識と訓練を受けた人が応対する.彼ら はあなたの代わりに問題を解決してくれないだらうが,あなたの問題を整理して くれ,あなたが問題を解決する力になってくれるだらう.そもそも問題を他の人 に知ってもらうのはなにより重要であり,理解されるのはありがたい.また,同 様の事例をもとに経験知をもとにした対処法を指導される.

ただし,これにも問題がある20.担当者が能力も経験もないのに独自の信念をもとに解決にのりだして,守 秘義務のある相談内容を,よりによって紛争当事者に話したり(例.あなたの部 下の某さんがこんなことを云っていたんだけど...),問題を余計にこじらせ る場合がある.もちろん,上の例は処罰の対象である.あなたは悪くない. あなたは悪くないだらうが,そこにはゐづらいかもしれない.しかし,この始末 は相手にあるのだから,かわりの場所を相手に見付けてもらうように強く主張す べきだ.ほんたうは人を見る目が必要なのだが,人を見る目は経験しないと身に つかない職人藝である.話して,センスが違うやう21だったら,あるいは変にセンスが乗りすぎてゐる22やうだっ ら,他をあたった方がよい.それは失敗でもなんでもない,実りのない作業から の解放である.

最後は法制度ならびに法制度に基づく機関である.警察ないし行政機関.担当者 が能力も経験もないのに個人で解決に乗りだしたり,とか,聞き流される,とい うこともあるかもしれないが,民主国家の機関は水平方向でも上下方向でも互い に相互監視的になってゐるので,1カ所でダメなら他をあたってみるとよい.ま た,関係するNPO(第二段階に含まれる)にあたってみることもよいだらう.

問題をおほやけにすることによって解決できる.少なくとも解決に近づける.他 者にこそたよらめ.他者は期待するほど助けにはならないが,がっかりするほど 無力ではない.そして他者はひとりではない.

終わりに.勝利なき戦いを捨てること,そして警告

最後に,勝利なき戦いを紹介して終章としたい.

大和国添上郡(そふのかみこほり)に瞻保(みやす)という男がゐた.孝徳天皇の時 代に儒学生で,忠孝の道(儒教)を学んでいながら軽薄な理解で,実際には母を敬 養しなかった.ある日,母が瞻保の稲を借りたが,返済できなかった.瞻保は怒っ て取り立て,母は土下座して許しを請うたが,瞻保は友人のゐるのも構わずに無 視した.あまりのひどさに居合わせた友人たちが意見したが聞き容れなかった. それで,友人たちはいたたまれなくなり代りに借金を返済した.

すると,母は乳房を出し泣きながら「お前を育てた時はいつも休むことがなかっ た.他の子が親孝行してゐる時,お前もいつかさうしてゐると楽しみにしてゐた が,逆に侮辱されてゐる.私の期待は完全に間違ってゐた.お前は私が借りた稲 の返済を迫った.だったら,私もお前に飲ませた乳の代価を請求しよう『吾もま た乳の直(あたひ)を徴(はた)らむ』母と子の縁は今日で終わりだ.天も地も知っ てゐる.うらめしいことだ.」

それを聞ゐた瞻保は無言のまま部屋から出挙(借金)の証文をもってきて焼き捨て、 そのまま発狂して山野を彷徨した.三日後には家が突然燃えだし妻子ともども飢 え死にした.「日本霊異記 上巻第廿三」(今昔物語集第廿巻卅一話にも転載され てゐる)

なんともゐたたまれないが,示唆に富む話でもある.瞻保が背負って立つ律令制 度……より具体的には貨幣・学歴主義と母に代表される家族主義の対立と見るこ とができる23. 「乳の直を徴らむ」とは母がこれまでの家族主義を捨て貨幣・学歴主義の論理で 瞻保に反撃したことに他ならない.そして,瞻保の発狂は貨幣・学歴主義といっ ても結局,家族主義に寄生してゐるにすぎないことを母に指摘されたためかもし れない.今日,でかい顔をしてゐるものの多くは律令制度の瞻保と同様に,もっ と根源的・土台的な何かに寄生していながら宿主を侮辱してゐる.さういふ意味 ではこの話は今日的な意味をもつ.

そういった社会科学的な考察はひとまず置いて,本稿のテーマである心の平和の 観点から考察する.なぜ,瞻保は「乳の直を徴らむ」といはれたくらいで発狂し たのだらうか.信じられないかもしれないが,いかに冷酷な人間といへども(正 確には,冷酷な人間ほど),一言をいはれただけで発狂してしまうだけの致命的 な弱点をもってゐる.瞻保は自分が家族主義,具体的には母によって生かされて ゐることを意識的あるいは暗黙のうちに知ってゐた.「乳の直を徴らむ」という 言葉は,瞻保の考へ方(貨幣主義)を根本的に詰めていく/自分に適用すると破綻 することを突きつける.瞻保は母に乳の代を請求されて,「そこまでするかー?」 と思ったかもしれないが,その瞬間知る「そこまでし」てゐるのは自分のほうだ と.あるいはもっと単純に,自分が子供の時は母に無償で乳をもらうくらいの人 間的な存在であったが,今はそうではないことを直視させる.母の言葉はつまり 「お前は人間ではない」ということを証拠付きで叩きつけることに他ならない. だから,瞻保は発狂した.それは瞻保がもともともってゐた弱点=心の問題のた めである.

実際は,冷酷な人間や異常に攻撃的な人間,人間としてどうか?という人間ほど 致命的な弱点がある.心に問題がない人は素直に反省することができ,弱点を指 摘されても発狂したりしない.そもそも弱点を隠したりしない.また,弱点が致 命的かどうかは,弱点の質や量とは関係がない.逆説的だが,弱点が致命的があ るかどうかは,弱点を弱点と認められるかどうかに関係する.いひ換ゑれば,弱 点を直視できないものは心に問題があり,その弱点は致命的な弱点となる.した がって,心に問題のある人はその弱点を隠そうと攻撃的になるが,攻撃的になる ことで心の問題が拡大する.皮肉なことに,隠そうとすればするほど弱点はより 顕著になる.特に,心に問題のない人からみれば一目瞭然である.心に問題のな い人は悪事を好まないので,わざわざ弱点を突くようなことはしないだけである. 瞻保の母も最初から,わざわざ弱点を突くようなことを言ふ気持ちはなかった. それでも瞻保のあまりの非道さに思はず口走ってしまった言葉だらう.瞻保の母 は,それが弱点かどうかは意識的には知らなかったに違いない.しかし,意識し ようとしまいと,言葉は時に核心を突く.それにより問題が一気に開けて解決す ることもあるが,弱点を突いた時に,人が発狂するほど破壊する力を言葉はもっ てゐるのである.だから,言葉を軽んじてはいけない.

この戦いには勝利はない.瞻保は発狂して餓死したので明らかに敗者であり,母 もまた敗者である.母は「負ふた子に負はれて」を夢みてゐたのに子に離反され, しかも,その子は狂死したのであるから.心の平和のためには,このような戦い をしてはいけない.ただ,ここで述べたいのは,心に問題のある人と戦いになっ ても,相手を発狂させることは容易であるということである.心に問題のある人 を怖れる理由は実のところない.心に問題のある人は脅威ではない.むしろ脆く 憐れな存在なのである.一言,いはれただけで発狂するだけの言葉は案外,簡単 に見つかる.ただし,それを使う時には自分の勝利をも放棄しなければいけない. つまり,戦いに勝つことはできない,刺し違へるだけである.あなたはたふと (尊)い人なのだから,こんなくだらないことで罪をつくってはいけない.また, こんなくだらない戦いに人生をかける必要はない.あなたに必要なのは新天地に 繰り出すことだ.

であるから,この終章は防御の側へ向けた言葉ではない.これは心に問題のある 側への警告である.自分が攻撃したことによって種がまかれた.その結果,自分 が発狂しかねない言葉がこの世に存在し,自分に向かってくることに一生備えな ければいけない.相手を手放さず,相手に勝利を諦めさせた時は,刺し違へにな ることを覚悟しなければいけない.自分が発狂することを覚悟しなければいけな い.その覚悟ができるだらうか.心に問題があるということは,どんなに非道い 結果になるとわかっていても,やめられないことであるから,たぶん,わからな いと思ふが.

未整理分

聞かれたことに必ず答へなければいけない,という決まりはない.

「俺は働き盛りの大半を世のため人のまえに尽してきた.ところがどうだ.俺が 得たものは冷たい世間の非難とお尋ね物の烙印だけだ」アル=カポネ.およそ, ほとんどの受刑者は自分自身のことを悪い人間であるとは思ってゐないし,自分 の行為は正しいか,ある状況ではどう考へてもああする以外に仕方がなかったと 考へてゐる.シンシン刑務所所長.

ヤクザな脅迫者はムキになって感情的になる相手より落ち着いた相手の方が不気 味に思ふ.感情的になる相手は反応が読めるので与しやすい.

人の心の中を問ふではならない,よい悪いなどと責めもならない.人の心の中は 誰にもわからない.本人にもわからないほど深遠であって,よいわるいと一概に 云へないからである.また,人は誰でも自分を善人あるいは善人の一部と思って ゐるもんだから,他人に何かいはれたところで,それを聞くものではない.ゆゑ に,人の心の中を問ふても無駄である.また,よしんば,自分を悪いと思ってゐ るものがゐたとしたら,その者は既に罰を受けてゐるので,他人が問ふべきにあ らず.

虐待が人を鍛える,ということはヒトラーですら指摘してゐることで,それを真 に受けてはいけない.ヒトラーは父に虐待されてゐた.そして,その怨念をヨー ロッパ中に仇となした.

アメリカ初代の原潜ノーチラス号の蒸気タービンのパイプ.パイプに小さな破断 が発見された.原潜プロジェクトの長だったハイマン・G・リコーバーが調べた ところ,パイプの素材が仕様どおりではなく,道路のガードレールくらいの強度 しかないことがわかった.造船所の品質管理記録を調べたが,どこに間違ったパ イプが使用されたかわからなかったので,何百メートルにもなる同じパイプを全 て仕様書どおりのパイプに取り換えさせた.リコーバーは全員に告知し,この日 を品質管理を推進する記念日として記憶してほしいと述べた.多額の費用と時間 がかかったが,これによって,リコーバーはほんとうに期日よりも安全を重視し ているのだ,という極めて明確なメッセージが海軍と契約業者のすみずみまで伝 へることができた.海軍にとっては迷惑だったかもしれないが,リコーバーにし てみれば,迷惑に思ふことこそバガげていた.「科学技術のルール」といふもの は,まさにこのことだからだ.

口では安全が大事といいながら,実際は期日のほうが重要だという長の行動.

兵卒は常に士官を監視する.

世の中に不満があるなら自分を変へよ.

他人の信頼など期待してゐません.自分で信じてゐますから.(シャーロックホー ムズ 「這う人」 The Adventure of the Creeping Man)

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Pax et Dignitas: 平和に尊厳をもって
(2009-07-31 版)

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... ものは,自制心と強い自信とがなくては保持できない1
引用者註:これ は皮肉になってゐる.自制心と自信が欠如した者は他者の自由を制限したり,他 者を非難するものなのである.つまり,リベラルではないものは他者への過干渉 ないしは抑圧により,自身の存在を保証しようするわけである.それだけ弱い存 在なのである(高坂節?)
... 自分も相手も死すべき存在であることを知れ2
「この者も自業自得で ロクな死に方をしないのだ」と知ることで怒りが収まる人もゐる.また,自分 の生命の尽きることを知って,もっと大事なことに目が向く人もゐる.
... 用する愚かな輩もゐる.星がないと思う人は燃え尽き症候群3
外因性抑 鬱病
... アルキメデスの原理についての理解に違いはない4
だから考へ・思考は 共通認識たりえる.もし特別な考へがあったら,それは誰にも理解されない,誰 にも伝はらない,かなり意味のないものになったゐるだらう
... 「探偵稼業」とはあなたがやりたい/今やってゐる仕事を代入すればよい5
よい例文が思いつかないので,ある小説とその本に因んだ漫画の書名 から採った.女性に限らず不当な扱いを受けることはしばしばある.たとえば, 「日本人には創造的な仕事はできない」
... んらかの行動を起こすこともできるが6
相手の意見を変へさせることは 人生の目標にはなるべきではないし,また人は他人に言はれて意見を変へるやう なものでないので,いちじるしくお薦めではない.
... し,自分たちの隠れ家を公開するマキ(maquis)7
第二次世界大戦でナチ 占領下でのレジスタンス組織
... ばしばある8
上司を先生や先輩・顧客,部下を生徒や後輩・業者に置き 換えてもいいし,力関係のある友人(モドキ)同士,夫婦間でもさういうことはあ るかもしれないが,ここでは上下を象徴する言葉である,上司と部下の組でいふ.
... 命令である(仁田義男9
「辞書には書かれていない言葉の話」岩波書店. 術語は仁田による
...執権「千早城10
河内国金剛山にある山城で鎌倉時代末期,楠 正成が たて籠った.この城を落せなかったのがキッカケで鎌倉幕府は滅亡した.
... れて効率的に運用できる状況のはうが多い11
G.レイコフ・M.ジョンソン 「レトリックこそ人生」大修館書店など参照されたい.
... 雪12
彼は,鎌倉幕府と互格にやりあい,ゲリラ戦のプロである楠 正成 の軍学を継承してゐた.彼の行動は確かに楠流である.
... 込んでゐるだけなのか,よく見極める必要がある13
そもそも自分の性格 が,一人で抱え込む傾向が強いかどうかをよく知って,それとの対比で見極める べきであるが,強く悩むのはたいていの場合,一人で抱え込む傾向が強い人に多 いので.悩んでゐるとしれば多分,一人で抱え込んでゐるだらう.
... 尊厳が損なはれた状態のしるし14
少なくとも心の自由さが欠如してゐる ことには同意いただけよう.
... るのだ15
同様の思考に興味のある向きは,V.E.フランクル(『夜と霧』 で有名)のlogical therapyを参照されたい
... 介入を拒むものは,守っても仕方のない体面だったり16
ご本人が真剣に やってゐるならば,体面がつぶれたくらいでは支援者は去らない.自尊心は本人 が放棄しない限りなくならない.
... 実体のない思い込み・刷り込み17
われわれはしばしば「人に迷惑をかけ るな」と教育されるが,時々「他者に迷惑をかけずにはゐられないことを自覚し, 他者の迷惑を受け容れ助けられる人になりなさい」といふべきではないかと感ず る.誰しも人に迷惑をかけずには生きられない存在であるし,「人に迷惑をかけ るな」は他者の助けを求める際の障壁になり,狭い自分に閉じ込める軛となる. そして「人に迷惑をかけてゐない」とふ思い込みは増上慢になる.
... も必要な時に他者の助けを頼ることができる18
もちろん相手には断はる 権利がある.
... れてゐるやうに,あなたを守ってくれる外部機関にもいくつかの段階がある19
このやうな思考法それ自体が防衛意識にもどづくもので,傷ついた人 にありがちな思考法である.自由闊達な人はこのやうな意識すらない.
...ただし,これにも問題がある20
脅かすつもりはない.対応を述べたいだ け
... つかない職人藝である.話して,センスが違うやう21
ひとつは無理解あ るいは無神経.ふたつ目は一見共感してくれるのだが上滑りした概念や知識で知っ た気になってゐるだけ.お説は重厚だが本人が考へたわけでもなく当然,身にも ついてゐない.本人の考へをもたないから,あなたの考へを革新することもない.
...だったら,あるいは変にセンスが乗りすぎてゐる22
詐欺師の特徴は2つ ある.一つは人の欲につけ込む.二つは飾る(ま,いつはらない詐欺師は定義違 反だが).第一について.この不幸な状況から抜け出したいとふ欲がある.人は 欲があるからこそ人は前に進むわけだが,楽して解決したいと思うがまづい.困 難に見える途のはうが解決が早いことがある.楽か困難かではなく,真か善か美 かで判断すべきである.第二について.言葉で飾る場合もあるだらうし,安請合 いといふ場合もある.欲に心を喪ってゐない限り第二は見分けやすい.
... とができる23
奈良時代(正確には天平)の貨幣については栄原永遠男氏の 研究がくはしい.たとえば「古代日本人と銭貨」(中央公論社 日本の古代別巻) によると銭といっても通貨としての価値は民衆や豪族にはほとんど信じられず, どちらからといふと呪術的な道具として蒐集されたりした(蓄銭禁止令を参照). 瞻保のやうな「現代的」価値観をした者はめづらしかったであらう.一方で,中 世には貨幣経済はすっかり定着してをり,それ以前にも萌芽はあった可能性があ る(網野善彦氏).なお,瞻保の例は貨幣ではなく出挙の稲と厳密には違う.ただ し,日本霊異記の他の逸話には出挙の借で首が回らなくなった人の話が 頻出し社会史としては一連のものと考へてゐる.個人的には面白いが割愛する.

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