辻埜匠 Taqumi TuZino 1
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ここでは, 論理的/科学的に正しい推論/判断を妨げる要因やその事例を紹介する. 学問的生活をする上で, 正しい推論や判断をすることが必要である. 正しい判断・ 推論を行ふためには, それを防げる要因について深い理解をする必要がある. 下 記は専ら, 自分への整理のために執筆してゐるために, 現在建設中であり, 不完 全な箇所, 読みにくいところが多々あることを最初にお断りする. また,筆者 は地質を学び校へるものであり,できるだけ地質学および学界の参考となるやう にしたいと考えてゐるが,それ以外の話題のはうが現時点では多い.
正しい推論・判断を防げる要因としては, (1) 現象の複雑性. (2) 不完全なデー タ. (3) それを解釈する人間の推論の誤り(心理学的・認知論的・論理学的)の3 種類に区分できる. これらの要因は複合的で, 要因を体系だって分類することが 自分自身で出来てゐないので, 下記に提示した分類・順番には適当である. また, 内容が重複してゐることもある. 整理をつづける.
最初に読者に訴へたい命題がある.それは
論理は人を自由にする.2
である.この命題に反して,論理は人を窮屈にする, と思ってゐる人もあるだらう.確かに論理は窮屈な印象があるかもしれない. しかし, もし論理がなかったら,人は,なにが正しいのかなにが間違ってゐるのか わからずに,その時々のなりゆきやその時自分が持ってゐた偏見や 妄想で判断したり行動するしかないだらう. 論理は正しいことと間違ってゐることを教へてくれるが, それ以上に大切なことは,論理は,そう思ひ込んでゐるけれど 実は根拠のない妄想が妄想であると告げてくれることにある. 妄想を妄想であると知って はじめて人は自由に考へることができる.
本稿では,掲題に「論理的」といふ言葉を使ってゐる.「論理的」とはどういふ ことか本来なら定義しておくべきだらう.しかし,なかなか使へる定義がないの が実状である.むしろ,「論理的」という言葉だけが先行して内容を伴はない言 及がしばしばなされてゐる.「もっと論理的に説明しろ!」と云はれた人も多い だらう.この場合の「論理的に説明しろ」とは「ちゃんと説明しろ」くらいの意 味しかない.あるいは,「論理的な俺サマにわかるように」か?(笑).ともかく 「論理的」は,ほぼ無内容だが,相手の注意を引く飾りとして使用されることが 多い.だから,「論理的になれ」と云はれて困る人もゐるだらう.ほとんど無内 容な命令3だ からだ.
論理的であれといふことは易しいが,どうすれば論理的になるのか具 体的に明示されなければ,いつまでたっても論理的にはならない.
本稿では「論理的」について最終的包括的定義を明示せずに,逆に本稿全体を通 して,「論理的」とは何かを説明する.といっても定義がないと不自由でもある ので,次のやうに作業上定義する.
論理的とは,反論に対して説得力を失はないこと.
これも何を指してゐるのは不明確な定義で,「ちゃんと」と大同小異だ.しかも, この定義では論理的などうかについて,最終的な結論は出せない(現時点の反論 全てを却下できても,明日のことはわからない).「論理的」になったつもりで も,そこが最終地点かどうかはわからないわけである.実世界において「論理的」 とは坂の上の雲だ.案外,「坂の上の雲」こそ「論理的」の本質を捉えてゐるか もしれない.
本稿では,この暫定的な「論理的」についての定義を,暫定的に採用する.この 定義でも実用上は困らない.逆にメリットもある.「非論理的」といはれても絶 望的に落ち込む必要はないし,「論理的」といはれても絶対に正しいわけではな いから気を引締めなければいけないからだ.
最後に,どうしようもないくらい無茶な話に反論する方法を紹介する. 詳しくは反論(rebuttal)のところで述べるが,
あなたのお話にはついていけません.で十分である.人は退席する権利をもつ.
Monty Pythonのコント(sketch)によると ``a connected series of statements to establish a definite proposition.''とある.ある命題を主張するための命 題の集合,つまり前提となる命題から結論となる命題までの一連の命題を指す. もうちょっと砕けた言ひ方では,Argumentとは,ある意見を主張する文と,そ の意見の理由づけをする文からなる文章である. 本稿ではargumentに対応する 日本語としてぴったり感じるものを見付けることができなかったので,後世修正 することを期して,``argument''のまま用ゐる.本稿では時にargumentの訳語と して「命題の陳述」といふこともある.日本語の「議論」といふのは賛成側と反 対側とが意見を交しあふ討論のニュアンスが強く,どちらかといふと cross-examinationの概念に近い.いづれにしてもArgument/議論は意見(主張)と それの根拠や理由を述べた文章であるから,
事実の羅列(意見を明示しない文章)はargumentとは呼ばない.
疑問は命題ではないから意見ではなく,したがってargumentではない.
意見ばかりの文章はargumentとは呼ばない.
事実の羅列をしてゐるやうでいて,実はある主張が含まれている(いいたいこと があるが明言せす暗示してゐる)文章があるが,このやうな主張を察してくれる ことを期待する文章はargumentとは呼ばない.たとへば,シェークスピアの「シー ザー」のアントニーの演説がさうだらう.アントニーはシーザーを褒めることば かりいってブルータスが悪だと暗に主張してゐる.また「こんなんでいいんです か」といふやうな疑問(裏には「こんなんではダメだ」という主張が含まれてゐ る)もargumentではない(これを疑問を呈して主張した気がする錯誤といふ).意 見ばかりで理由や根拠が書いてゐない文章はargumentではないので,感想や印象 だけ述べてもargumentにはならないし.熱く語ってもargumentにはならない.
補足1:ただし,事実の羅列にも意見はある.意見のまったく含まれない事実の 羅列は存在しえない.資料集は事実の羅列の典型的なもののやうに考へられがち であるが,さうとは言ひきれない.どのデータをとりあげて,どのデータを省略 するか,は,ある主観にもとづいてなされてゐる.たとえば日本史の資料集(高 校や中学などで使ふ参考書)がある.日本史の資料集は政治については詳しく述 べられているが,文化はあまり触れられていない.技術の発達史も記載が乏しいし, 庶民の生活にいたってはほとんど記載がない.これは日本史の重心が政治にある ため,政治に関係するデータを多くとりあげ,それ以外のデータを省略してゐる のである. ここには政治が歴史で大切なこと,といふ意見が含まれてゐる(本件 のよいわるいをいひたいのではなくて,純粋に事実の羅列といふものがどれだけ 難しいかといふことを述べたいのである).
事実と意見の区別は厳密にはできないことから,本稿では 上述の,「argumentを事実から意見を論証する命題の集合」という定義と採用せ ず,次のやうに定義する(使ひかたを決める).
argumentは,acceptableな命題を積み重ねて,それ単独ではacceptableではない 命題を導く一連の命題のsequenceである.
命題とは真が偽か判断できる平叙文のことである.
例:「1たす1は2です」は命題.
例:「1たす1は3です」も命題.
命題は文法的に正しくなければいけないが,内容は正しくなくてもよい(だから こそ議論するのである).また,正しい内容かどうか意見がわかれてゐるもので あってもよい.
例:「ジョージワシントンは偉大な人物である」
疑問文や命令文は命題ではない.ただし, 計算機ではStatementは命令文を意味 する.計算機には平叙文と命令文の違いはない.計算機はある平叙文を与へられた 場合,それを実行する.実行できれば1(真)を返し,実行できなければ0(偽)を返 す.
全てのargumentを展開する者は説得者であって,自分の命題を相手に正しいと思っ てもらおうとしてゐる.これを命題の売人(peddler)といひ,argumentから知識 や判断を得ようとするものをartumentの利用者といふ.とりあへずここでは命題 の売人モデルといっておく 4. 説得者はいろいろな方法 で利用者に自分の命題を売り込まうとする.後で述べる「論理以前・論点以外」 (泣き落し,恫喝,利益誘導,声の大きさ等)の説得方法もあるし,自分の主張する命題の正 しさを担保するやうなモノ・コトを提示する説得方法もある.本稿ではもちろん, 後者の説得方法を理想として,その正しい運用方法を間違った運用方法から学ば うとするものである.
注意すべきは,argumentでは利用者に責任があるといふことだ.あるargumentが 正しいと思ふかどうかは聞いた者(利用者)自身の判断・意志であって,信仰や思 想の強制はできない.正しい推論であれ錯誤した推論であれ,売人が聞く人を説 得しようとしてゐることは同じである.そして,正しい推論であれ錯誤した推論 であれ詭弁であれ,それを信じるかどうか聞く人の責任である.いひかへると, argumentの責任は説得者が負うのではなくて,それを正しいと思った自分(利用 者)の責任である.もし命題の売人が錯誤や詭弁を展開するのであれば,聞く側 が信じなければいいだけのことで,argumentの世界ではそれ以上する必要はない. もしなにかするとしたら,「ここがおかしい」と具体的に指摘して,どこがおか しいか納得できるようにすることだ.間違って信じ込まされたとしても相手を批判で きない.信じるように決めたのは利用者だからだ.
argumentを信じる信じないは利用者の自己責任である,とは,誰も誰か他人の意 見を強制的に変へさせることはできない,といふことであるし,自分の意見は自 分で批判して変へるしかないといふことでもある.いひかへると,argumentでは 自己批判しかできない.誰かが,自分のargumentを批判したとしても,自分が納 得しない限りargumentは変更できない5.誰かが批判して,argumentを変更(修正・ 破棄)したとしたら,それは自分が批判者の意見を受け容れて納得してargument を変更したことに他ならない.
Statementに同じ.ただし,stateされたもの(言及されたもの)とproposeされた もの(提案されたもの)くらゐのニュアンスの違いはあるかもしれない.
ある命題を導くために使はれる命題.あるargumentがおかしい時,可能性は2 つある.一つは,inferenceが間違ってゐる,もう一つは,前提が間違ってゐ る.Argumentの際は前提が正しいかどうか,よくよく検討するべきである.
Premiseと同じ. しかし,premiseの場合は,命題の内容が真であることを(たぶ ん間違いないと)想定してゐるのに対して,assumptionの場合は真であることを 仮定(期待)してゐる,といふニュアンスの違ひはあるかもしれない.
PremiseからConclusionを導く論理過程.inferenceには演繹法(deductive)と帰 納法(inductive)にわかれる.推論という日本語からは帰納法を意味しやすいが, inderenceには演繹法も含まれる.reasoningとほぼ同じ.
前提から,そこに含まれてゐる命題を引き出すことである.定理や普遍法則の個 別応用であることが多い.
前提1:全ての人は死ぬ.(法則)
前提2:ソクラテスは人である.(個別の条件)
結論:ソクラテスは死ぬ.(結論)
演繹法は前提が正しく演繹が正しければ必ず結論が正しくなる.当たり前のこと をいってゐるようだが,当たり前ではない.帰納法はさうではない(後述).
個別の事例から一般則を引き出す方法である.
カラスAは黒い.
カラスBは黒い.
カラスCは黒い.
...
したがって,カラスは黒いものである.
このargumentはカラスは黒いので正しいと思ふ向きもあるかもしれないが,全て のカラスについて調べたのでなければ,「カラスは黒い」といふ命題が正しいこ とが保証されない.前提が正しくて推論が正しくても,それでも結論が間違って ゐることがある.このように帰納法は可謬である.例外は数学的帰納法である. 数学的帰納法は全てを調べることができるので,数学的帰納法を使ったargument は演繹法と同じやうに,前提が正しく,推論が正しければ,結論はいつでも正し い.
帰納法については下記のやうなジョークがある.
一を聞いて十を知る.そして三,間違う.
一といふのが個別の事例である.そこから十に通じるような一般則を知ることが できるが,実は,それは一般則ではなくて,十のうち三は通用しないことかもし れない.
これは帰納法の一種(変種)である.狭義の帰納法は個別から一般則を導く推論で あるが,これは個別から個別を推論する方法である.これも帰納法同様,前提が 正しいからといって,いつでも結論が正しいわけではない.さらに帰納法よりも 論理の飛躍があるので,間違える可能性は帰納法より高い.假説(仮説)を立てる ときには有効な発想法であるが,これで結論が得られるわけではないことに注意.
前提1:一本,電車に乗り遅れると10分遅刻する.
前提2:某氏は10分遅刻した.
結論:某氏は電車に乗り遅れたのだろう.
前提1:魚は水域に棲む.
前提2:ユーラシア大陸の真中から魚の化石が出た.
結論:魚の化石が棲んでいたころ,そこは湖か海だったのだらう.
かういふ推論は日常することが多いし,実際に正しいことも多い.これらの例でも 結論は前提2をうまく説明してゐる.しかし,たとへば最初の例に限って云へば, 某氏が遅刻した理由が絶対「電車に乗り遅れたから」だとはいへない.たとへば, 駅から学校/会社までの間になにが事件があって時間をとられたのかもしれない. コンビニに寄って長居したのかもしれないし,道に迷った人を案内してゐたのか もしれない.abductionは推論の中ではもっとも可謬性の高いものであり,結論 が絶対ではないことを覚えておかなければいけない.間違って使用すると,最初 に結論を設定しそれを導くような前提を探す錯誤に陥りやすい(自説に都合のよ い観測方法の錯誤の項やad hoc reasoingの項を参照)
Abductionは非常に強力な推論方法である.少なくとも結論が前提に反しない限 り假説(仮説)たり得る.この假説の正しさを他の論証でより強めることができれば結論 の信頼性は増す.
補足:この推論法には別名があってretroduction(強いて訳せば遡及法?)とも呼 ばれる.19世紀後期の哲学者Peirce(パース)が提唱した.彼は最初, ``hypothesis(強いて訳せは假説法)''と呼んでゐたが,後に,``abduction(強い て訳ぜは誘拐法???假説的推論法とか假説形成法と訳されることが多い.)'' に名称を変更し,更に,``retroduction''と変更した.なお,Peirceは abductionを帰納法とは質の異なるものと考へた.筆者はPeirceの考へに賛同す るが,多くの科学者にとってabductionは帰納法の一種であり,質的に異なるも のとして十分理解されてはゐない.
Premiseからなるargumentが到達する命題.
ある命題が正しいことを保証する推論や命題.Toulminの論理モデルでは,隠さ れた根拠(となる推論や前提)を指す.
Inferenceに用いてゐる論理(logic)が正しいかどうかを示す形容詞.正しい論理 はvalid argument, 正しくない論理はinvalid argumentと呼ぶ.これは演繹法 で使ふ評価用語であって帰納法には用ゐない.なぜなら.演繹法では,演繹法を 正しく使ふ限り前提が正しい場合は結論は必ず正しいが,帰納法では前提が正し くても結論が100%正しいとはいへないため,この語は用ゐない.
余談:計算機の論理は演繹法しか存在しないため,命令の論理構造が間違ってゐ る場合,``invalid argument. see line 3''といふようなエラーになる.
Inferenceが説得力があるかどうか,帰納法で用いる形容詞.帰納法では推論 に問題がなくても結論が正しいかどうか(valid/invalid)決定できないため.
Argumentの健全さ,正しさあるいは説得力があるかどうかを評価する形容詞. Valid/inValid, weak/strongの評価はlogicに対してのものであるが,soundは 前提が事実として正しいかどうか,から,推論の正しさまでを含めたArgument全 体に対しての評価である.
演繹法ではあるargumentの妥当性が一意に決定する.つまり,妥当か妥当で ないかの二種類しかない.しかし,世の中の事物は複雑で,不完全な証拠しかな い上で判断しないといけないことが多い.そのため,説得力が強いか弱いかで, 結論の確からしさを判断する.
前述のやうに,推論で得られた結論が絶対に正しいとはいへない.そのため, argumentの健全さによって結論を採用するかしないかを判断する.正しい結論が 得られたといふ確信は判断した後も決してわからない.だが,その確信を得よう とする努力は決してやめてはいけない.
意思決定においては,限られた証拠と時間と論証をもとに行動を決定なければい けないという制約がある.そのため,結論を合理的に,つまりsound argumentか どうかで判断することが必要である.
誤ったargumentのうち,推論の誤りを指す.前提についての誤りは指さない. ただし,一般には誤ったargument全体を指す場合もある.
詭弁は,論者が誤りを知ってゐるにも かかはらず展開される誤ったargumentの ことで,ある種の悪意(あるいは,誤りの自覚)のあるなしで詭弁と錯誤は分けら れる.意図に関係ない場合は,誤謬,虚偽といふ呼称が一般的である6.なお,一般用語としての 詭弁は論理の誤りだけでなく前提についての誤りも含む).argumentの利用者 (argumentからなにか知見を引き出さうとする人)は詭弁はfallacyと同じである. なぜなら利用者は論者の意図とは無関係にargumentを利用できるからだ.
避けるべきは,相手に向って「それは詭弁だ」と断罪することである.argument では相手に悪意があるかないかは問はない.問ふてもよいが,意見に対して受け 容れるか容れないかは利用者の責任である.つまり,信じるも信じないも聞く側 の自由といふことだ.間違ってゐると思ふなら信じなければよいだけのことで, 相手を断罪する必要はない.誤謬(虚偽)と詭弁の違ひは,その悪意の有無にある. 「それは詭弁だ」といふことは相手の心底に悪意があると云ってゐることになる. これは二つの点でよくない.第一は,人の心底は簡単には見えない.あるいは心 底は悪意とか善意のように明解に割切れるものではない.第二に,「それは詭弁 だ」といってしまふと立証責任(後述)をこちらが持つことになり,こちらが『相 手が悪意をもって(あるいは誤りを自覚して)argumentを展開した』と立証しない といけなくなる.さもなくばこちらが相手の悪意を假定して人身攻撃してゐるこ とになる.しかし,第一により,人の心底はそんなに簡単ではないではないから, それを立証することはほとんど不可能である.したがって,「それは詭弁だ」で はなく「それは虚偽7だ」と いふべきである.もっとも,あとで述べる(Fallacy of fallacy/「虚偽の虚偽」 の項)で触れるやうに,どこが間違ってゐるのか指摘のない「それは虚偽だ」は 単に``断罪''してゐるにほかならず,それこそ「虚偽」である.
もし相手が確信犯的に詭弁を展開してゐるのだったら,「詭弁だ」といったとこ ろで,詐欺師に向って詐欺師だといってゐるようなもので無駄である.他の人が 詐欺師の被害に合はないやうにといふことならば,「ここが詐欺だ」,くらゐの 指摘が必要である.さうでないと,あなたが「こいつは詐欺師だ」といってゐる ことも本当かどうか,判断できない.
判断や意思決定の際に,十分検討された推論によらずに, 経験知に基づいて手っ取り早く答えを得るための簡便法である. 人間は認知論的倹約家(Cognitive miser; 認知しないといけない情報を少なくしたい人)であって, 全ての情報を入手し十分検討するのは面倒なので, 決った思考パターン(スキーム;scheme)を適用して判断し, 時間や認知・思考を節約してゐる.この方法をheuristcsと呼ぶ. カーネマンとトバスキーの研究によって, 人間は簡便法を多様し,簡便法には問題があることが明らかになった (常に間違った結論を導くわけではない).
補足: heuristicsの対義語はalgorismである.アルゴリズムでは可能性のあるこ とは全て検討する.適当な日本語がないので「ヒューリスティックス」と假名書 きされることが多い.
最初に, 人が論理的に考へることは大変むつかしい,といふことを述べたい.
次のやうにならんだカードを見てほしい.
カードは表にはアルファベットが書かれてをり,裏には数字が書かれてゐる.
このカードには次のやうなルールがある.
母音だったら,その裏は必ず偶数でないといけない.
このルールがあってゐることを確かめたい.そのためには ひっくりかへして,裏の文字を確認しないといけないカードはどれか?
多くの回答者がAだけ,またはAと8をひっくりかへさなければいけないと答へる. しかし,それは間違ひである.多くの人が間違へる(正答率は30-40%程度).
この変形として飲酒問題といふのがある.
次のカードを見てほしい.カードの表には,ある人の年齢が書かれてをり,裏に はその人がなにを飲んでゐるかが書かれてゐる.
法令により飲酒をしていいのは, 20歳以上でなければならない.
このルールが遵守されてゐることを確かめるため
には,どのカードをひっくりかえさなければいけないか?
この問題では多くの回答者が正しいカードを選択する.しかし,よく見てほしい. 最初の問題との違ひは,カードに書かれてゐる言葉だけであって,論理的な関係 (必要条件と十分条件の違ひ, 対偶命題)は同じである.では,どうして正答率 に大きな違ひが生じるのであらうか?
その答へはまだわかっていない. しかし,候補として2つの假説(仮説)がある. ひとつは人間は慣れない事象に対して論理的に考へることは困難だといふ説明で ある.つまり,飲酒問題は日常のルールであって,よく知ってゐる.しかし,ア ルファベットの母音とか偶数とか日常に親しみのない概念を材料にしたルールは, たとへルールの論理的構造が同じであっても,なにが論理的に正しいのか,正し く認識しにくい. 4枚カード問題と飲酒問題での正答率の差は,対象をよく知っ てゐるかどうかによって論理的推論能力が変化するためだといふのがこの假説の 説明である.
では,よく知ってゐる事象に対して正しい答へを出せたのは論理的に考へた結果 なのだろうか,といふ疑問がある.つまり,慣れている事象で正答できるのは, 論理的な検討の結果ではなくて,習熟によるものでないかという假説がなりたつ. これがもうひとつの假説である.
(假説1)「慣れない事象については論理的思考力が発揮しにくい」,または,(仮 説2)「もともと人間は論理的思考は苦手で習熟で補ってゐる」どちらの假説にし ても,人間が論理的思考が苦手で,騙されやすい存在であることを示唆してゐる.
なぜわざわざ調査しなくてもよいカードを確認するのか,についてブルーナー, グッドノー,オースチンらは「確認したい重複への渇望」と表現してゐる.人間 は規則があってゐることを確認したい傾向があるのだが,一方で,なにがどうなっ たら規則があっていないかについて理解することがむつかしいやうだ.
答え: 最初の問題の答えはAと1である.1の裏が母音でないことを確かめなくて はいけないからである.8の裏には母音が書いてなくても別にかまわない. 飲酒 問題の答へは,18歳の人物と,ウヰスキーを嗜んでいる人物の年齢である.18歳 の人間が酒を飲んでいてはいけないし, ウヰスキーを嗜んでいる人物は20歳以 上でないといけない.いはずもがなであるが...
「PならばQ」という命題があったときに,Pを前件(antecedent)と呼び, Qを後
件(succedent)と呼ぶ(これは,必要条件と十分条件に関係ない,言葉の定義の話).
そして, この命題が正しい時に,Pを``Qであるための十分条件''といい,Qを
``Pであるための必要条件''という.この命題が正しい時,Pであれば絶対にQだ
から,PはQをいうための十分な証拠(条件)だということになる.また,Qである
からといって絶対にPとは言えないが, QでなければPではないので, Qであるこ
とはPを証明するためには必要な証拠(条件)だということになる.この関係は
Venn図を描くとわかりやすい.
「PであればQ」(前件⇒後件)という命題がなりたっているとき,「QでなければP ではない」(後件の否定⇒前件の否定)を対偶命題を呼ぶ.対偶命題はもとの命題 (順命題と呼ぶ)と真偽を共にする.つまりもとの命題が正しいなら,対偶命題も 正しい.逆に,もとの命題が偽なら,対偶命題も偽になる.「PであればQ」が成 り立っているか確認する,ということは,「PであればQ」を確認すると同時に, 対偶命題「QでなければPではない」がなりたっていることを確認することである. [P=母音,Q=偶数]を代入してみると,対偶命題は「偶数でなければ母音でない」 になる.
ここで述べるのは,(1)権威を笠に着る,(2)大声でわめく,(3)立て板に水が如 く流れるように(関係ないことを)喋りつづける,等々,といった論理以前の問題である.
これは,論じている内容とは違う事物を提示することによって,論点をそらす錯 誤である.燻製鰊(red herring)という命名は,猟犬を獲物の匂いと燻製鰊の匂 いをまざった狩場で訓練したことによる.猟犬が正確に獲物を追跡できるように なるためには,燻製鰊の匂いに惑わされてはいけない.同様に,人が論旨を正確 に検討するためには,論点をそらす``燻製鰊''に惑わされてはいけない.
例:進化論や物質論などの科学理論は道徳教育の足をひっぱる.ために,科学教 育はを行うべきではない.(科学理論が事実として間違っているので教育するべ きではない,という論拠ではないことに注意.)
いはゆる論理のすりかへ(すりかえ)もこの錯誤に含まれる.たとえば次の例で説 明しよう.
例:ある飛行機のなかで,乗客が前の席の老人と口論になり,その乗客は足で前 の席を蹴ったり,暴言を吐くなどの横暴な行為をした(なお,航空法改正後はこ れは航空法に触れる行為である.ただし,改正後も暴力を振う乗客に対して実力 で阻止できる態勢になっているかどうかは注意しなければならない).スティワー デスが注意すると,横暴な乗客は
「これは俺とこいつの問題だ」といふ.もちろんスティワーデスも引き下りはし ない.横暴な乗客は
「お前は口出しできるほど,えらいんか?えぇえ!」
このやうな話術でひるんでしまふ人は多いだらう.なんとなれば,面とむかって 自分はえらいと云へる人は少ないからである.たいていの人は,自分のことを偉 いとは云へない,だから注意もできない,と思い込んでしまう.
しかし,問題は「えらいかえらくないか」ではない.前の人の席を蹴るという暴 力,暴言を吐くことをしてよいのかしてはいけないのかである. これが論理のすりかえである. 「えらいかえらくないか」は関係ないのだから,質問に答える必要もない.
「えらいかえらくないかは関係ない.席を蹴ることは暴力であり,許されない」
論理のすりかえは,相手の主張している論理とは別の論理を挿入することで,相 手の論理の進行を妨害し,自分に都合のよい結論を導く方法である.知らずにし ている人も多いし,その場合は論理性の未熟による錯誤になるが,知ってすりか える場合は詭弁となる.論理のすりかえ攻撃は,自分の本題からはずれないこと で容易に防ぐことができる.要は,なにかありさうなニシンに飛びつかないこと である.知らずに論理のすりかえをやってしまう人は,問題の正面からとりくん でいるか内省することで防げるかもしれない.わざとやっている人には自分を貶 める行為だと指摘するに留めよう.
ちなみに,同じことをされたある元警官は「これは暴力です.こんなことは私は 許せません.謝罪を要求します」と毅然といった.相手の主張は聞いていない点 で評価できるし,暴言には暴言で返さず,あくまで毅然と対応した点で評価でき る.
議論で多い燻製鰊系の錯誤は,対手の論旨の本質(なにが本質から解釈によるの だが)を批判するのではなく,些末(なにが些末かは解釈によるのだが)な部分の 瑕疵を批判して,「勝った!」気になるという錯誤である.「燻製鰊の錯誤」と いってもいいが,鰊ほどクサくないので,「枝葉末節への論難」(なにが 枝葉末節かは次に議論する)と呼ぶことにする)と命名しておかう.ショウビジネ スであれば演出ないしレトリックが上手ければ観客にさう思はせることもできる かもしれない.もちろん,科学的議論はショウビジネスではない(見て楽しいこ とは重要だが).
argumentで大事なのは結論とその結論を導出する証拠及び論理であるので,もし 些末(とされる)ところが,それらに寄与しない,あるいはほとんど寄与しないの であれば,当然ながら,結論には影響しない.「ああすみませんでした.そこは 間違へましたね」といふことで済みになる.(ちなみに,科学的な議論で「勝っ た!」と思ふ,あるいはそれを願うのは筋違ひのやうに思ってゐる.正しい結論 に到達するべきだが,議論に勝つ必要はない.間違った結論に陥穽むよりは,間 違ひを指摘されるはうがずっと希ましい.)
意見を批判するのではなく, 意見をした人を批判する. 人格攻撃,対人話法ともいふ.
例: 「おまえのごとき若造になにがわかる.」
言ふまでもなく, 人を批判することに成功したとしても, 立論を否定することは できない. この錯誤は,人を討ったことで論を討った気になる錯誤(あるいは, 自分が討たれたことで論も討たれた気になる錯誤)である.
人身攻撃をしてしまふ背景には,その人の心の中で論と人とが分離されてゐない ことがある.論の正しさはその論を提出した人の正しさ(?)とは関係ない.
例: 金田一・福田論争
金田一京助「えらい大家だろうと謹しんで敬意を表したが,聞けば私の倅ほどの 人だそうな」(実際,京助の子春彦は福田恒存と同窓)
福田恒存「金田一老のかなづかひ論を憐れむ」
年齢は論理の正しさとは関係ない.若いからargumentは間違い,老いているから といってargumentが間違いとは云へない.人身攻撃はしばしば感情的な衝突に発 展し,議論そのものの健全性を破壊してしまふ.
人身攻撃はその実,非難(人身攻撃は批判ではない)としてはあまりにもリスクが ある.人身攻撃は返り討ち8されてることが容易だからである.たとえば,ある人が,ある意見を 述べたとしよう.それに対して下記のやうな反応が返ってきた.
例:「ナントカ学会員ではない」「この業界で聞いたことのない人」
「その指摘が相当本質をつくものであれば関連学会で取り上げられるはずだが,ナントカ 学会,カントカ学会,ドントカ学会で取り上げられたことはない(よってこの指 摘には価値がない)」
これは非難である9. これらの発言については意見の内容に関するものはない.せいぜい意見が社会的 (それも狭い世間)にどう取り上げられたかである.では,なぜ非難者が,さういっ た意見の内容に踏み込まないのか,と考へてみる.
結論を先取りすれば,意見の内容に踏み込まないのではない,意見の内容に踏み 込めないのである(といふ可能性がある).
もし対手の立論に致命的な欠陥があるならば,そこを衝くであらう.たとえば 「式の計算が間違っている」「前提となる假定があり得ない」「提示した証拠が 事実と異なる」「その論理展開では,さういふ結論にはならない」などである. 立論の不備を攻撃するはうが,立論の周辺の立論ではない部分を攻撃するはうが よっぽどダメージが多い筈だ.たとへば「オレが傘を忘れたら雨が降る」といっ た主張を否定するために「彼は気象学会の人間でない」といふよりも,「それ はデータのつまみ食いで,それでは相関はわからない」といふほうが致命的だ. 前者は,「では気象学会員が言へば意味ある主張なのか?」といふ逃げがあるが, 後者は,常に正しい指摘であるためだ.
意見における論証の過誤を指摘すれば「致命傷」になるのに,その致命的な指摘 をせず,わざわざ意見の周辺をうろうろ非難してゐるのは,それしかすることが ないからだ,と考へたはうがわかりやすい(もちろん,わかりやすさと妥当さは 違ふ.実際には立論に致命的な欠陥があるのだが,非難者がそれに気がつかず, あるいはその価値に気がつかず,周辺を非難するといふこともあるかもしれない.).
これは,ある命題が間違っていることを証明できないから,その命題は真だ,と いう錯誤である. 間違っていることが証明できないからといって真とは限らな い.
Absence of evidence is not evidence of absence.
証拠の不在は不在の証拠に非ず.
ある命題の正しさの保証として権威をもちだす錯誤である.権威者は権威の根拠 となるだけの実績があるだろうから,必ずしも根拠として間違っているわけでは ない.しかし,権威は論理ではないから,権威だけが一人歩きして,あたかも正 しさが保証された論証のように誤解することが間違いである.
たとえば,自分で考えればわかることに わざわざ権威をもちだすのは,注意を そらす錯誤(燻製鰊)を用ゐてゐる可能性がある.また,複数の異なる假説が並 立している際に,片方の権威だけをもちだすのは錯誤である.権威がある人の言 明が,論理的な考察(sound argument)の上での結論かどうかも注意しなければい けない.
なかにはもっと非道いものもある.
`世界を知っている某氏'曰.「そんなことは,世界では通用しない」
この言明はよく聞くもので,権威を笠に着てさういはれると反論できない場合が 多いだろう.しかし,「世界」というのが何を指しているのか曖昧(語義曖昧の 虚偽を参照)で,`世界を知っている某氏'と聞いている人とで同じものを考へて いるとは限らない.「世界」といふ言葉が曖昧なために,聞いている人はなにか とてつもないことを想像しがちであるが,実際は,「世界」とふのはたいてい, アメリカの誰かの派閥のことや,自分と同じ意見の人達のことである場合が多い. もっといへば,「世界」とは`世界を知っている某氏'その人自身のことだと思っ て差し支えない.であるから,このような言明には
対策:「『世界』とは,どの世界のことですか?,具体的に誰と誰のことですか?」
「そんなことは世間が許さない」「社会的に葬られる」
とは,ご本人が「許さない」,ご本人が「葬りたい」にすぎない場合がある.個 人が自分で考へればいいことに,わざわざ「世間」や「社会」をもちだすのは注 意をそらす錯誤(燻製鰊)であると当時に,自分の意見に自信がないことを表明し ている.であるから,読者諸氏は恐れる必要はない.
ある命題の正しさの保証として,その命題がこれまで信じられてきたからだ,と いう錯誤である.確かに,これまで信じられてきたことには信じられるだけの証 拠や実績があるだろう.しかし,これまで成り立ってきたからといって,それが 正しいとは限らない.
対策としては権威に討へる錯誤と同じである.
伝統も曖昧な概念である.たとへば,「日本の伝統を守らなければいけない」と いう命題と,「日本は外来のものを積極的に取り込み,自分たちにあうように作 り変ゑてきた伝統がある」は互いに矛盾している.
伝統に訴える錯誤とは逆に,ある命題の正しさの保証として新しいことを根拠に する錯誤である.伝統による弊害が多く古いものにウンザリしている集団では, 単に新しければよい,という錯誤に陥いりやすい.
この錯誤は,ある命題の正しさの保証として多数の人が信じているから,定説だ から,人気だから,流行だから,ということを根拠する錯誤である.確かに,大 勢の人が正しいと思ってゐる命題は,傾向として正しいことが多い.しかし,だ からといって,それが正しいとは限らない.大勢の人が正しいと思ってゐること が実際に正しいことが多いのは,それぞれが自分の頭で考へて結論を出した場合 に限られる(それでも全員が共通の錯誤をしてゐるかもしれない).
例:文明世界の人々は全て,地球が宇宙の中心だと考へてゐます.(16世紀の人)
現在,多数の人が正しいと思ってゐることも,数世紀後には,「21世紀の人は, このやうに間違った常識をもってをりました」などと云はれるかもしれない.い つの世も間違いはつきものだから,これはこれでよい.ただ,「みんながさう思っ てゐるから」という理由で,よくよく自分で考へれば違う結論になることを見落 すのは残念だ.
なお,流行は「はやりすたり」という意味であるから,流行という言葉の中に廃 れて人気がなくなることが含まれているので,「流行」という言葉自身が多数決 で正しさを決めることの正当性を否定している.
argumentの正しさはそれを信じる人の数ではない.
と言うは易しいが,我々自身の中に,なんとなく流行だから定説だからというこ とで深く考えずに信じている命題が必ずあり,我々自身がそういう偏見をもって いることを自覚することがむつかしい.
この錯誤は,ある命題が正しいのは可能性がゼロではないから,という錯誤であ る.
例:恐竜が現在も生きてゐる可能性がゼロではないのだから,それ(誰それが見 た物体UMA)は恐竜だ.
確かにゼロでない限り,ある命題(言説)が正しいかもしれない.で,問題は可能 性の大小である.ゼロでないのはいいとしても,あまりありさうにない可能性と, かなりありさうな可能性と,どちらをより考慮すべきかは明らかである.もちろ ん,可能性がありさうな方を重点的に考慮すべきである.ここで注意すべきは, 可能性がなささうだからといって無視していいとは言へないことである.ただ時 間の都合で結果的に無視することがあるかもしれないが,それは理想的な論理的 考察からは外れる.
この方針に問題がないわけではない.それは可能性の大小は多くの場合(特に, 議論の余地がある現象についてはなおさら),明確にわからない.客観的に定量 的に可能性を見積ることは概してむつかしいので,本人の主観的可能性に依存し てしまひがちである.そして,主観的可能性であれば人により,「キミはさうか もしれんが,オレはかう思ふ」となって科学的合意に達せ得なくなる.
かといって,それぞれの可能性を均一に扱ふと「蓋然性」の項目で述べる「無差 別の原理」−−つまりそれぞれの命題が正しい確率が等分されるとすると,エン トリーする命題が多いほど,個々の命題の蓋然性が低くなる.その個々の命題の どれかに正しい命題があるとすると,対立する命題が増えれば増えるほど,「真 実」の命題(が含まれてゐるとして)に到達する可能性が低くなる.逆に,まさに それを利用して,ある命題を否定するために,それ以外の可能性を,これでもか というくらゐ列挙してその命題の確からしさを損ってしまふ「詭弁」がある.
例:恐竜が絶滅したのは,火山活動の活発化で炭酸ガスが増えたことによる温暖化のせいかもしれない.
いや,火山活動が活発になると核の冬効果で寒冷化する.そのせいかもしれない.
いや,生態系の漸進的な変更で,ニーシュ(niche,ニッチェ)を追はれたとも考へられる.
いや,未知の病気も検討する必要がある.
いや,未知の宇宙人の侵攻もゼロではない.
いや,既知の宇宙人の侵攻もあるかもしれない.
いや,種の寿命とも考へられる.
意見は結構なんだけれど,結局は,考察が混乱することが弊害といへる.
「...とも考えられる」とか「...かもしれない」といふ論法は,詭弁的相殺 法になりやすいものである.ひとつやふたつ反駁されても,次から次へと新説を 並べてウヤムヤにしてしまはうとする作戦なら,それはまぎれもない詭弁である. もちろん「...とも考へられる」といふ説が、学問的にも現実性のあるもので あれば,それは貴重な反論として,真剣にとりあげなければならない.しかし, ただ論理的・抽象的可能性として「ありうる」だけで,「多分さうだらふ」とい ふ現実性・蓋然性を無視した説にこだはるのは,本人が主観的にどういふつもり で述べてゐやうと,詭弁といはれても仕方がない.(野崎昭弘「詭弁論理学」中 公新書,p.67,68)
これは意図してやれば詭弁になろうが,科学者としては無意識のうちに,なんと なくその言説(命題)に納得いかずに,その言説を否定する可能性を心の中で思ひ かへすといふことはあるかもしれない(この批判的な姿勢は「悪魔の代言人」の 項目で述べるやうに「お手盛り」にならないために重要である).詭弁かどうか は内面の問題であって,ここで論ずるところではないが,対抗する言説の列挙が 有用かどうかは,列挙された言説がどれくらゐ可能性をもってゐるかに依存する. まったく可能性がないことであれば,詭弁はどうかはともかく時間のムダである し,可能性が高いのであれば批判として重要である.
■余談
例A:恐竜が現在も生きてゐる可能性がゼロではないのだから,それ(誰それが見 た物体UMA)は恐竜だ.
と書くとあんまりなので,
例B:恐竜が現在も生きてゐる可能性がゼロではないのだから,それ(誰それが見 た物体UMA)は恐竜かもしれない.
とすると,「そうかもしれない」といふ意味では妥当な命題である.なかなか命 題の例はつくりにくい.あからさまに間違った命題だと「誰もこんなにアホなこ とは考えへん」といふ内容になってしまふし,少し洗練すると妥当な命題になっ てしまって,錯誤でなくなってしまふ.
そのやうな場合,現実世界では命題が妥当かどうかより,言葉と態度の乖離が問 題になることが多い.たとへば,例Bといふ命題を口にする人が例Bのやうに,一 つの可能性として他の情況証拠と一緒に検討してゐるのなら妥当なのだが,実際 は,例Bといふ命題を口にしつつも,実際は例Aと信じて(信じるのは自由だが)そ のやうに行動してしまってゐることがある.言葉の上では,例Bのやうに妥当な のだが,実際の行動はそれとは異なって錯誤に基づいたものとなってしまふ.
■余談2: 例のところで物体としつつUMAと書くと,Animalといふとこ ろは確定したという判断が表明されたことになる.この場合,物体なんだから object, UMOとしたはうが妥当だがそんな言葉はない.世間一般ではUMAと呼称さ れる物体は,少なくとも動物であることは確認されてゐるのかもしれない.
この虚偽は,討論会などで,相手の悪評を聴衆に訴えることによって,相手の意 見自体の信憑性を落す虚偽である.人身攻撃の一種.
例:ニュートンは錬金術師で科学者としてまともな業績は数えるほどしかない. しかも,無実の人を魔女狩りで処刑し,その人たちの財産を奪っている. だから,ニュートン(の力学や光学の理論)は間違っている.
云ふまでもないが,人格が破綻していても,大悪人だったとしても,それでも, その人の云うことが論理的に正しいということはありえる.論理の正しさは人の 正しさ(?)とは関係がないのである.
この錯誤は,話者があることについて話さないのは,そのことを知らないからだ /黙秘しているのは,人に言えないような(悪い)ことをしたからだ,と思う錯誤 である.話さないからといって知らないからとは限らない.話さないからといっ て悪いことをしたとは限らない.
例
甲:ナントカさんの携帯電話の番号知っているか?
乙:ああ,知っているよ.
甲:じゃ,教えてくれ.
乙:なんで教えなきゃいけないんだ.
甲:言えないってことは知らないんだろ.
例:あなたが黙っているということは,あなたが犯人だと考えていいのですね?
「読む人のことを考えろ」「見る人のことを考えろ」「聞く人のことを考えろ」 とは,誰か(たいてい上司や先生,権力ある者)が誰かの表現(プレゼン,作文等々) を叱る際に,しばしば聞くフレーズである.正論である.しかし,さういふこと は,云はれた本人にしても云はれる前からわかってゐることである.「読む人の ことなんてどうでもよい」「見る人のことなんてどうでもよい」「聞く人のこと なんてどうでもよい」と思ふ人はほとんどゐない(それに,さういふ人が他者に 向ってプレゼンや作文をするのは自己矛盾だ).たいていの人は云はれ なくても正論がなにかわかってゐるし,そうしたいけれど,現実には改善されな い.「読む人の読みやすい文章」が書けないのである.わかっているけれど実行 できない,そこにそれらの人の問題がある.
わかっているのにできない人に対して,わかっていることを今さらのように云う のは意味がない.決して賢い人のアドバイスではない.丁度,病人に向って, 「病気のままではいけません.病気を直さねばなりません」と云ふに等しい.そ んなことは病人だってわかっている.それこそ,「聞く人のことを考え」ていな い助言である.だから,さういう意味のない助言(?叱咤)にたいして落ち込むこ とも,同様に愚かである.ほんとうに役に立つ助言とは,どうすれば「読む人の メリットになる」「見る人のメリットになる」「聞く人のメリットになる」かを 具体的に実行可能な形で提示することである.助言はむつかしいのである.助言 をちゃんとしようと思ったら,決して威圧的な態度はとれないし,簡単に言い捨 てて済ますことはできない.助言は責任が重い.
一般論だけ書いても有用ではないので,例をあげる.
ある家族グループがキャンプで飯盒炊爨した.食事は終わり,子供は飯盒を洗っ てゐるが,はじめて要領を得ないためか,はかどらない.時間が押してゐる.そ れで,親は,「しっかり洗いなさい」「もっと早く洗いなさい」としきりに叱咤 する(親本人は激励のつもりかもしれない)が,特に早くはならない.
時間が押してゐるので「早くしろ」「しっかりやれ」は正論であるが,正論を聞 かされる側にしても,「そんなことはわかってゐる」を反論したいだろう.これ らの言明は,したがって,役に立たないもので,端的に云へば,云ふ側の自己満 足に終始する.もし,なにか有益なことを云ひたいのなら,次のやうに云ふべきだ.
「飯盒をゴシゴシ洗う音が,ここまで聞こえるやうに洗ってごらん.」
この例は岩下 修著「AさせたいならBと言え」(1989)によった.
なお,「読む人のことを考へろ」「見る人のことを考へろ」「聞く人のことを考 へろ」といふのは,無意味な正論以上の問題がある.そもそも正論は命題の一つ で,命題は平叙文になっていなければならず,疑問文や命令文であってはならな い.だから,これらは命題になおすと,「読む人のことを考へるべきだ」(以下, 同様)になる.しかし,提示されてゐるのは命令文である.ここに問題がある. なにが問題か? 命令文と平叙文で何が違うか?
答へを述べる.命令文にすると,「お前は読む人のことを考へてゐない」という 断定が含まれる.読む人のことを考へてゐる人にわざわざ「読む人のことを考へ ろ」と命令する必要はないからである.では,「お前は読む人のことを考へてゐ ない」という断定は,どの証拠にもとづいて断定できるのか? たいてい命令す る人はそのやうな根拠は示さない(しかも,たいてい反論も許さないが).それに, 人の心の中は誰にもわからない.したがって,「私のどこを見て`お前は読む人 のことを考へてゐない'とわかるのか? 私の心の中がさうかどうか,どうしてわ かるのか?」と反論(正確には,反問)すれば,この命令の問題が明らかになる. わかるはづのないことを彼は言及してゐるのである.端的に云へば,「読む人の ことを考へろ」とは,ワキの甘い,粗雑な思考の産物であって,ワキを固めやう とすると,「ここのところが,論点が迷走してゐる」とか「ここの言葉の使い方 が曖昧で,どう理解していいのかわからない」とか「この話を聞かされる前に, 予備知識が必要だか,それはもっと後になって出てくる」といった具体的なアド バイスになるだらう.
結論が正しいからといって,その論証が正しいとは限らない.論証が間違ってい ても結論は正しいことがある.
例1:カラスは飛ぶ.
飛ぶものは鳥である.
したがって,カラスは鳥である.
例2:カラスは白鳥である.
白鳥は鳥である.
したがって,カラスは鳥である.
結論は事実として正しいが,論証は誤りである.もし,結果があっているのなら 論証もあっている,ということを認めると,直ちに次のようなことで困る.
例1+: 例1は結論があってるのでの論証は正しい.
したがって,前提命題は正しい.
つまり「飛ぶものは鳥である」は正しい.
例2+: 例1は結論があってるのでの論証は正しい.
したがって,前提命題は正しい.
つまり,カラスは白鳥である.
立場の強い人,声の大きい人が弱い人に有形無形の圧力をかけ自説を押し通す議 論.押し通したからといって正しいわけではない.
恫喝的議論は人身攻撃,権威に訴える錯誤,多数決に訴える錯誤等々と関連して, 論理ではなく力による攻撃である.これらの力による攻撃に直面するのは,とて も苦しい.これにどう立ちむかうかは論理学よりも「ヤクザとの対応の仕方」の 教説を参考にしたほうが実利があるだろう.しかし,論理学として覚えておくべ きは,「力による攻撃では正しさの保証はできない」,「力による攻撃で自分の 命題が否定されても,それはその命題が正しさを失なったわけではない」という ことである.力による攻撃で自分が平静を失うこと,これが力による攻撃をする ものの最大の狙いであることが多い.inner peaceは自分が亡くさない限り自分 の内にある.「それ(力による攻撃)と,これ(今問題にしている話題)とどう関係 しているのですか?」と口に出せるなら口に出して,口に出せなくても心の中で つぶやいてみよう.最後の手段として,人間は「退席」する権利が認められてい る.どうしようもない議論に対して付き合う必要はなく,ただ「私にはついてい けません」と云って退席することができる.
詭弁で論争に勝てるのなら詭弁は魅力的だと思ふ人のために,詭弁のデメリット を述べる.メリット論(損得)で述べる理由は,詭弁にあこがれる人は正しさより も権力,すなわち勝つか負けるかといったメリットに関心(interest)があると (私が勝手に)推測したからだ.「詭弁は正しくないから使うべきではない」とい うのは本質論であるが,メリットにしか関心がない者には通用しない.
「命題の売人」の文脈で云へば,世の中には真実を愛する売人とパワーを愛する 売人がゐて,パワーを愛する売人が好む論法には根本的にデメリットがある.そ れをこれから述べる.
論理学やクリティカルシンキングを学んでいなくても,こちらが誠実な論証では なく,人身攻撃や力に訴える錯誤をすれば無理やりに説き伏せやうとしているこ とくらいは相手にはわかる(わからないのは,こちらの意見に賛成してゐる場合 だ.身内の過誤はわかりづらい).したがって,こちらの推論が強引であればあ るほど相手にとってはそれを見破りやすくなり,反論も容易になる.詭弁は強い といふのは勘違いで,実は弱い.致命的な弱点をもつ.場合によっては自分が一 箇所,詭弁を弄したために論証全体が疑わしい思はれてしまうこともありえる. 1つのミスで全てが失なはれてしまうのである.つまり,詭弁は使う者にとって 不利になり,危険を背負込むことになるのだ.これが詭弁を使うべきではないメ リット論的な理由である.したがって,相手に納得させようと思ふならば,結局 は妥当な推論をせざるを得ないわけである.それは相手が論理的に手強ければ手 強いほど,そうなる.
それでは相手が論理的に未熟であれば詭弁を弄してもよいのか.私はそうは思は ない.論理的に未熟なもの対して詭弁を使ってもよいといふのは,バレなければ 犯罪を犯してよいといふのと同じで,短期的にはそれでメリット論として通用す る(損をしない)かもしれないが,人生は継続してゐるので悪い習慣は必ず本人に 報いる.これには確証はない.ただ,私がそう信じてゐるだけである.
しかし,こうは云へる.自分の立論を詭弁と知ってゐながら尚もその詭弁を使ふ のは,もし,その人がよく考へるならば大きな矛盾である.それは詭弁であるか ら,その人は弱点を知ってゐる.弱点を知りながら,それを使うというのは,極 端なことを云へばタイヤがいつ脱落するかわからないクルマに乗るのと同じだ. タイヤが脱落する可能性があるなら,タイヤをチェックして脱落しないと自分が 確信をもてるまで乗らないだろう.立論もそれと同じで,弱点があるのならその 弱点をカバーできると自分が確信できるまで立論をチェックするだらう.それが 健全な推論だ.詭弁と知りながら詭弁を使いつづけるのは,自己欺瞞がなければ できない.悪いと思ってゐながら悪事に手を染め,ウソでもって正当化し,その うち自分でも自分がついたウソを本当を信じ込んで,真実が見えなくなっていく. ふと立ち止まって考へると矛盾に気がつくので考へない.やがて,思考力もなく なっていく.詭弁も似たところがある.詭弁を使うことによって自分を偽り,偽 りつづけるために,真実を避け,考へることをやめる.そして,自分の頭が悪く なり,今後の詭弁の説得力を減じることになる(上手な詭弁は頭脳の明晰さが必 要).説得力がなくなるので強硬な詭弁(強弁?)にならざるを得ないが,そうな ると誰にも信じてもらえなくなる.もともと,自分の立論を信じてゐないのは自 分であるから,それは当然の帰結である.
議論において双方の対等性は絶対的に必要であり,議論の健全性を担保するもの であるが,実社会において,ある人とある人が対等の関係になることはあまりな い.市民社会では市民は基本的に対等である.個々人としては対等であっても, 組織間,あるいは組織内としては対等でない.市民社会以前ではなおさら対等で はない.
科学・学問の分野では対等性を前提としてゐることが多いが,それでも師弟関係, 上司部下の関係,一般学生と大学の職にあるもの(直接の師弟関係はなくても), 学派内あるいは学派間での力関係が議論の健全性に水を指す場合もある.「誰誰 センセの理論に異を唱えられない」のは,その理論が正しいからではなくて単に 誰誰センセに逆らえないだけ,というやうな場合である.その理論はあってるか もしれないが,推論の健全性はない.
本稿の内容は,対等性が確保されてゐる場合において有効なことばかりである. 逆にいふと対等性が確保されない場合(実社会の多くの場合)ではまったくの無効 とはいかなくても,あまり有効ではない.たとえば,自分ひとりで,ある命題が あってゐるのか間違ってゐるのか虚心坦懐に考察する時には役にたっても,上記 のやうな力関係で物事が決ってくる場合には役に立たない.誰誰センセが,推論 の健全性を真に重要に思ってゐるなら話は別だが,異を唱える人間がゐようなど とありえない[あってはいけない]ことと思ってゐるかもしれない.そのやうな場 合に,「論理以前・論点以外の錯誤」(があったとして,それ)を指摘しても無駄 あるいはニラまれるだけかもしれない.もともと議論(の健全性)を齒牙にかけて ゐないのだから(それでゐて,自分[の理論]は論理的だと思ってゐるかもしれな い).しかし,場合・内容によっては異を唱えてみるだけの価値がある.それが 風穴になるかもしれないからだ.なぜ風穴になるのか? 誰しも「力関係で物事 を決してゐるのではなく,論理的に決定された」というポーズをとりたがるもの だからである.聞いてくれる人もゐるかもしれない.
また,場合によっては,特に学問以外の圧倒的場合では,そもそも対等でないの が当然の状況もありえる.責任者と部下は対等ではない.責任者は責任をとるが ゆゑに,決定権をもつ.部下は責任から免除されてゐるために発言権は弱い.そ のやうな場においては,そもそも対等の議論はない.推論の健全性もあやしい場 合があるが,そもそも,健全性は問題にならないのである.しかし,それでも議 論により,より妥当な結論を得る方法を身につけておくことが重要だ.人が複数 をり,智慧を絞るといふのはさういふことだから.残念ながら,本稿では対等性 が確保されない場合においての論述方法については述べないが,稿を改めて論述 したい.
権威や伝統,多数決などに訴へる錯誤は,概してステレオタイプな思考といへる. これらが健全な議論あるいは科学的な考察にとって危険なのは,自由な見方を失 ふからである.もうちょっと自由度が高いものにヒューリスティックがある.こ こではこれらの意義を少し述べ,若干の弁護をする.
ステレオタイプな思考やヒューリスティックを人間が発明したのは,判断を易く するためだった筈である.人間の認識力が限られてゐる.全ての情報を把握する ことはできない.限られた情報の中で,蓋然性の高い結論に到達するための思考 法がステレオタイプであり,ヒューリスティックである.
たとえば,伝統的に残ってゐる言い伝へには(例「ここに家を建てると山の神さ んが怒る」)正しいものがある(そこは土石流の頻発地).また,大多数の人が正 しいと思ふことは正しいことが多い.権威者は,これまでの実績があり,その判 断が正しいことが多いだらう.さういふ意味では,伝統や権威,多数の意見に従っ ておけば,概ね間違へないことが多いだろうと予想するのはまま妥当な推論であ る.自分に思考力がないものはさうしておけばよいといふ意見があるかもしれな い.実際,科学者でも,権威ある学術雑誌に掲載された論文は信用し,そうでな い論文は軽視す傾向がある.ただ,人間には思考力が賦与されてゐる.科学者な らなおさらである.また,伝統や権威,多数の意見に従ふと決めるのは思考力で ある.思考力があることを認めるなら,自分の思考力の及ぶところまでは,自分 の考へで判断することをお勧めしたい.
皮肉なことに人間の判断を易くするための発明品が逆に間違ひの原因になる.ス テレオタイプな思考やヒューリスティックによって自由な見方ができなくなると 書いたが,自由でなくても正しければいいかもしれない.ただ,自由な見方がで きなければ,正しい現実認識ができなくなる.自由な見方ができないといふこと は,ある(範囲の)着地点を予め想定して,その中で現実を認識しようとすること である.ワクに嵌めるなどといふ.もし現実が己の想定した範囲にない場合(ワ クに嵌ってゐない場合)には現実を認識できない.認識できないならまだマシだ が,自分の想定(ワク)を疑はずに,この想定のどこかにある筈だと盲信して,まっ たくもって荒唐無稽な着地点に無理苦理fittingさせることになる.これが正し い現実認識でないのはいふまでもない.
このやうに,人間の判断を易くするための発明品が逆に間違ひの原因になり得る ので,これらの適用つまり権威や伝統,多数決などに基づいた判断は,あくまで 補助的なもので,決定打ではないことを十分に承知するべきである.また,判断 材料がない場合はさういふものも利用して判断にかかるべきである(判断しなけ ればいけないなら).ただし,それはあぶなっかしい発明品にすぎないので,い つでも撤回することを覚悟すべきである.
更に,ステレオタイプな思考やヒューリスティックが危険なのは,これらの思考 法に一旦陥いると判断が楽なのでなかなか抜け出せないことである.現実がいく らその思考法が間違ってゐると告げても(現実はいくらその思考法の結論と違っ ても),なかなか自分の思考法のはうを捨てれない.それは一つには,これらの 思考法が基本的には単純で単線的な思考法であることによる.この思考法に慣れ てしまふと物事を単純で単線的な思考に割切ることで思考力が低下し,思考力が 低下すると,物事を更に単純に考へるようになる悪循環に陥いる.これを防止す るには,この思考法はあくまで補助的な手段であり,なんら確定的なものはもた ないことを判断ごとに思い出す必要がある.また,日頃から,複雑なことを複雑 なままに判断するといふむつかしい思考を自らに勉める必要がある.
■ 以上,あまり弁護になってゐない...(笑).強いて言へば,ス テレオタイプな思考やヒューリスティックに対して頭ごなしに否定しかかるので はなく,それにはそれなりの存在意義があり,診断方法としてもある程度の妥当 性を認めた上で限界を辨へて対処するのがよい方法であらう.もちろんこれは, 簡単な方法ではない.こんな方法は間違ってゐると切って捨てるはうが簡単であ る.しかし,いつだって現実とは簡単ではないものである.また,切って捨てる といふ行為それ自体が一つのステレオタイプであり,独裁者を独裁者で斃す愚に 陥いる.
例「この薬を飲むと風邪がなおった. だからこの薬は風邪を直すに違いない」
薬を飲まなくても, 自然治癒力でなおりかけていたのかもしれない(もちろん,薬 が効いてなおしたのかもしれない). 前後関係は, かならずしも因果関係を証明 しない. 風邪薬だと, 上の命題に賛成する人も多いと思われるが, あやしげな薬 や, 風邪に関係のない腹痛の薬だと, 上の命題は錯誤であると思う人が多数だろ う. Statementsをドレスアップすると, うまく人を信用させることができるが, 結論が本当とは限らないし, 推論としては誤りである.
薬を飲もうと思うのが, 一番症状が重い(と本人が感じた)時であることが多 い. そして薬を飲まなかった時の結果はわからない. 人は, その一番重い時と, 薬を飲んだ後で症状が軽くなったという結果しか知らない場合, 薬が効いてよく なったのか, それとも別の原因(自然治癒力や, 症状に波があり, 一時的に小康 状態になったという理由)なのか, これだけではわからない. わからないはずな のに,そう思い込んでしまうのは錯誤である.
地質学(古生物学を含む)では,時間的前後関係を把握できても因果関係はわから ないことが多い.また, 全ての歴史学がそうであるように実験(比較対照のコン トールが存在する実験)はできない.そのため,前後関係から因果関係を推測す ることがよくあるが,慎重に推論しないとこの錯誤に陥いる.
例:ヒトの二足歩行と脳の容量の巨大化
ヒトの祖先が二足歩行しはじめたのは,猿人のころとされており,700万〜500万 年前ごろである. 猿人の脳の大きさは類人猿とあまり変らなかった.脳の巨大 化がはじまるのは250万年前ごろからである.
二足歩行と脳の巨大化はあきらかに前後関係にあるが,だからといって, 時間 的前後関係だけで因果関係(二足歩行が脳の巨大化の原因である)という推論は weak argumentである.「二足歩行により手が空いたために道具を使うようになっ た,その結果,脳が巨大化した」というようにもっと具体的に推論を積めれば説 得力が増す.
ある物事の間に相関関係が認められるからといって,因果関係が存在するとは 限らない.しかし,相関が認められると因果関係があるかのように錯覚してし まいがちである.
例: 子供の靴のサイズとその子の知っている漢字の数には相関がある. だから, 靴のサイズが大きくなることによって, 漢字を知っている数が増加するのであろ う(南印による).
靴のサイズと漢字の数, どちらも子供の成長にしたがって増加したのであって, 両者には直接の因果関係はない.
例: 咳がある時は, 熱が出る. しかも, 咳がでた後に熱が出る.
したがって, 咳は熱の原因だ.
「愛鳥家の錯誤」は因果関係をまちがって推論してゐる錯誤のひとつで,あるこ とが自然ななりゆきで生じてゐるのに,自分がそれが起きるやうに思って為した行 為によってあることが起きたのだと勘違いすることである.
愛鳥家が散歩してゐると地面に雛鳥がゐるのを見つけた.雛鳥は巣から落ちたら しい.愛鳥家は,雛鳥を家に連れかへり食事を与へた.愛鳥家は雛を育てるにあ たって,単に餌を与へるだけでなく教育もしないといけないと考えた.特に,飛 べるやうにならなければ雛鳥は野生で生きていけないので,飛び方を教へること にした.しかし,愛鳥家は飛べないので,鳥の飛んでいる写真や鳥の飛んでゐる ビデオを用意し,雛鳥に懇切丁寧に飛びかたを教へた. しばらく,さうやって 教育した後,雛鳥は遂に飛べるやうになったのである.(Zechmeister & Johnson)
この現象は100回くりかえしたら100回とも同じやうになるだらう.再現性はある. しかし,このことから雛鳥は愛鳥家が飛び方を教へたから飛べるやうになったと 考へるのは早計である.雛鳥の成長にしたがって自然に飛べるようになったのだ, と考へることができる.この場合はそちらのはうが妥当な推論であらう. しかし,同じ錯誤を自分がしてゐないと言いきれるだろうか? Cause and effect(因果の法則)で変化してゐるのではなく, 自然ななりゆきで変化してゐるのではないか,と問ふことが重要である.
因果関係を逆に推論することである.
例: この子猫は可愛いから,愛されているのだ.いや,この子猫は愛され ているから,可愛くなったのだ.
この例では実際は相乗効果かもしれない.相乗効果かもしれない例で,学術的 (この場合は歴史学)なものをひとつあげよう.
例:江戸時代の,各藩ごとの人口の推移と,新田開発の推移をグラフにしてみる と,実によく合ってゐる.新田開発が進めば,人口が増えていき,新田開発が停 滞すれば,人口は抑制ないし現象してゐる.
この例は鬼頭宏(2000「人口から読む日本の歴史」講談社,p.98)より借用した. 鬼頭はいふ:「いかにも耕地拡大の余地がなくなったことが人口増加を規制して ゐたかのやうに思はれるが,事実は単純ではない. 人口停滞が開発を停滞させたとみることもできるからである.人口と耕地面積は 相互依存の関係にあったから人口増加した地域は,それで大きな耕地拡大が可能 だったからだとただちに結論することは困難なのである. (常陛假名遣に改めた)」
地質学では, 相関関係は知り得ても, 因果関係はわからないことが多いために, 往々にして原因を結果を混同しやすい.
例: プレートが中央海嶺で拡大するので, プレートが押し出されて海溝では沈み込みがおきる. いや,海溝でプレートが沈み込むので, 引っぱられて中央海嶺でプレートが拡大する.
例:断層は地震の結果だ.いや,地震のほうこそ断層運動の結果だ.
原因帰属の錯誤は原因の帰属(理由)を綜合的に推測するのではなくて,ある特定 の事物が原因であるだろうと推論する錯誤である.
彼が階段でコケたのは,彼がドジだからだ.
確かにさうかもしれない.しかし,階段がすべりやすくなっていたのかもしれな い.このような考察を抜きに,理由を特定の事物に求めてしまうのが原因帰属の 錯誤である.
例: 火事が,どうして起きたかって? 燃えるものがあるからさ.
確かに.可 燃物がなければ燃焼はおきない.しかし,あなたが火の始末をちゃんとしていた ら火事にはならなかったのではないですかね.
例: 鉄工所で火事起きたのは火花が飛んだことが原因というより, 鉄工所に可燃物を持ち込んだ愚かものがいたからだ.鉄工所は常に火花が飛んで いる.それで火事になるなら,世界中の鉄工所で火事になる.
「複合的な原因の単純化」の錯誤とは, 単一の原因のみを指摘する錯誤であ る. ほとんどの自然界の現象は複合的な原因からなる.原因のどれかひとつでも 欠けたら,その現象はおきない.たとえば,交通事故で,スピードを出しすぎて いなかったら事故にはならなかっただろう.自分も相手もお互い観察しあってい れば事故にはならなかっただろう.雨が降って視界が悪くなかったら,制動距離 が延びなければ事故にはならなかっただろう...
原因というと失敗の原因をイメージすることが多いが,成功の原因について も同じことが言える.ある野球チームが優勝した原因としては,監督の指導力で す,いやいやピッチャーがよかった,4番バッターがよかった,いや全体的に守 備がよかった,いや,打線が好調だった,ファンの応援が貢献した,球団の財政 的基盤が強かったのです,というように幾らでも原因は考えられる.
複合的な原因が考えられる現象の原因について議論している時, なにについて の話題かを明確にしないと, お互い理解しあえない.
例: 刺殺体をみて, 法医学者は原因(死因)は外傷による失血死だ,と言 うだろう.警察は, 誰かが刺したことが原因と考えるだろう.
広義には, 事件・事故が起きた背景も原因/間接要因をしてあつかうべき時もあ る. たとえば,産業革命の時に,イギリスでは知能の著しく低い学童が大勢いて, 問題になったことがあった.学童の知能の低さの原因はアルコール中毒だった. どうして学童がアルコール中毒になったかというと,乳幼児の時に母親が子供を 寝付けるためにアルコール(ジン)を飲ませていたのだ.どうして母親が子供にア ルコールを飲ませていたのかというと,子供の面倒を見てやれないためである. 子供の面倒を見てやれないのは,働きに出なければいけなかったからである.働 きに出なければいけない理由は,働かないと一家が喰っていけないからである. このような場合に,原因を子供が親によってアルコール中毒にされていると考え て,子供にアルコールの飲ませることを禁止しても状況の改善には効果がないだ ろう.
ある人が安全性の低いビルを設計した.安全性の低さは法律に反している.設計 者が原因なのは勿論だが,安全性が低くなってもコストを押えるように依頼した 建設会社は原因にならないのか.建設会社は依頼したのであって強制したのはな い.しかし,依頼といっても業界を寡占している者が依頼をすれば,実質的に命 令になる.しかし,設計者は仕事を放棄すれば正しいことができたはずで,仕事 のために良心に反することをした.しかし,その設計者がしなくても同じことを する設計者はいるのでビルの安全性の根本原因は他にあるのではないか.また, ビルを公開する前に安全性を検査し承認する検査会社がこれを見過したのは原因 ではないのか,検査業務を委託している役所の監督不行届きは原因ではないのか, 安いことに目をうばわれたてビルを購入した購入者は原因ではないのか.
複数の複合的な原因のうち, どういう原因について議論しているのか明確にせず に(合意もなく), どれかの原因のみをとりあげ強調し, 他を不当に無視すること は錯誤である.
大きな問題は, 大きな原因によるべきだ, という錯誤. 原因と結果が似ているべ きだという錯誤.
例:「黒死病は,なにか大きな原因によるものだと考えるべきで,目に見えな い小さな生き物によってとは考えれられない.そんな小さな生き物が人間の生命 を奪うとは考えにくいからだ.」
例: ヒトとチンパンジーの違い
甲:ヒトとチンパンジーは随分と違う(異論があるかもしれないが,ともかく,最初 こういう前提に立つ.この意見に無条件に賛成する人も多いはずである).この 違いは人と動物を隔てる重要な違いであるから, なにか大きなものが原因でヒ トとチンパンジーは違っているはずである.たとえば,DNAが大きく違うはずだ.
乙:ところが,DNAの配列はヒトとチンパンジーでは98%共通する.
甲:そんなはずはない.たぶん.DNAはヒトとチンパンジーの重要な違いには関与してい ないに違いない.
さまざまな錯誤がからみあった議論だが,類似性の錯誤の観点で指摘しておきた いのは,「大きな違いは,大きな違いに由来するべき(はず)だ」という錯誤であ る.2%の違いが,ヒトとチンパンジーの違いをつくることはありえる.また, 2%は小さい違いというのは妥当性がない.DNAの90%はジャンクだ,というのが 本当なら,残り10%がその生物を作るのに意味ある情報なわけで,10%のうちの 2%は20%に相当する.
補足その一:「随分と違う」とか「大きい/小さい」いう言葉はあいまいでどれくらい 違うのかわからないところがミソかもしれない.
補足その二:もっともこの議論は,なにを計って2%なのか,ジャンクというの はどういう意味か? そういう曖昧さを明確にしなければいけない.
同様に, 他人がうまくいくのは運のせいで, 他人がうまくいかないのは努力の 欠如, と思う錯誤である. 自尊心の維持や自己一貫性の確保という動機や欲求 にもとづく心理学的説明と認知メカニムズムによる説明がある. 認知メカニズ ムに起因するのなら, 完全に理性的な人であっても同様の錯誤に陥いることに なる.
認知メカニスムによる説明: 自分の努力は自分でわかるが, 他人の努力はよくわ からない. 入手できる情報が非対称であることに起因する. いかなる成功も多少 は努力が影響しているために, 努力が成功の要因と考えるのは(その人にとって は)自然である. また,失敗というのは, 多かれ少なかれ努力の甲斐なく失敗して しまうものであるから, 失敗の原因を努力以外のところに求めるのも(その人に とっては)自然である.
「なのに」は逆接の接続辞だが,「だから」と順接でつないだはうがよい場合もある.
例:こんなにがむばってゐるのに,できない!
確かに,いくらがんぱってもできないのはつらからう.しかし,すこし距離をとっ て,自分と問題を見てみると,
こんなにがむばってゐるから,できない!
といふことはあるかもしれない.がんばればがんばるほど,体力を消耗し,視野が狭窄し, 思考に偏執するようになる.がんばってゐることが,よい結果の原因になるのではなく, よい結果を妨害する原因になることもあるかもしれない.
松尾喬著の「高級紳士スキー教程」(パロル社)には,パワフルに見えるから(の に,ではなく),スピードが遅いスキーヤーと,パワフルに見えないから(のに, ではなく),スピードが早いスキーヤーとが対比されてゐる.
信念に合致する情報は証拠として認識しやすいが, 信念に反する情報を認知する ことは難しい.
例: 傘を忘れた日に限って雨が降る.
この例では変量が二種類ある. 傘のある/なしと雨の降る/降らない, である. この命題の真偽を判定するには, (傘をもってきて雨が降った割合)と(傘をもっ てこなかったけれど雨も降らなかった割合)とを比較しないといけない.
非常に繁雑なので表にする.
雨が降る | 雨が降らない | |
傘を忘れる | 忘傘∧降雨 | 忘傘∧不降雨 |
傘を忘れない | 不忘傘∧降雨 | 不忘傘∧不降雨 |
上の表では, 「傘を忘れて雨が降った」割合 は
であり, 「傘を忘れなかったが雨も降らなかった」割合は
であるから, 傘を忘れることと雨が降ることの関係は
人は, 傘を忘れて雨が降った時(XY)のことと, 傘をもってこなかったが雨も降ら なかった時のこと( )を重要視する傾向がある. そのため, 傘を忘れず雨が降った時の回数と傘をもってこなかったが雨も降らなかった時の 回数を比較( と の比較)として, 「傘を忘れた日に 限って雨が降る」という推論をしてしまいがちである.
また, 雨が降って傘を忘れた時のことは印象に残りやすいが, 傘をもってきて雨 も降った時のことは失念しやすいのである. 通常の出来事は気にとめない(出来 事としてすら認識されない)が, 予想外の出来事や通常と異なる出来事は記憶に 残りやすい,という傾向が指摘されている.
この事例では,コントロールの幻想(illusion of control; Langer, 1975)が指 摘されている.コントロールの幻想というのは,自分の意図や能力,存在によっ て(本来無関係な)結果が左右されるという幻想である.自分が忘れたことによっ て雨が降ると考える(降る降らないは偶然の現象だが)ことは,自分は天気に影響 を与える特別な存在なのだという幻想を満足させる.そういう幻想を抱く理由と して,自意識過剰あるいはその逆に自信のなさが挙げられている.
人はある假説が正しいことを検証する場合には, その假説をsupportするような 証拠を探す傾向がある(「確認したい重複への渇望」4枚カード問題を参照). 仮 説を否定するような証拠は探すことには消極的である.
この傾向は, 単純に,假説が真であってほしいという欲求から生じているわけで はない. 人間は假説が真であればどうなるかについてはよく知っているが, ど ういう事例が假説の間違いを証明するかについては, 直感的にわからない. ま た, 假説を否定する証拠がない, ということ証明することは困難.
人は,信念を否定しかねない証拠を単に無視するのではなくて, その証拠の妥当 性や, その証拠を導出した論拠や方法論の欠陥をいくつも指摘する傾向があ る. このような認知論的変換を通して, 証拠の存在自体は否定しないが, その証 拠の価値を比較的重要でないものに変えてしまう. たとえば,実験の不備を指摘 したり,結論の位置付けを自分の信念と矛盾しないように変更してしまうなどで ある.
自分や自分の信念に賛成する人間は, 自分の証拠の蓋然性についてどうしても甘 くなりがちであり, 信念が異なる人たちは厳しい. このため, 自分の信念に賛 成する人は, 逆に, 自分の推論の妥当性を示す役に立たない. 一方, 自分の信念 に反する人たちの方が, 自分の証拠や推論に批判的なために, 自分の立論の妥当 性を示すのに役に立つ.
しかし,一方である意見を批判することは往々にしてその意見を述べた人を批判 することに(間違って)解釈されがちである(人身攻撃).そのため謙虚な人や保身 的な人は批判的意見を述べにくい.また,集団の中では力関係や同調圧力によっ て反対意見・批判を述べにくい雰囲気が往々にして形成される.このような状況 では得てして批判は機能しなくなり,間違った思考にとらわれることになる.そ のため,健全な思考のためには批判・反論のための役割(Devil's Advocacy; 悪 魔の代言人)を設定しておくことが重要である.Devil's Advocacyは反対・批判 をするのが仕事なので,その仕事をはたしたからといって周囲は嫌な奴だと思わ ないだろうし,嫌な奴と思われないから,思いきって批判の仕事に身を入れられ る.Devil's Adovocacyは力関係や同調圧力があってもその仕事を果さねばなら ないので,骨抜きにされない限り機能すると期待できる.
これは,あるもの(甲)とあるもの(乙)との相関関係をこじつけるために, 甲の定義を乙にあうように設定する誤謬である.
テキサスの陸軍の上官が狙撃兵に腕を問うたところ,狙撃兵はある塀を指差さし た.その塀は遠くにあるのに,銃弾は的の真中に命中していた.上官は,この狙 撃兵の腕は見事だ,と思ったが,実際はそうではなかった.彼は最初,銃弾を塀 に発射して穴をあけ,そのまわりに,あとから的を描いたのだった.
集団で判断や推論をする場合, 個人のそれより妥当で, より客観的な推論・判断 がなされることが多い一方, 驚くほど愚かな推論・判断がなされることがあ る. 個人個人を見れば, 優秀な人材であっても, その総和としてのグループは, 個人の優秀さの総和とはとても言えないことがある. グループにおける, かなり 偏った判断・推論であり, とても妥当, 客観的とは言えない思考は病理的集団思 考(Group thinking)と呼ばれる.
恐怖あるいは潜在的な恐怖が支配する集団では, ある決った意見以外は発言しに くく, 反論が難しい場合がある. 誰かがいい出したために, ほとんどの構成員が したくない, するべきでないと考えていることをするように集団で決めてしまう 場合がある. 同調圧力は同調を強いる圧力である.
補足: 「日本人は同調指向が強く, 他(欧米人?)はそうではない」という意見が あるが, これは正確とは言えない. 同調圧力や集団思考の問題点については, 欧 米の研究によるものが先行しており, 欧米人にも同調圧力が認められているし, 実際に最近でもそれによって大きな失敗をしたと考えられる(チャレンジャー号 の爆発*補足). 違いは, むしろ, 「人間には同調圧力というものがあって, それ によって判断を間違える危険性がある」という認識の有無ではないか. さう思ふ ものの, 筆者は欧米人の認識も教育も知らないので, なにも言へない. 言へるの は, 私自身が受けた学校教育の中では, 同調圧力に関する教育がなかったことで あり, 是非とも, これが常識として理解されることを願ふ.
同調圧力は,多数決に訴える錯誤と関係している.
補足2: 同調圧力については,ソロモン・アッシュの同調実験 や,スタンレー・ミルグラムの「服従の心理」がよく知られてゐる.前者の有名 な例は,数人の人に,3本の長さの違ふ棒を見せた上で,別の棒を見せ,どれが 同じか当てさせるものである.この実験では,数人のうちに被験者がおり,被験 者は他の人も被験者の立場だと考へてゐる.通常,ほとんどの被験者が間違へな い.しかし,数人の人といふのは実はサクラで,全員にわざと間違った答へを言 はせるやうにすると,被験者はそれに動揺してか,明らかに長さが違ふ棒を同じ 長さだと主張するやうなる,といふものである.
サクラの数を違へてみると結果が変わる.サクラの数が増えると被験者の日和る 数は増える.日和るという現象事態はサクラが3人でも10人でも同じで,みんな が反対してゐるのに自分だけそれとは違った主張をするのはイヤなのだ.しかし, 自分以外に正しい答えを出した人が1人でも混ってゐれば,被験者が日和る率は うんと下る.同道がゐると心強いといふことか.
グレゴリー・バーンズによれば,脳をMRIで見たところ,他の間違った答えに日 和ってみえるようでも,実際には被験者は日和ってゐるのではなく,間違った答 えが正しいと認識してゐる(ウソをついてゐる自覚は脳にはない),といふ.
話は飛ぶが,スタートレックThe Next Generationに似たシーンがある.カダシ ア(カーデシア)といふ敵国に捕虜になった宇宙艦隊の艦長が拷問され,目の前の ライトが実際には4つであるにも関はらず,5つであると云へ,と命令される.艦 長は気丈にも命令は拒否するが,救出後,仲間に「その時,自分の目にはライト は5つに見えていた」と告白してゐる.これはお話だから実際そうかどうかは別 として,周囲の影響により,嘘とか間違ひであっても,それが心底正しいものに 見えるとことがあるかもしれない,と用心しておかなければならない.これは同 調圧力といふよりは,自己欺瞞が堂に入ってしまって,真実を見る目を失ふ話. なぜ,艦長はライトが5つに見えるのに「5つ」と云はなかったのであらうか.私 は,前まで4つに見えてゐたものが5つに見えるのは知覚のはうがおかしいってこ とになる,つまり知覚ではなく,自分の理性のはうを信じたからか,と今のとこ ろ考へてゐる.極限状態に陥ると知覚がおかしくなるから知覚を信用してはいけ ない;知覚を無視してはいけないけれど,知覚を無条件に信じてはいけない. 「ライトは4つ」の出典はおそらく 『1984年』の「指は4本」.
*補足:チャレンジャー号の爆発 1986年1月.初の民間人(教師)宇宙 飛行士(クリスタ・マコーリフ)を載せたフライトであったが,打ち上げ直後に空 中爆発した.技術的な原因は固体ロケットブースターのOリングが低温により(当 日は異常気象による寒波で氷柱がシャトルにつくくらゐ寒かった)収縮し弾性を 失ったため燃料が洩れて引火したためである.一般には,R.ファインマンの記者 会見,すなはち,Oリングのゴムが氷水につけると弾性を失ふ実演をしたことで 知られてゐる.しかし,話はそんな簡単でないらしい.
D. ボーンの「チャレンジャー打ち上げの決断」によると,この単純な技術的ミ スが根本的な原因ではない.なぜなら,Oリングを低温で使用してはいけないと いうことは納品業者が注意していたことで,現場技術者も周知し,当日の打ち上 げには反対していたにも拘らず,打ち上げが強行されたためである.
J. R. チャイルズの研究(「最悪の事故が起きるまで人は何をしていたのか」)に よれば背景となる原因はこうである.計画の度重なる遅延が発射をこれ以上遅延 させるなという圧力となっていた.第一に,次回の打ち上げでユリシーズといふ 木星探査機を打ちあげるが,木星の軌道と位置の関係で,打ち上げ可能な日程が 決まっていた.第二は予算である.スペースシャトルは低予算で確実に運営可能 な宇宙開発を旗印に計画をスタートされた.しかし,技術的つまり安全上の問題 で打ち上げ延期が続いており,成果の少なさにより予算が削減されつつあり,同 時に,打ち上げを実施するように圧力が加へられていた.今回に限らず,遅れは 予算の打ち切りに繋がる.またNASAは技術開発者集団から官僚集団に体質がかわっ てしまい,「定時運行」的な役人体質になっていた.更に,一番重大な原因は, 「民間人の宇宙飛行を実現さしめた偉大なアメリカ」を誇示したい政治サイドの 圧力である(ただし政治サイドからの明示的な圧力はなかった.R.ファインマン はこれを明示的な圧力が必要ないほど圧力がいきとどいている結果だと見倣して いる.).小数の現場を知っている人間より多数の無知な経営サイドの意見のほ うが押し通ってしまう.小数の人間は同調を強いられる.これが同調圧力である. 問題が大きく顕在化していても,都合のいいように解釈し,あげくは黙認し,他 者にも黙認を強要する.同調圧力は「技術者の帽子を脱いで経営者の帽子を被れ」 (ハムレットのもじり?)という言葉に端的にあらわれている.そして,「経営的 判断」より打ち上げは強行された,とされる.
一方で,D.ヴァウガンの研究10によれば,納品業者の打ち上げ延期の提言は当時の知見に照す限り客観的 な説得力はなかったといふ.これは,納品業者の提示したデータはどっちにも (危険とも安全とも)解釈が可能で,実績からいへばその気象条件でも成功してい たし,まさにその打ち上げの時までの基準でいへば問題になる気温ではなかった, といふことである.現場技術者からすると突然,納品業者から基準をひっくりか へされた感があり,それは確かにそうなのか,と確認したら,納品業者が「やっ ぱり問題がないです」といふ旨の回答をしたとなってゐる.
かなり各論者によって見解が相異してをり,なかなか納得のいく理解ができない まま脱線してしまったが,ここは同調圧力とはなにかといふ例示(例が事実かど うかはともかく)として執筆した.なお,その後の調査で,シャトルの居住区は 海面に激突するまで無事であったことがわかった.つまり,乗組員は海面に激突 するまで意識があったと考えられている.
恐怖による人心の支配である(Noam Chomsky, Alex Jones, Barry Glassnerによ る研究がある.ただし,人により意味内容が異なっている.筆者はTom DeMarco の著書``Slack''で知った).無理な納期や仕様に部下は嫌といえず,いつまでたっ てもできずに最後になって崩壊する.上の人間はどうして最初から言ってくれな いの,と崩壊してから言うが,下の人間は無理を無理と言えない.
研究プロジェクトにおいても,プロジェクトリーダーが結論を頭から決めてかかっ てそれに反対する議論は許さない,という場合,恐怖の文化に染まっている可能 性がある.
Tom DeMarcoによれば恐怖の文化に染まった組織は下記の特徴をもつ.
DeMarcoは,このような状態は,組織が行き詰まり,どうすればいいのかわから なくなっていることに起因すると分析しており,リーダーは事態に対してどうす ることもできないで怒るしか能がないのだろうと判断している.彼は,
恐怖の文化に直面したら速やかに立ち去りなさい.そういうことに時間をつぶすほど 人生は長くない
とアドバイスしている.
(下記建設中) 恐怖の文化の担い手は下記のような特徴をもつ.
これらの特徴は多かれ少なかれ強いリーダシップでは広く認められるものである. ただし,特徴の記載のうち前半は認められても,後半も認められる際は,恐怖の 文化の担い手になっている可能性が高い.
恫喝的議論と関連する.
Cummunal reinforfementとは,ある集団のなかで,ある特定の主張が頻繁かつ強 く提示されることによって,その集団の中でその主張があたかも自明の命題とし て認識され,信念へと変化する作用である.その集団の中では,その命題は当然 のように認められているので,その命題が本当に正しいものかどうか問われない し,その命題の蓋然性を疑う申立ては却下あるいは無視される.
同調圧力と強く関連するが,同調圧力のように強制力がなくても共同強化作用は 起りうる.たとえば,テレビで「霊視」や「宇宙人」といったものが頻繁に取り 扱われると,視聴者集団の意識として,あたかも「霊視」や「宇宙人」の存在が 自明のように感じられてしまい,その存在を疑うものがいなくなる.テレビは 同調圧力のように思考の強制はしていない.
この錯誤は,自分が普通と思う錯誤である.自分の行動や判断がもっとも典型的 なものと考えて,同じ状況であれば他の人も自分と同じことをするだろうと考え る傾向がある.
理論や方法がうまくいく(成功体験)と,次回も同じやり方でやろうという傾向が 強められる(成功事例の再利用).その結果,理論や方法が,うまくいけばいくほ ど,人はその理論や方法を絶対視し成功体験に固執するようになる.この成功体 験への固執はしばしば変化への抵抗となる.もし,理論や方法の限界につきあたっ ても変更しにくくなっているため,最悪の場合は理論や方法を捨てることができ ずに理論や方法と一緒に`瓦解'してしまう.
「記載(実験結果)と解釈(考察)はきちんと分けて論じるべきだ」,というテーゼ がある.これはもちろんそのとおりだが,実際には観察は理論に依存している. つまり,科学者は,虚心坦懐に先入観を捨てて自然を観察しているのではなくて, なにを見るか,どう見るかをきちんと考えて観察している.そうしないと意味の ある観察はできない.たとえば,
露頭をなにも知らない(先入観のない)人が観察しても,ただの崖にしか見えない. 多少理論をわかった人なら,砂の層と泥の層があるのがわかる.もっと理論をわ かった人ならば,タフ(凝灰岩層)を認定できる.もっともっと理論をわかった人 ならば,そのタフが,別のところのタフと同じタフだということがわかる.最後 の例は,実は逆で,もっともっと理論をわかった人は,別のところのタフを同じ ものが出ていないかと假説を立てて露頭を見ている.
このように観察は理論的うらずけや假説がないと得られる知見は乏しくなる. この観察の理論依存性は地質学に限ったことではなく,もっとfundamentalな物 理学においても認めれれている.
例:温度計
温度計は水銀や軽油やアルコールが,温度の上昇にともなって膨張し,温度の現象に ともなって収縮することを原理としている.
しかし,温度は直感的には「熱さ」の知覚であって.液体の膨張ではない.
「温度が高くなると液体が膨張する」という理論があってはじめて温度計で温度 を計ることができる.この理論に納得のいっていない人は単に赤い液体の長さ を計っているだけだと主張するだろう.
また,より正確な温度計に熱電対温度計がある.
二種類の異った金属からなる導線の端を端を接合して輪(回路)にしたものである. 片方の端を高温にして,もう片方を低温にすると回路に電流が流れる(熱励起電 力)ので,電圧計で電位差を測定し,それを温度に換算する装置である.
これも直感的な「熱さ」をはかっているのではない. 熱と電気の理論をもとに考案されていて,理論がないと測定できないものである.
このような事例は観察と理論(解釈系)がきれいに分離できるという信念に対する 強い反論となる.ただし,観察は完全に客観的ではないが,客観性がまったくな いかというとそうでないことに注意されたい.たとえば,「前提とされる理論さ え変えれば観察結果は恣意的に得られる」と一足飛びに結論づけることは間違い である.ある程度は理論によって観察結果を作りあげることができるが,まった くの主観によっては観察結果を得ることはできない.また,まったく恣意的な観 察結果を導くような理論は役にたつ理論ではないだろう.
重要なことは,自分が観察した結果を絶対のものと思わずに,自分の観察結果も なにかしらの前提に依って得られた結果だと頭の片隅に置いておくことである. 観察結果がどうにも解釈できない,おかしいということであれば,自分が依って いる前提となる理論を疑ってみることが問題の解決につながるだろう.
補足:観察の理論負荷性とも言う.この訳語のほうが一般的だがdependは依存と するほうが,わかりやすいし統一がとれるのでこちらを採用した.
実験によって白黒をつける,といふのは理想的だが,実際はうまく行かないこと も多い.実験屋の悪循環(実験者の悪循環とも)とは,次のような循環から成り立 つ.
「正しい」結果は問題となってゐる実験やテストが適格に行はれたときにのみ得 られれるが,実験が適格かどうかはその結果によってのみ判断される.(H. Collins, Changing Order: Replication and Induction in Scientific Practiceによる)
たとえば,ここで物質から「何か」が発っせられてゐる,といふ假説を検証する ために,物質から発っせられる「何か」を検出する,といふ検出器をつくったと する.さういふ假説ができるくらゐだから,根拠は当然あって,その「何か」が もってゐるであろう物理的性質は想像されてゐるとする.さうではないと「検出 器」と呼べさうなものを作ることすらできないから(ただし,その「検出器」が, その「何か」があったとして,それを確実に拾ってくれるかはまだわからない).
それで,検出器がその「何か」を検出すれば,物質から「何か」が発せられてゐ るといふ假説が認められた,逆に,検出器が何も検出しなければ,さういふ假説 は棄却された,といへさう.しかし,そんなに簡単ではない.検出器がちゃんと 動いてゐる保證がないためである.
体重計のやうに何をどう測ってゐるのかよくわかってゐる,枯れたテクノロジー ならともかく,実験で検証しなければいけないやうな假説に関するものは,検出 器の動作も不確かである場合がある.さういふ場合は,だから,検出器が何かを 拾っても拾わなくっても,その假説が正しいのか間違ってゐるのかはわからない, といふことになりかねない.検出器や実験に自信と信頼(あるいは確からしさに ついての共通見解)があれば,假説を検証することができるが,検出器や実験方 法の確からしさに信頼がなければ,それは假説のテストといふよりはむしろ,検 出器のテストになってしまうわけである.
結局,実験方法や検出器が正しいのかどうわからないので,それが正しいかどう かを判別する,別の実験や検出器が必要になる.しかし,最初の実験だってそれ でよかったのかどうか確かにはわからないのだ.追加の実験が妥当かどうかも確 かにわからない.だからといって,それを解決するために追加の追加の実験を行 うことなれば,無限の循環に陥ることになる.これが悪循環を云はれる所以であ る.
コリンズは,このような悪循環に陥った科学的假説がどう判断されるかという問 題については,言説や実験以外の要素(論文の出版元,研究資金の出資者,その 人の人となり,出身,知り合い関係など)で判断されることが多いと述べてゐる. ここではそこには踏み込まず,なにかを実験で証明したつもりが,そうはならな いこともある,という例として紹介するに留める.実際は,悪循環に陥った科学 論争は,参加者が飽きてしまったのかなんとなく立ち消えになって結果的に結論 (?)がでることもある.また,圧倒的に多くの人が,論争の片方を「あれば無理 な屁理屈」と思って相手にしなくなることで,結果的に解決(?)することがある. ただし,それで棄却されたとされる言説自体が否定されたわけではない.もちろ ん否定されてゐないからといって正しいわけでもない.
論文の孫引きに多い. 引用をかさねていくうちに, ある部分は誇張され, ある部 分は省略される. こうして論旨が整理され, よりありそうな話に変化する. そし て, もともとの結果や結論とは違ったものに変質する.原典をあたっていくと, そんなことは書いてない,といふオチ.
例: 第二次大戦中ロンドン市街を襲った大陸弾道弾 V-1, V-2 の落下地点に傾向 はあるように見える(下図.原典と同じ意味になるように独自に作成.ギロビッ チによる).きっとナチのスパイがロンドンに隠れていて,目標を連絡している に違いない.
結論: 大陸弾道弾はランダムに落下している. 当時のドイツ軍には, 市街付近に落 すだけの精度を実現する技術がやっとで, 市内のどこに落すかまで制御できる技 術はなかった.
しかし, 見た目には, かたまって落下しているように見える. グリッドを南北方 向に設定して, 二乗検定をすると傾向が認められ, ある地域にかたまって落下 しているように解釈できる. しかし,グリッドを斜交して設定した場合, 傾向は 認められない. グリッドを南北に設定する, という観測方法自体が恣意的で, 傾 向を出すように設定されたものである.
実は,この図は乱数表から作成したものである.1から100までの値をもつ乱数表 から200個抜きだして,奇数番目をx軸,偶数番目をy軸としてプロットした図か ら,ある部分だけを切りとったものである.全体図でみるとランダムに点が散ら ばっているように見えるが,任意の場所だけ切りとって見せることによって「な いもの」を推論することができる.
あとづけ(post hoc)でなら, ある傾向がでるように観測方法自体を調整して, そ る傾向を出すことは十分可能である. そして,人は常に「傾向があるはずだ」と 期待してデータを眺めている.
特に,注意したいのは「任意の場所だけ切りとって見せる」という行為はデータ の整理や編集といった過程で常に行われていることである.データの整理や編集 をするな,というとまったくわけがわからないデータの山を見なければいけない. だから,整理とするなということではなく,どういう整理をしたか,客観的にわ かるようになっていれば,少なくともその整理法が正しいかどうかのsoundness は検証できる.
この種の錯誤は,データのハンドルに対して,しばしば起り得るものである.デー タを捏造する人は,正しい推論ができない病に罹患していると云ってもよく,こ こで云う議論の土俵にも乗っていないが,そうではなくて,データを整形する際 に自説に都合のよい結果を導くやうな観測方法・信号処理法に変えたりすること は,正しい推論を志す人でもすることである.どこからそれが錯誤になるのか. たとへば地質学では偏光顕微鏡を用いて鉱物を分析する.確かに生物顕微鏡とは 違うが,だからといってそれを自説に都合のよい観測方法の錯誤と指摘する人は いない.生物学においても蛍光顕微鏡という従来の顕微鏡と違う顕微鏡を使って いるが,これらは明確に錯誤ではない.では,得られた画像に信号処理を施して, 自分が見せたいものをくっきり見せるようにするのはどうだろうか?そして複数 ある画像に対してそれぞれ別々に都合のよい画像処理を施するはどうだろうか? ノイズレベルを低く見せたり,高く見せたりするのはどうだろうか?ここではそ れらに対する一般的な答へは見出せない.おそらく,個別になにをどういう考へ でどうしたかについて追跡できれば,錯誤がどうか検討できるだろうし,錯誤に 陥らないためにも追跡可能性を確保しておくべきである.
補足:大戦中に上記の問題を検討したClarkeは市街全体を0.5 km メッシュに区 切ったグリッドを設定した.ランダムに落下していたらグリッドの着弾数は二項 分布にしたがうはずと予想し,その場合の各グリッドの期待される着弾数のヒス トグラムを作成したところ,実際のヒストグラムとあっていた.
例: 口のうるさく, くどい人がいた. 彼も気がついていたが,定年になって孫に 指摘されるまで, そのことが自分の性格の重大な欠陥だとは思わなかった. 彼は何度か気になって, 周囲の人に自分は口が悪くないか, くどくないか尋 ねてみた. しかし, 周囲の人は礼儀正しさからか, 彼を恐れてか, 「いえいえ, そんなことはありませんよ」と答えていた. そのために彼は自分は口に問題があ るものの, それほど問題ではないと認識していた. 一方, 周囲は本人にはそう言 うものの, 内心では重大な問題だと思っていた. 孫が彼に指摘し得たのは, 彼は 孫に対しては心を開いていたし, 孫は子供(低年齢)であるから遠慮することなく 彼の性格を指摘できたためである(ギロビッチによる)
この錯誤は次の例が典型的である.
例:二度あることは三度ある. (なぜなら,三度目になるまで待ってるから.)
何かが二度起きた後, 3回目もあると考えがちである. 3回目があるのではないか と思って3回目の事例を探し, 3回目を待つ.3回目を探す範囲や,待つのをやめ る時間には制約がないため, 3回目が起きるまでの時間や範囲を恣意的に設定し がちである. 3回目が生じるまで, ある程度自由に待つこともできる. 予想が実 現するまで待てるので, この予想は実現してしまう.
例: 予想どおりの結果を出した実験は, そこで終わるが, 予想どおりいかなかっ た実験はやりなおしをする.
予想通りの結果がでない原因として考えられるのは (1)予想が間違っている, (2)実験が間違っている,のどちらか(あるいは両方)である.一方,予想通りの 結果がでる原因として (A)予想も実験も正しい, (B)予想や実験方法とは関係な く単に偶然の二通りの可能性がある.実験がうまくいかなかったときは,予想を 信じているので,(1)が棄却されて(2)が原因と推測するため,実験をやりなおす. 実験がうまくいったときは,予想を信じているので(A)が採用され,(B)は信じた くない推論なので棄却される.
補足:これが全くおかしいということではない.中学校の実験で,予想どおりの 結果が出なかったら,それは理論が間違っていたということではなく,実験のや りかたが間違っていたと考えるほうが正しいだろう.理論の蓋然性と,中学生の 実験手順の妥当性とを比較した場合,理論の蓋然性のほうが信頼できる.
補足2:最先端の研究では,理論の蓋然性と実験手順の妥当性がどっちもどっち (どっちも不確か)であることが多い.実験者は理論(假説)の正しさを信じている ので,消去法で実験手順の妥当性を疑うことになる.
補足3:このように,ある推論の正しさというのは,蓋然性を考慮して判断され るべきである(蓋然性の章で述べる).
例: この試験の合格者は後に成功している. ために, この試験は成功者を判別す るよい試金石である.
入学試験をして,合格した人については, その後の成功については追跡調査 ができるが, 合格しなかった人の成功は追跡調査されない. ために, 合格した人 のほうが合格しなかった人よりも成功しやすい,とは言えない. サンプルのうち のある部分(試験の成績が低い部分)が抜けおちているので, 偏ったサンプル集団 になっている.
大部分の応募者の水準が高く, 試験の結果とは無関係に全員が成功する能力があ る場合には, どのような試験を用いても結果は同じようなものになる. しかし, 観測者(採用担当者)は, 結果がすべて成功に結びつくため, 自分の観測方法(選 抜方法)が正しいと誤認しがちである.
ある行動をとった時に, 別の行動をとった時の結果は知りようがない. だか ら, その行動がよかったのかどうか, 別の行動をとっていたほうがよかったのか どうか判断のしようがない.
もともとよい結果が起きる可能性が高かった場合, 相当疑わしい政策でも, 結果はほどほどによい成果が得られることが多い. そのため政策は賢明であっ たと過剰に評価される傾向がある. 逆に, もともと逆境で, よい成果が得られに くい状況では, 最善の選択がなされたとしても, あまりよい成果が得られないた めに,愚策だったという判断をされがちである.
例: 嫌いな人には近付かない. もし, その人にもよいところがあったり, 嫌だと 思っているところは誤解だったとしても, 近づかないので訂正をされる機会が与 えられない. したがって, 嫌いな人という印象は訂正されることが少くなってし まう.
例: あるテーマは研究対象として成果がでないと考えられている. したがって, 誰も研究する人がいない. よって, そのテーマでは研究成果がない(研究する人 がいないので当然). 研究成果が出ていないから, そのテーマは研究対象として 劣っていると判断される.
例: 予想屋の詐欺.
株価の変動を予想できるという人が,あなたのところあらわれる.彼は 明日,株価があがるか下るかあててみせるという.
彼は明日あがるという.はたして,明日になってあがった. そして,また明日(初日からすると明後日)の予言をする. それもあたった.そして,また明日.またあたる. そして,その人からこういう申し出があった.
「私の予言能力については,見てのとおり三回とも的中している. 私に百万預けてみないか.」
この詐欺のトリックは 予言をさずけられたのは自分ひとりではないというところ. あがるかさがるかは,どっちかに一つだから,3回予言をするのであれば, 8人にそれぞれ異なった予言をしておけば,一人は3回ともあたる.
よくできた結果だけ見て結論づけるのは,入手できないデータの軽視による錯誤 にあたる. 起きなかったことについてはデータがとれないので,起きたことだ けで結論づける(しかない),という論理はしばしば,入手できないデータの軽視 による錯誤を導く.起きなかったのか,起きていてるのだがデータがとれないの かは判断できない場合が多い.ある結論をサポートする証拠について,これ以外 は起きなかったのではなくて,起きているかもしれないけれどデータがとれない だけかもしれないと考えると,この錯誤の有無がわかる.
たとえば,「人間や生命の存在が偶然できたとは思えないほど,うまくできてい る.物理定数の値がすこし違うだけでも(炭素を主体とした)生命は存在できない. 時計の部品を撹拌しても時計にはならないように,生命の複雑さも偶然とは思え ない.だから,偶然以外の要素,何らかの存在による調整があったに違いない」 という論理はどうだろうか.我々の宇宙の他にも宇宙があるのかないのか知らな い.我々は不十分なデータしかもっていないのである.
補足: 前述詐欺のトリックは,「自分だけか?自分以外にいないのか」と考え れば,すぐにわかるはずなのに,どうしてそうは思わない(思えない)傾向がある のか? それについて心理学的な説明と認知メカニズム的な説明がある.心理学 的な説明では「自分は特別である,特別でありたい」という思い込みに起因する. 認知メカニズム的説明では「人は見えないものはわからない,見えていないこと すらわからない」ことに起因する.
データの得らないところは自説に都合よく想像すること.たとえば,自説で説明 できない現象の原因を全てデータが取れない部分に帰すること.Ad hocおよび入 手できないデータの軽視と関係している.
残念ながら重要な証拠を含む地層は全て削剥されてしまってわかりません.
例: 江戸時代には,歌舞伎「寺小屋」のように主君のため泣く泣く我が子を手に かける説話が多くある. このことは, 子殺しが頻繁に行なわれていたことの証明 であり, 江戸時代の封建性の狂気を示す例だ.
日常的なものを題材にしても説話はおもしろくないので, どうしても非日常でめ ずらしい異常な事件から取材されることが多い. であるから, 子殺しが説話にな るということは, 子殺しが日常的に行われていたことの証明というよりも, それ が滅多に起きない異常な事件だったことを逆に示す証拠だ.(例と解説は福田恒存 による.)
人間界では故意に情報をリークして誰かをある解釈に誘導する,ということが行 なわれる.この場合,得られたデータに対して,どうしてこのデータが得られた のか深く吟味することなしにデータから解釈することは,誰かに誘導されてしま うリスクが伴う.
自然界は人間界のような陰謀はないが,単純ではないことは同じである.完全な データは得られない.常に限定されたデータが得られるのみである.であるから, そのデータが得られた理由,それ以外のデータが得られなかった理由もある筈で ある.それを考慮することなし,得られたデータだけで結論を導くことは危険で ある.
地質学の例では,露頭がある,化石がある,ある地層が分布している,というこ とをもとにして調査し分析し解釈する.しかし,そこにそれがある,ということ は,それだけで特異な条件があった可能性がある.たとえば化石では,普通は生 物の遺骸が分解されて生態系へと還元されてしまうのに,そこに化石があるとい うことは普通の状態ではなかった可能性がある.活断層の露頭は見付からないこ とが多い.見付からないからといって活断層がないわけではなく,活動している 断層は地形に変動を与えるため崩れてしまうし水の動きがあったりして植物が茂っ て隠されてしまう.どうして,ここにそれがあるのかの理解を抜きに,あるもの だけみて結論を出すことは錯誤である.
例えば,丁半博打において(甲)01010101と(乙)00000000と(丙)1101001とどれが起きや すいかという質問に対して甲や乙よりも丙のほうが起きやすいと思いがちである. もちろん確率的には同じ.ランダムに見えるはうが代表的だと勘違ひしやすい.
例:「Rから始まる単語と,3文字目がrの単語と,どちらが多い?」という質問 に対して,多くの人がRから始まる単語と答える.(英語圏の話である;ダニエル・ カーネマン&トバスキーによる)
実際は,3文字目がrの単語のほうが多いらしい.しかし,多くの人が間違えたの は,rで始まる単語は思いつきやすいが,3文字目がrの単語は思いつきにくいか らである.このように人は思いつきやすい例だけで判断し,結論を誤ることがあ る.これを利用可能性の錯誤という.代表的な例が,ほんとうに代表しているか とは限らない.もちろん,ヒューリスティックが常に間違った結論を導くわけで はない.
補足: よく考えてみると,rから始まる単語に,ラテン語かギリシャ語か,ゲル マン語か,その語幹と同じ言語の2文字の接頭辞を付加した単語も,3文字目がr の単語になる可能性がある(付加しただけで意味をなさない単語もあるだろうが). 付加される接頭辞は一種類とは限らず,en- co- in-など何種類もあるだろうか ら,rから始まる単語は3文字目がrの単語の部分集合とまでは言えなくても,数 は少なくなるだろう,という推論は可能である.
ジェームス・ミルはジョン・スチュワート・ミルの父であるが,彼は,彼の第一 原理に基いて,イギリスにおける立憲君主制は最高の政治形態であることを立証 できたと確信した.
人は自分が知っているもののなかから,最適なものを選らぶ傾向をもっている. カウフマン(Stuart Kauffman)の命名による.
これは事物の起りやすさや母数を無視した錯誤である.
例:飛行機と自動車とどちらが危険か?という質問に対して, 飛行機のほうが危険に思える.
自動車の事故のほうが頻繁に起きており,年間で日本国内の死亡者は1万人に達 する.飛行機のほうは国内での死者はほとんど0に近い.しかし,飛行機事故は いったん発生したら乗員のほぼ全員が死亡するような大惨事になるため,記憶に 残りやすい.そのため,危険性の評価を誤ってしまう.
例:血液型問題
ある人の性格として血液型占いでいうところのAB型に近いものが提示される.そ の時にこの人の血液型は何型かという質問をすると,AB型だという回答が多い.
しかし,日本の場合,人口の大半がA型かO型なので,base-rate(どの血液型の人 がどれくらい分布しているか)から言えば,AかOである可能性が高いのだが,多 くの人はbase-rateを考慮して結論を出さない.
例: Tom W問題(カーネマン&トバスキーによる)
Tom Wは,知能が高く,物事を単純化して分析するのが得意だ.きちんとした性 格で,物事の細部にこだわり,システマティックなものに対する憧れがある.彼 の文章は明晰だが,機械的で味がない.感情表現に乏しく,競争心が強いがモラ ルはある.
このような人物像が与えられた時に,Tom Wの職業として次のどれがふさわしいか.
(1)理系研究職.(2) 法律関係.(3)それ以外の一般的なサラリーマン.
Tom W問題では,多くの人が(1)や(2)を選択する.Base-rateから言えばサラリー マンである確率がもっとも高いのだが,多くの人がbase-rateをまったく考慮し ない.代表性やボルボ(具体性)の誤謬と関係している.蓋然性の章でもう一度触 れる.
例:診断の戒め
患者の症状がある稀な病気の典型的症状に酷似しているからといって, その病気と即断してはいけない.典型的な症状ではないが,よくある病気の変種 とは考えられないか,よく考えるべきである.
例:英語能力についての議論.英語圏での高校生程度の読み書き会話能力ができ る日本人は3000万人ゐるが,フランス語の場合は同じ基準(言葉が違うのにどう やて同じ基準だとわかるのか,はここでは問はないことにする)を満す日本人は 10万人しかゐない.オランダ語(蘭語)にいたっては500人だけだ.したがって, これらのデータから英語がもっとも修得しやすい言語であると云へる.
これはもちろんBase-rate neglect fallacy(背景情報の無視)である.学習者の そもそもの数が,英語,仏語,蘭語で違いすぎる.英語は中学校でほぼ義務教育 で学習する(させられる)上に,外国とつきあいのあるサラリーマンにとっても必 要なため学習者が多い.それに比べて仏語は教育課程では大学生の第二外国語と して選択されるが,他にもドイツ語や中国語も選択肢になってゐることが多い. 他は一般市民がフランス文化に興味をもったりして自発的にフランス語を学習す るといった具合である.蘭語にいたっては,一般市民の自発的な学習しかない. このためフランス語や蘭語の学習者は英語に比べると相当少なく,蘭語にいたっ ては僅少である.このような学習者の絶対数を無視して, 修得しやすさを議論することはできない.
では,達成率というものを, 高校生程度の言語能力/学習者 として定義して(こ の定義の曖昧さや妥当性はこの際,不問にする),これで計ってはどうか?
調 べてみると,英語は達成率が10%以下なのに,仏語は60%,蘭語ではなんと90% である.したがって,学習しやすさは,蘭語,仏語,英語の順になるだらう
この推論は意欲とか動機が一様ではないことを無視しているところが問題である. 英語は中学校の時にイヤイヤさせれる人もいるだらうし,受験で仕方なく,とい ふ人も多いだらう.仏語は大学の選択必修科目と履修した人には仕方ない人もゐ るだろうが,自発的学習者の割合は英語より高い可能性がある.蘭語にいたって は,自ら望んで学習したいと思はない限り,ほとんどの場合,学習することのな い言語であって,それをわざわざ学習しようという人はよほど好きか必要な人に 違いないし,さういう人は相当やる気が高いだらう.やる気が高い人の成績がよ いのはある意味あたりまえで,だからといって蘭語が学習しやすいということに はならない.
例:英語は中学・高校・大学(教養の1,2回生)と3+3+2=8年も学習してきてゐるのに 全然使いものになってゐない.同じことをピアノでしたら,8年もしたら,それ なりに弾けるやうになってゐるのに.英語は学習が難しい.
これも背景情報を無視した議論で,ピアノと英語はたとへ学習時間が同じでも同 列には比較できない.修得するまでの難易度が違う.極論しやう.8年間,自転 車を乗る練習をして,更に自転車に乗れないものはよほど適性がないが,10年間, 料理の修行して一人前というのはよく聞く話である.更に,蘭語仏語との比較で も触れたやうに意欲の違いも大きい.英語はほぼ強制的に学習させられるが,ピ アノは多くの場合,自発的なものだ.親に勧められても途中で嫌になって辞めて しまう人もいるが,そういう人は8年も学習しないから,8年ピアノを練習した人 としてはカウントされない.8年も続けた人はおそらくピアノを愛してゐる人だ らう.英語は嫌になったとしても英語を辞める時は学校を辞める時になる.たい ていの人はだからなんとか我慢して単位をもらえるくらいは勉強する.モチベー ションと学習対象の特性の違いが大きい.
例:日本語は子供のころに自然に身についた.英語も同様に,英語づけになれば 文法など勉強しなくても身につくのではないか?
子供が日本語(母語)を身につけるのは,第一に親のマネをする本能(あくなきマ ネ),次に親に自分の思ひを伝へなければならないといふ切迫感がある.今,大 人のあなたには英語がなかったら死んでしまうというような切迫感はないし(明 治時代の人には,英語をやって身を立てないと国家がヤバいといふ切迫感があっ ただらう),あくなき人マネを反復し,他の人から愚か者に見えてしまふことに は躊躇するだらう.ではその必要になれば身につくかというと,大人のあなたが, 英語しか通じないところにひとりほっぽり出されたらノイノーゼにだってなりか ねない.身につくかもしれないが,swim or sink.
例:TOEICの国別平均成績は東アジア圏で日本は最低だ.したがって,日本は英 語教育で立ち遅れてゐる.
これも背景情報の無視である.受験者の情報とりわけ,受験者の数や構成,受験 者の英語以外の能力がわからないとなんとも云へない.受験者数だけでもヒント になる.たとえば平均成績1位の国の受験者数が100人だったらどうだろう(実際 に1位は100人以下, 2000).受験者は国のエリートか英語に関係する職業人だろ うし,そういう人が成績がよいのは当たり前だ.そもそも日本のように十万人の 単位で受験する国と1000人を割ってゐる国とを比較にならないのは云ふまでもな いが,国の一部のエリートしか受験しない国の平均成績が高いのはあたりまえで あるし,逆もまた然り.誰でも彼でも受験するような国では平均は低くなる.
命題において,あること(甲)とあること(乙)とが「同じ」とか「違ふ」かといふ のは,それだけでは,あまり意味がない,といふことである.さらに言へば,甲 と乙について(主題),どの要素が(主語),同じなのか違ふのかを明示しないと議 論にならない.
わたしたちは時折,次のやうなことを言ふ.
あなたと私は同じ人間だ.(だからわかりあへる)
しかし,かうも言ふ.
あなたと私は違ふ人間だ.(だからわかりあへない)
同じやうで,まったく反対のことを意味する命題(proposition)がふたつあり, そのどちらも,論理的にはともかく,語用論的(言葉のつかひ方)としては間違っ てゐない.つまり,どちらも内容のある(無内容ではない)文(proposition)である.
「あなた」と「わたし」といふのは確かに同じ要素を共有してゐる.おそらく, 同じHomo sapienceの一員だらうし,かうして会話がなりたってゐるとい ふことは同じ日本語話者であらうし,おそらく,調べれば他にも共通してゐると ころは多くあるだらう(同じ銕道愛好家だとか).それをもって「同じ」といふこ とも可能である.
で,一方,「あなた」と「わたし」といふのは確かに「別人」であるわけで,さ ういふ意味では「同じ人間」ではありえない.そもそも言葉として別の名称がつ いてゐる以上,「まったく同じ」ではあり得ない.それは,日本語(?)のオレン ジと英語のorangeが同一ではない,といふウォーフとサピア的翻訳の例をあげる までもない.日本語の中でさへ「可及的速やかに」と「できるだけ速く」は違ふ (これが同じだと思ふ場合,少し日本語の語用能力に問題があるかもしれない). 「辻野匠」と「つじのたくみ」とそのローマ字表記`TuZino Taqumi'11及び北京語発 音`Ku Y Jing(逵野匠)', 台湾語発音`Kui5 Ia2 Chiong7', 韓国漢字音`Gyu Ya Jang' はたしかに同一人物 を指示するが,それらがまったく同じといふことではない.
さういふことを云ってゐると,昨日のあなたと今日のあなただって違ふことにな る.そして,実際,確かに,昨日のあなたと今日のあなたが違ふことは事実なの である.一方で,昨日のあなたと今日のあなたが同じあなたであることも事実な のである(借金を借りた時のオレを今のオレが違ふからといってそれで借金を踏 み倒せるであらうか).
長々と紙面を費してきたが,結局,
まったく同じものは二つとない.し,
どの二つのものも,まったく違ってゐることはない. (Weinberg)
といふことである.「同じ」ところ・共通性に注目するか,それとも「違ふ」と ころ・相異点に注目するかで,物事の見方あるいは命題の記述内容が違ってくる. つまり「同じ」か「違ふ」かは観点による.それに注意せずに,ただ「同じだ」 「違ふ」といったところで,自分と観点を共有してゐない者同士では理解しあへ ない.
ある命題(proposition)あるいはargumentが,なにに注目して記述してゐるのか をはっきりさせないと,「同じだ」「いや違ふ」といったところで実りある議論 にはならない.
例をあげよう.
例:前方後円墳は地域によってかなり違ふ.地域色豊かなものだ.
いや,前方後円墳は,全国中でほぼ同一の形式が作られてゐる.前方後円墳はどこでも同じだ.
この例の場合,前方後円墳と認定できる形式の墳墓が全国的(正確には会津以南 薩摩以北か)に認められることそれ自体から「前方後円墳はどこでも同じ」とい ふ結論が見出せる.その点で,後者は間違ってゐない.一方で,詳しく見てみる と(この場合は副葬品を見てみると),それぞれの墳墓がそれぞれ違ふことも事実 であらう.
あまり実りない議論はけっかう散見される.もったいないことである.もっとも 観点はその人の価値観や世界観に関係するものだから,相手の観点とは折り合い がつけられないのかもしれない.上の例では,「違ふと思ひたい人」は「違ふと 思ひたい」まさにそれが理由で「同じと思ひたい人」のことが理解できない.逆 もまた然り.印象操作は別として,議論としてはそれぞれが同じと思ふところ, 違ふと思ふところを枚挙していって,それぞれの事実認識がどうかのか,どうい ふ推論が妥当かを考へていったはうがいいやうに考へられる.その上で,「同じ」 と「違ふ」のどっちか生産的か,個人的に決めればいいのではないか(「どっち が生産的か」といふのは個人の主観であって,かならずしも相手と共有しなくて いいだらうから).
少なくともかうは言へよう.同じとか違ふといふのは印象や主観・感情に近いと ころなので,人生にとっては大事なところであるが,argumentの上ではなるべく 排除したはうが,事実認識や推論に錯誤が生じにくいと思はれる.
例:カナダの花崗岩も飛騨の花崗岩も同じだ.
例:陸上の河川も海底の海底谷も同じだ.
これらの例では「同じだ」といっても「違ふ」といっても,読者の多くは内容がわか らないから,「ふ〜ん」で終ってしまいさうな気がする.
例:軽(自動車)だってクラウンだって同じさ.(車といふ点では,あるいは免許 の資格といふ点では)
いや,軽(自動車)とクラウンは全然違ふ.(大きさ・操作性・価格などが)
ちなみにこれを「調査(Survey)」に区分したのは,観点の問題は分析や解釈の時 点ではなく,既に調査時に,調査データに反映されてしまふためである.
この錯誤は,たとえば下記のような錯誤である.
例:すべての女性から愛される男パラドックス
すべての女性は,ある男を愛している.
したがって,ある男はすべての女性から愛されている.
前提命題から,すべての女性で,それぞれが愛する男が同じ人物だということは いえない.前提命題は,すべての女性には特定の愛する男がいる,ということを 述べているのであって,その`特定の人物'が同じかどうかは述べていない.
例:仮面男
証人は仮面男が盗んだと証言している.
ハイド氏が仮面男である.
したがって,証人は,ハイド氏が盗んだと証言している.
証人は,ハイド氏が盗んだとは言っていない.このように,statement中の等価 な事物を置き換えた場合,錯誤が生じることがある.
全体にある特徴があるなら, その分割物も同じ特徴をもつ, という錯誤. 演繹法・三段論法の虚偽に分類できる.
例: 「彼には知性がある. したがって, 彼の爪の垢にも知性がある.」 (彼に知性があっても爪の垢にまで知性があるかどうかはわからない. 知性が脳にやどるものであるなら, 爪の垢には知性はないだろう.)
例: 「この国のGDPは高い. ゆえに, この国の民は豊かだ.」 (国家全体としてGDPが高くても, 国民ひとりひとりは必ずしも豊かではないこともある)
部分にある特徴があるなら, その合成物も同じ特徴をもつ, という錯誤. 演繹法・三段論法の虚偽に分類できる.
例: 「彼の爪の垢に知性があるということが正しい(とする). 彼の爪の垢を煎じて飲めば, 彼の知性が身につく.」
例: 「彼の脳には知性がある. 彼の脳のエキスを煎じて飲めば, 彼の知性が身につく.」
例: 「酸性の食品を食べると, 血液が酸性になる.」 食べ物は消化器で分解されて吸収されるので,食べ物のpHが血液のpHに影響を与 えるとは限らない.
例: 「炭酸飲料に歯を浸すと歯が解ける. したがって, 炭酸飲料を飲むと, 歯が解 ける.」
例: 「豚を食べた人は豚のように太る. 魚を食べる人は魚のように泳ぐのがうまく なる.」
# 食べ物ネタばっかりになってしまいました...
経済学の分野において「合成の誤謬」(本稿でいふところの合成の錯誤)は有名で ある.結論をかいつまんで説明すると,「皆が信じたことの反対のことが起こる」 といふものである.ここでは原油を例に説明する.
例: 「今は石油の価格が低い.当分,油価もあがりそうにない」と思ってゐると, みんながさう思って,探鉱(油田を探すこと)や設備投資を怠る(というか控える) ので,しばらくすると石油が不足し,結果的に油価が高騰する.
逆もまた然り.
「今は油価が高い.だから,ぢゃんぢゃん探鉱しよう」とみんながさう思って探鉱や,生産設備の投資に邁進すると,結果的に供給過剰になって油価が暴落する.
これの背景はミクロな視点での最適とマクロな視点での最適とは異なることにある.
自然科学においてもしばしば合成の誤謬は指摘される.根本的には経済学におけ るそれと似てゐる.
例: ある系統の岩石において1 ppm ストロンチウムが増えると 1 パーセント, カルシウムが増加するといふ傾向がある.したがって,ストロンチウ ムを100 ppmを含む岩石があれば,それはカルシウム100パーセントである.
例: 1発エンジンが不調で停止したため,目的地には1時間遅れになる.2発ならば 2時間遅れである.したがって,4発停止すれば,4時間遅れになる.なお,本 機は4発のジョット旅客機である.
これらは範囲を越えた外挿の錯誤とも言へる. それ以外にも,相乗効果が複雑なこと,線形でないことによる錯誤もある.
例: 塩素系の漂白剤と,酸性の強力洗剤を混ぜて使用した.二つの作用の相乗効 果で,きっと劇的に漂白されるに違いない.
「まぜるな危険」の表示をきちんと読みませう.塩素が出るので,漂白作用は劇 的かもしれないが.
例: 解熱剤,そして副作用として熱を下げる作用のある消炎剤と総合感冒薬を飲 んた.3つの薬の相乗効果で,きっと劇的に解熱されるに違いない.
死んでしまえば熱はないのかもしれないが...
この錯誤は,Gilbert Ryleがその著 The Concept of Mindで導入したもので,端 的には,あるモノが位置する区分に対して,そのモノへの分析的言及が適切では ないことによる間違いである.例へば,
私は今年の春,大学に進学した.大学に進学することは親は反対したが親戚のお じさんのヤジキタさんは応援してくれた.そのヤジキタさんが大学を見たいとい ふので,大学を案内することにした.ヤジキタさんは東海道を下って来た.最初 に,正門に連れていき,時計台とその前の楠木を見せて,全学図書館の前を通っ て博物館にいった.あやしげな教養講堂,あやしげなサークル棟にいった.ヤジ キタさんはそのあやしさにびっくりしてゐたので,今度は真面目に自分の学部の 建物に連れていき,ちょっとうろうろして人様の研究室を除いたりした.最後に, 生協の本屋で立ち読みした後,生協の喫茶店でお茶をした.
ヤジキタさん「今日はおおきに.いろいろ案内してもろうた.図書館やら学生の たまり場やら,学者先生が研究しているところとか.けど,大学はどこにあるん かいな? 大学そのもんは見せてもろうてないがな.」
大学とは,今日「私」が見せたものの集合体である(他にもあるが).だから,サー クル棟を見せるように大学を見せることはできない.それはカテゴリーが違うか らである.これがカテゴリー的錯誤である.ヤジキタさんは,今日見たものひっ くるめて「大学」と呼ぶ(他にもあるが)といふことを理解しない限り,「大学」 を見ることはできない.
ただし,ヤジキタさんの最後の言及は正しい.「大学そのもの」は見ることがで きない.我々は,大学に属する一部を見て,大学を知るのかもしれない.なにを もって「知る」のかは,カテゴリーミステイクの考究から発展するテーマである が,論理的に正しくない推論を避けるために,正しくない推論(錯誤)を列挙する といふ本稿の範囲を越えるので扱はない.
例:ないものはない.
二重否定ではしばしば,なにを否定してゐるのか曖昧になりがちである.上の例 では,「ないものはない」と云ふが,これは二通りに読める.
解釈1:ないといったら,ない.「ないもの」は「ない」
解釈2:なんでもある.「ない」という現象があることは「ない」.
後半の「ない」が,「ない」といふ現象(コト)にかかっているのか(解釈2), 「ないもの」というモノにかかっているのか(解釈1),明確ではない.日本語で は「ないモノはない」と「ないコトもある」と言いわけているし,そうでなくて も,たいていは文脈で判断できるが,論理的な文章としては,解釈の文脈依存は できるだけ排除しなければいけない.特に,このように二重否定は命題が曖昧に なりがちなので,避けるべきである.ちなみに,この文例をもって日本語を非論 理的だと主張するのは錯誤であって,同じような例は,しばしば論理的と称され る英語にも仏語にも見られれる.次は英語の例である.
例:永遠の仕合せよりハンバーガーがいい.
Nothing is better than ethernal happiness.
A humburger is better than nothing.
Therefore, a humberger is better than eternal happiness.
構文の使い方があいまいなことによる虚偽である. 前提第二文は正確には,
Eating a humberger is better than eaing nothing.
同じような例をひとつ.
Nothing is too good for our customers. (From J. Weinberg)
これは店に掲げられるモットーらしいが,二通りに読める.
お客様にとってよすぎるものはありません(お客さまには最高の品が相応しい).
うちの客には何もやらなくたってよいくらいだ.(客には最低の品でも贅沢だ)
論理的な文章とそうでない文章の違いは言語の違いではない.論理的な文章の 著者は曖昧の錯誤に気をつけていて,曖昧の陥穽に陥いらないほうに注意してい ることが論理的な文章を形成する.
例:
彼はよい医者です.
したがって,彼は,人格も「よい」人です.
前提の「よい」は,「医者として優れている」という意味で,人格が「よい」 ということは指さない.が,往々にして,よいスポーツ選手は人格もよい,とか, よいリーダー/監督は人格もよい,というように誤解されがちであることからし て,あいまいな言葉の意味は往々にして,すりかわってしまうもののようだ.
例:クレーマー (modified from 谷原誠氏)
甲:商品に問題がある,社長を出せ.
乙:社長はいません.
甲:では,副社長を出せ.
乙:副社長も出られません.
甲:では,当該部署の部長を出せ.
乙:部長は,お客さまとの交渉をしていはいけない規則になっています.
甲:じゃぁ,誰が責任をとるんだ.
乙:責任は,社で取ります.
例:科学革命の研究者クーンは,パラダイムという言葉を120通りもの意味で使っ ている.たとえば,パラダイムというのは,その分野のほとんど全ての科学者が 納得する理論体系だ,という論点で話をすすめている,と思えば,その分野のあ る程度の科学者が納得している理論体系のこともパラダイムを呼んでいる.前者 の場合は,パラダイムは同時に最大1個しかないが,後者の場合は数個あっても いいことになる.
例:進化論に反対する,という主張は多義的である.生物が進化したという命題 自体を否定する主張から,生物が進化したことは認めるが,メカニズムは生存競 争や自然選択説ではなく別のメカニズムによるものだという主張まで,いくつか のバリエーションがある.そのどちらの假説を対象にしているのか明確にしない 限り,有効な反論はできない.
これは,用語や命題の意味が途中で変わることによる錯誤である.本人も気がつ かないで論理を述べたつもりになっていることもある.わざとやったら論理のす りかえになる.
例: 自然科学の理論は,社会的な合意を経てつくられたもの(社会的構成物)であ る.
どの理論(考え)にしろ,複数の人が受けいれるものであるから社会的な合意なし につくられることはない(A).(A)の意味では,例文は当然(だか当然すぎて新奇 性の乏しい)である.今度は,「自然科学の理論は社会がつくったものだ」とい う意味(B)で読むと,自然科学の理論は真理ではなく,科学者や社会の談合によっ てつくられるものだ,という意味に解釈できる.聞く側がこの例文を前者の意 味と解釈しても,話者は後者の意味で使っているかもしれない.
また,反論されて自説を保持することがむつかしくなった時に,あいまい・多義 的な命題の解釈を変更して,自説の保持を企ることができる.
例:
甲:「自然科学の理論は社会的な合意を経てつくられたものだ」という命題は正 しい
乙: (Bの意味と解釈して)そんなことはない.自然科学の理論は科学者社会が決 めるのではなくて,実験や観測を通して自然界の中の法則を定式化したものだ. 甲:いや,そうはいっていない.科学理論は社会の影響を受けているといってい るのだ.これは乙も反対しまい.
丙:甲は正しいことをいっているようだ.
甲:だから「自然科学の理論は社会的な合意を経てつくられたものだ」という命題は正 しい
丙:なんだかよくわからなくなってきたぞ.この命題の意味は,科学理論は自然界の現象を定式化した絶対的な真理ではなくて,社会 的に決められる相対的なものだという意味だったっけ...
例:「あなたが借りた金を返さない,という非道な行いをするならば,私も非道 な行い-たとえば足に錘をつけて東京湾に放棄-をするが,それでもいいか?」
前件では非道な行いというのが借金の踏み倒し行為を意味しているのに,後件で は足に錘をつけて東京湾に放棄というまったく別の,別種類(前件は民法の問題, 後件は刑法の問題)の行為にすりかわかっている.
これを避けるためには,あいまいな語義はそのままにしておかず,明確にする (specify)こと.
データが結論を出すには少ないのに結論を出すこと.
これは帰納法の虚偽である. ただし,帰納法には難しさがある.どれくらいの証 拠を積上げれば過度の一般化ではないのか,という線引問題である.これについ ては論理学というよりは科学哲学の問題なので,本稿では扱わない.興味がある 方は,たとえば伊勢田「科学と擬似科学」等を参照されたい.
ここでは,そのような慎重な吟味が必要な線引問題以前の例をとりあげる.
よくある例としては,日本語と英語を比較(言語学には対照といふ)しただけで, 世界の言語を概観したような結論を出すことや,文化の違いを示唆することがあ る.たとえば,日本語は「接続助詞の『が』を多用し,文をだらだら続け,いい たいことを云わない,または最後に云う」,これは日本文化の奥ゆかしさ,いい かえると自己主張の乏しさ,非論理性を意味している,という主張を聞くことも ある.しかし,その主張を健全な推論に耐えるものにするためには,同じような 文体をもつ言語文化では日本と同じような状況が実現しているかを吟味しなけれ ばいけない.ドイツ語は文がだらだら続き,しかも副文では動詞や否定詞が最後 に来る.「私は.....」とだらだら来て最後に「と思いません」ときてひっ くりかえされるが,それでも非論理的だ自己主張が乏しいという主張はあまりな い.このように少ない例だけで出された結論は反例や反論には耐えられないこと がしばしばである.それゆゑ,
少ない例から結論を出すのはくれぐれも慎まなければいけない.
どれくらいの例が必要かはむつかしい問題であるが,ここでは線引問題以前の argumentでの参考を示す.明らかに,「ひとつのことを主張するのにひとつの例 では例が不足している」ことは確かである.一概には云へないが,これまで類似 (どこまでが類似かも線引問題になるが)のargumentで示されている例以上の質量 があれば,argumentとして妥当といってもいいだろう.完全な証拠や例は得るこ とがむつかしいので,完全な証拠がないならargumentできないといってしまえば, argumentもなく学問の前進もない.これまでよりもよいargumentであれば, 健全な推論とみなしてよい.すくなくとも公表に値するargumentであることは間 違いない.
結論に反する証拠を無視すること.
例: 「ある人が半年のうちで, 12回事故を起こした. 彼は事故は偶然によるもので, 彼のミスではないと主張する(Barkerによる例).」
この場合, それぞれの事故について, その場かぎりの理由を挙げることをad hoc reasoningと言う(あとづけでreasoningすることをpost hoc reasoningと呼ぶ) . 下記の例はどうか.
彼は, まかされた仕事を5回中, 5回とも失敗させている.
彼は, まかされた部下を5回中, 5回ともスポイルしている.
彼は, 自分の子供5人中, 5人とも不仲である.
余談:P.F.ドラッカーによればマネージメント として上記のような失敗(子供を除く)を容認できる限度は3回だと述べている.
あるいは,
彼は三回離婚した.
三回とも,それなりに個別の理由があることだろう.相手に問題があることも否 定はできない.しかし,「彼に問題がなくて三回の離婚は諸処の理由である」と いう主張と,「彼は結婚には不向きだ」という主張とどちらがより説得力がある であろうか?
オッカムの剃刀によれば, 原因が多数・複雑な推論よりも, 原因が単純な推論の ほうが妥当だと見倣される. Argumentがslothful inductionでありad hoc reasoningをしているのか, それとも正当な例外や個別の理由なのかについては, ad hocの項を参照.
オッカムの剃刀; Occam's razor
Pluralitas non est ponenda sine neccesitate.
不必要な命題を提示すべきではない.
フランシスコ会の修道士ウィリアムの言.ある命題を導くために必要な命題に不 必要なものがあれば,それは提示すべきではない.説明は簡単なもののほうが優 れていると解釈されている.the principlue of unnecessary pluralityとして 知られる.
なお,オッカムは複数の綴り方がある(Ockham/Ocham/Occam/Occham).原因は2種 類ある.第一はオッカムは地名なので言語によって綴りが異なる(地名人名はヨー ロッパ諸語の間で発音綴りにversionがあるため(例:Athenai/Athens, William/Wilhelm).現地の表記はOckhamであり,ラテン語風の地名がOccamであ る.第二の原因はミススペリングである.Ocham/Occhamはミススペリングである.
論拠の前提を越えた結論を出すこと. 演繹法の虚偽. 演繹法では使い方をまちが えなければ,前提が正しいなら結論は必ず正しくなる.しかし,前提が正しいか, 前提が正しい範囲はどこまでか,をよく吟味しないと間違った結論を得ることに なる.しかも, 演繹法を使っているので論者は自分の結論が正しいと信じやす く, 間違いに気がつきにくい.
例:電子や光の振舞いがどうであるか予言することは,ニュートン力学の前提の 範囲外であるが,20世紀前期まで,ニュートン力学の前提の範囲がよくわからな かったため,ニュートン力学を電子や光にあてはめていた.
ニュートン力学は天体の運動から熱力学まで様々な物理現象を統一的に説明する ことができたので,どんな現象に対してもニュートン力学を適用できるかのよう な錯覚があった.科学理論自体は帰納法によって発見され構築されるが,ニュー トン力学のような強力な科学理論は逆に演繹的体系をもつようになる.つまり, その理論を帰納法で決められた前提の範囲を超えて適用し演繹的な推論がなされ る.強力な科学理論は前提の範囲を超えても,現象をうまく説明することができ るため,ますますその理論に対する信頼が深まり,どんなものにでもその理論が 適用できるかのような錯覚をもつようになる.しかし,観測技術や理論の発展に ともなって,理論自体の範囲を超える現象が出現すると,適用範囲は帰納法で得 られていることが忘れられているので,前述のような錯誤が発生する.
Giovanni(ヨハネ/John/Jean/Hans/のイタリア語名)はパーティーを開かねばなら なかったので,スーパーマーケットに出かけた(Unbert Ecoの例 12).
常識的にはこの命題は理解できるし,論理的におかしいところはどこにもないよ うに思われる.しかし,厳密に論理的には,パーティーを開くのなら,行かねば いけないところはパーティ会場であって,スーパーマーケットではない.
パーティーを開かなければいけないのに,どうしてスーパーマーケットに行かな ければいけないのかは厳密に論理的には不明確である.もちろん,言うまでもな く,(1) スーパーマーケットはパーティで使う食材を売っており,(2) Giovanni はパーティーの食材を買うためにスーパーマーケットに行かねばならないのであ る.この(1), (2)の2文が暗黙の前提となっていて,この2文を知っていない(あ るいは推測できない)と論理的に最初の命題は理解できない.しかし,頭のよい 人は命題の暗黙の前提を推測して,推論を進める.読者が上の命題を疑義なく理 解できたのはそのためである.
人間は多かれ少なかれ,暗黙の前提を推測することはできるし,コミュニケーショ ンでは暗黙の前提はしばしば省略される(冗長を避けるため).だから,命題の陳 述(argument)において暗黙の前提を假定して,話をすすめることはよくある.し かし,暗黙の前提はあくまで,こちらが勝手に推測したものにすぎず,相手も同 じ前提に立っているかどうかは定かではない.もし,暗黙の前提の如何によって は,結論が反転するような内容だったり,暗黙の前提に疑いが生じたなら,直ち に確認するのが`論理的'な態度である.云わぬが花,訊くのは野暮というのは美 学であっても,推論や判断・意思決定として安全な方法ではない.それに,悪意 ある相手が,自分が假定している暗黙の前提と違う前提をもとに陳述を展開し, 結論を言いくるめられてしまう詐欺--正確には詭弁--の危険がある.
甲:乙さん,これ(大きな名画 5m x 8m)を持って帰ってください.
乙:わかりました.(といって,おもむろに画を折り疊む)
甲:なにをするんです! 画が痛むぢゃありませんか!
乙:えっ? 駄目なんですか.でも折り曲げないと電車に乗れません.
暗黙の前提がなにかはっきり知っておくことは重要である.暗黙の前提は表には でないが,argumentの行方を決するものだからである.上の例は笑い話のようだ が,実際の社会でしばしば起きている事態である.暗黙の前提がなにかを明確化 するために,しばしば用いられる方法は,
最初に相手のargumentが真だと假定して,それが真であるためには,どういう命題が 必要か
考えてみるのである.もし,「真であるためには他の如何なる命題も必要ではな い」と読者がお思いなら,読者は残念ながら命題を半分も理解していない.その 場合は,対偶命題で考えるとよい.
相手のargumentが間違いだったとしたら,どういう理由があるか
もし読者が,理由を3つ以上思いつかなかったとしたら,またしても残念ながら 読者は命題を十分には理解していない.画の例では,画が折りまがったとしても, 甲は満足するだろうかと考えてみるのである.おそらく工事用のブルーシートだっ たら甲は満足するだろう.でも,今問題になっている物体で満足するかどうかは 訊いてみないとわからない.
この方法を用いると,たとえば,Giovanniは自分で食材を調達する任を負ってい る(使いに人に頼むことも可能性としてはあったが,そうではなかった),という こともわかる(正確には,``推論''できる).
例:魚を釣るために空港に行った.
普通,魚を釣るときに適した場所は港(海の)であって,空港ではない.しかし, 空港が正しいような暗黙の前提もありえる.魚というのがカナダの氷河湖に棲む トラウトで,エアカナダに乗ってカナダまで行くために空港に行ったのかもしれ ない.日常会話としては,かなり無理な前提に依拠しているが,次はどうだろう.
例:スキーをするために空港に行った.
例:スキューバダイビングをするために空港に行った.
魚とスキーにどれほどの違いがあるのだろう.魚とダイビングにどれほどの違い があるのだろう.その違いこそが,暗黙の前提をマスクするものである.
小数の法則とは「大数の法則」が任意の数で成り立つ,という間違った法則であ る.極端な例は,gamblar's fallacyと言われており,丁半博打で
「表が3回出たので, 次こそ裏に違いない.」と信じる錯誤のことである. 次が裏か表か, それは,いつだって1/2の確率である.
なにか傾向があるように見える錯誤. 実際, それらはランダムに起きているのだ が, そこになにか法則があるように見えてしまう.
1001111111000101110110000010100010101001100000100
これは, 乱数表からもってきた0/1の乱数である. なんとなく, 片方がある一定 期間連続しているように見える. 乱数では, 人間が思っているより同じ数が連続 することが多い.
補足: 人間は生きていくために, 少ない情報から無理にでも法則を見付けだして, 現実世界に適応する必要があった/あるために, 過度に法則を見付けようとする 傾向がある, との指摘がなされている.
例: ほめると失敗し, 叱ると改善する.
ほめる,というのは, その人の平均よりも出来がよかった時に多い. 平均より高 い値(ほめるに値する成果)が出た後は, 平均に戻るような値(ほめるほどでない 成果または失敗)が出ることが多い. そのため, ほめたことで次に失敗した, か のような錯誤が生じる. また, 叱る時というのは, 平均よりも悪かった時が多い から, 平均への回帰として, 次は平均に戻るような(改善したかのような)結果が 出ることが多い. 時間的前後関係と因果関係の錯誤と関係.
回帰
相関が不完全な変量間では, 一方の変量の端の値は, もう一方の変量ではより平 均に近い値に対応する傾向がある.
例: 漢字の減少.小説家の文章(小説)の漢字の頻度(1000字あたり.‰)を調査し た(データは安本美典氏「説得の文章技術」より).
1900-1905 393 1905-1910 372 1910-1915 320 1915-1920 332 1920-1925 358 1925-1930 318 1930-1935 307 1935-1940 216 1940-1945 357 1945-1950 307 1950-1955 275
振動しているが,大まかに見ると50年で62字減少してゐる.そのまま外挿すれば 2190年には日本語から漢字はなくなる!
実際に日本語から将来漢字がなくなるかもしれないが(個人的には極めて疑わし いと思ふが),この推論は誤りである.この推論からは,漢字は減少傾向にある ことまでしかわからない.なぜか.似たやうな例が次である.
例: 文の減少(短文化).英文の文の長さを調査してみると次のやうになる. (データは渡辺暢郎氏の調査による.出典は安本美典氏「説得の文章技術」.
18C 50 words 19C 31 words 20C 16 words
これに従えば,21C-22Cには 英語の文章は 0 wordになる!
この推論が誤りなのは明白である.0語の文は文とは云はない.それとも21世紀 には英語がなくなるとでもいふのであらうか.逆に,これを過去に遡及しても問 題が生じる.これは といふ式に乗るから,10世紀(英語最古 の文献の年代)には1文が346語もの長大な文となる.こんなことがあり得るか? Beowulfはさうなってゐるか?(古語は文の区切が明確でないから,古い時代ほど 文が長大になるといふのはあり得るが).
漢字の減少に話を戻すと,過去に遡及すると漢字率100%(1000‰)という時代(15 世紀)もあることになってしまふ(8世紀の萬葉集は確かに漢字率100%かもしれな いが).また,‰という上限下限を拘束された指標を外挿しているために, 120%(宇宙戦艦ヤマトの波動砲ではないが)はもとより,500%, -50%というあ りえない数値さへ導出されてしまふ.
問題の根本は外挿にあたって,外挿の前提となってゐる諸条件を考慮しないこと にある.漢字の減少についても20年くらいの先の予測までは有効かもしれないが, それを越えての推測は憶測ですらなく,ある種の願望にすぎない(算術的に どこ までの予測がどれくらい確かは推定できる).また,英文にいたっては拘束条件 を越えて外挿してしまっている.
また,条件を提示せず数字だけ公表すると,それが一人歩きしてしまうこともあ る.
例: 日本人に対して, (大阪と東京)と(スペインとポルトガル), どちらの2地域 のほうが(...)内で相互に類似しているか. という質問をする.この質問に対 して(大阪と東京)のほうが(スペインとポルトガル)の組合せよりも相互に似てい ると答えることが多い..逆に, (大阪と東京)と(スペインとポルトガル), どち らの2地域のほうが(...)内で,より違っているかという質問に対しては, (大 阪と東京)のほうが(スペインとポルトガル)よりも違っているという答えが多 い. (引用)
日本人ならば, 大阪と東京についての情報のほうが, スペインとポルトガルにつ いての情報より多くを知っている. 類似性を比べた場合, 情報の多いほうが容易 に類似点を挙げることができる. 相異点を比べた場合, 情報の多いほうが容易 に相異点を列挙することができる. そのため情報の多い方が, いづれの場合も回 答されることになる.
假説(仮説)に合致するデータをとりやすい, という錯誤と関連している.
これは類似による議論の錯誤である.
牛肉を食べて狂牛病になる危険は確かにゼロではない.ゼロではないがコンマ以 下だ.ところで,新幹線が事故を起こす確率もゼロではない.だからといって新 幹線に乗らない人はゐない.よって,牛肉のリスクは許容範囲である.
リスクの定義(意味)がこれだけではよくわからないが,上の論には落し穴がある. 類似の議論のキモは,類似性をもつ両者を比較して片方ではこうなってゐるのだ から,それに類似するもう片方もそれに準ずべきである,という論法にある.こ の論法で目立つ錯誤は,もう片方が類似してゐるやうに見えて実は類似してゐな い場合である.
この例で云へば,歩いてゐたって事故に遭ふ可能性があるのだから,事故率ゼロ の交通は存在しない.しかし,狂牛病になる確率がゼロの食べ物はいくらでもあ る.したがって,類似は成りたたない.たとえば完全に安全な新新幹線といふも のができて,費用と時間がトントンなら,現行の新幹線に乗る人はゐないだらう. この例は,組し易い新幹線のリスクを持ち出すことによって牛肉のリスクを低く 見せる錯誤とも考えられるので,案山子/わら人形の虚偽とも云へる.
なお,コンマ以下といふ言い方には注意が必要だ.単位がなにかわからない(省 略されてゐる)のが問題である.普通はパーセントだと思はれる.その場合はコ ンマ以下は0.9999..%以下といふ意味だが,パーミルだったら,0.09999...%以 下という意味で,一桁異なる.もし,確率だったら,100%の確率が1であり,世 の中に100%といふのは滅多にないから,たいていのことはコンマ以下になる. この場合,「コンマ以下」といふのはなんの特殊性もない.
選択肢を小数(実際は他にも選択肢があるのにもかかはらず)に絞って選択を迫る 錯誤. 白か黒か論法.排中律により, 「白または非白」といふ選択肢は虚偽では ない. ところが, 「非白≡黒」ではないので, 「白か黒か」と迫るのは間違 い. 「白か黒か」という選択肢が妥当になるのは,「非白≡黒」が証明された時.
対策: ほんたうに二者択一なのか考へる. 他にも選択肢がないか.
身近(?)な例でいへば,
仕事にするか,結婚するか,どっちかにして.
「仕事をする」あるいは「仕事をしない」といふ選択肢はあり得るし, 「結婚する」あるいは「結婚しない」といふ選択肢もあり得る. しかし,「仕事にするか, さもなくば,結婚するか」といふカテゴリーの異なる問ひが成立するのは, それらが排他的に成り立つ場合だけである(カテゴリーの誤謬=カテゴリー的錯誤も関係する)
すこし考へればわかるやうに,アプリオリに仕事をすれば結婚が成り立たないわ けではないし,結婚すれば仕事ができないと限ったわけではない.両立する場合 もあり得る.もちろん,排他的な場合=両立し得ない場合もあらう.が,人間の 智慧は問題を解決するために使ふべきで,どうやったら両立できるのか考へるは うが,どっちにするか悩むよりは建設的.
かかる問ひが出てしまふのは,閉塞感からかもしれない.
学問の領域では,假説の検証の際に,
假説Aが間違ひであれば,假説Bだ.
といった短絡的発想に陥いることがあるが,これがfalse dilemmaに該当する.
假説Aも假説Bも間違ひってことは,ありがち. 假説Aを検証した結果,それが成立しない,といふことがわかった場合に, いへるのは,假説Aが成り立たない,といふことまでで, 積極的に假説Bが成り立つことまでは云へない. ただ,論文の記述に,「假説Aが成り立たないので,B假説の可能性もあるかもし れない」 くらゐは書いてあることがある.これは積極的に假説Bが成り立つと言及してゐ るわけではないが, 読むはうは假説Bがサポートされたと曲解してしまふことがある.
余談: 赤か青か,ってのはどうだらう? 赤でも青でもない色は明確に存在するから, 赤か青か迫るってのはfalse dilemmaだが, 紫は,赤でもあり,青でもあると云へるし,赤でも青でもないとも云へる.
消去法は選択肢の内容を各方面(aspects)から十分分析しないうちに小数の aspects(項目)だけで決定されてしまう,という落し穴がある. この方法では, いくつかのaspectの重要性を順序づけて検討するので, 順序づけが恣意的になさ れた場合, 論理的に見えるが, 本当は論理的ではない. 問題は, 一件論理的に見 えるために順序づけを恣意的にして議論を誘導しても容易には気付かれないとこ ろにある.
たとえば,
例: 大学院進学か就職かを悩んでいる学生(甲)とその彼女(乙)との会話
甲:大学院にいこうか,それとも就職しようか...
乙:大学院にいったら当分結婚できないし,その先就職がないからダメ.
乙:就職先によっては転勤になるから,転勤のないところがいい.
乙:給料が低くてもいいから安定していて,危険でない仕事がいいな.
乙:結論として,私の地元の地方自治体の公務員だね.地元だったら県でも市で もいいよ.場合によってはとなりの市でもいいよ.大幅に譲歩してあげる.
==
このargumentについては本人の興味がまったく検討されていないことに注意され たし.甲がこの順番づけで納得しているのなら結構.
(個人的にはこのやうな志の低い人が公務に服することには反対であるが)
進路や就職先といった決定をする際には, 場所や, 設備, 福利, 自分 の興味, 適正, 雰囲気, 金銭的な問題などいろいろな検討項目(要素)を考慮する (だろう) . その場合の優先順位は, 基本的には本人にまかされており, 本人が それが重要だというのなら, 特に反論する理由はない. その決定方法が論理的か どうかはともかく.
しかし, 他人が相談という形で議論した場合, それらの検討項目を恣意的に順序 づけて選択肢を恣意的に消去することができる. 検討項目は一般にどれも大事な ものであるから, どれが優先されても, それなりに妥当に見えるため, その恣意 性に気がつかない. また, 優先されなかったものについては最後まで語られるこ とがないために, なにが暗黙のうちに落されたかはわからない. このように, 本当は重要な検討項目をあえて優先させないことによって十分妥当な選択肢を候補の中 から容易に排除し得る.
更に具合のわるいことに,消去法は答えがない問題でも何らかの答えが得られて しまう致命的な欠点がある.たとへば,殺人事件の容疑者がA, B, C, Dといたと する.A, B, C, Dがいづれも真犯人ではなく,まったく想定外のXが犯人だった ときでさへ,消去法で犯人を推定する場合,A, B, C, Dの誰かが犯人になってし まう.であるから,「あなたしか犯人であり得る人はいないから,あなたが犯人 だ」という消去法の推論は冤罪に陥いる危険性がとても高い.ウラ(確証)を取る 必要があるのだ.「あなたしか犯人であり得る人はいないから,あなたが犯人だ」 は正確には「私の考えた中には,あなたしか犯人であり得る人はいないか ら,あなたが犯人であってほしい」である.
対策: まづ,最初にその問題には答えがあるのか,候補の中に答えがあるのか, を確認しなければならない.次に,優先された要素(検討項目)について, それが 本当に優先されるべき検討項目かどうか, よく考える必要がある.最後に,消去 法で答えが得られたとしても,それは単に粗求の答え(tentative)でしかなく, 別の物証,検算ないしはウラなどの確証をとる必要があることを忘れてはいけな い.
この錯誤は,事物をグループ化して扱い(パッケージ),個々の内容は吟味しない 錯誤である.たとえば,
彼は保守派であって,増税や福祉を充実することに反対票を投じている. したがって,銃規制(アメリカでの話)や中絶にも反対するだろう.
(アメリカでは増税反対,福祉簡素化,銃規制反対,中絶反対は往々にして``保 守主義''としてグルーピングされている.しかし,それらを一つの保守主義と いう概念でひとくくりにしてよい正答な理由はない.どれかに反対し,どれか に賛成することがあってもよいだろう.Wikipediaによる)
これは. and operator(演算子)の間違った使い方に起因する錯誤で ある.ちなみに,or operatorの間違った使い方に起因する錯誤は False dilemma(間違った両断)である.
この種の錯誤が通用してしまうのは,グループの構成員が,そのグループの性質 を継承している場合が多いためである13.たとえば,「保守派」は「増税や福祉」に反対し ているが,「銃規制(アメリカでの話)や中絶」にも反対する割合いが高い ためである.割合いが高いからといって,かならずそうだというわけではないが, 割合いが高いからそうだらうと憶測するのはあんがい確率的推論法として 正しい.しかし,人は確率論を嫌い(おそらく中途半端さが理解できないことが 原因),確定論を好むため,憶測的表現が確信的表現に代わり,やがて断定にな る.確率論の詳細は「蓋然性/Probability/確からしさ/確率」の項目で取り扱う.
この誤謬は事物の連続性を濫用して,端成分の差を反故にする誤謬である.たと えば下記のようなものである.
例:
・ハゲはハゲの編.
ハゲの人に一本髪の毛が生えるてきても,ハゲである.
その後,更にまた一本髪の毛が生えてきても,ハゲはハゲである.
...
したがって,ハゲの人は,いくら髪の毛が生えてきてもハゲのままである.
・フサフサはフサフサの編
髪がフサフサしている人から,髪の毛を一本抜いても,フサフサである.
さらにもう一本抜いてもフサフサである.
... したがって,髪の毛がフサフサの人から,いくら髪の毛をとってもフサフサであ る.
これらから明らかなように,
もしあなたが今ハゲであるならば,どんなに毛生え薬が発達しても, 未来永劫ハゲのままです.逆に,もしあなたが今フサフサの髪の毛をもっている なら,あなたは未来永劫フサフサです.
このargumentは明らかに現実にあっていない,fallacy argumentである.これは paradox of the heap, paradox of the bread, paradox of the baldと呼ばれて いる逆理である.
例:大金の使い込み.
前提1:1000万円は大金である.
前提2:大金から1000円使っても大金である.
ここに1000万円あったとする.前提1からこれは大金である.前提2から,1000円 くらい使っても残金は大金である.この大金から更に1000円使っても大金である. 前提1と2から推論したところ1000円抜きとるという作業をたとえば1万回行って も大金が残っていることになる.しかし,実際は残金は0になってしまう.残金0 は大金とはいわない.
ものごとは大抵の場合,連続的に遷移している.なんでも白黒に二分できると考 えるのは現実無視の思考だが,境界が曖昧だからといって物事に区別がないと結 論づけるのもやはり愚かな極論である.
この誤謬は,ある事物が自然状態でそうであるのなら,それが正しい状態だとい う誤謬である(G. E. Moore;1903; Principia Ethica).自然主義の誤謬とも云ふ. この錯誤は,ある状態にあることと,その状態であるべきこととの混同 (confusion with ``is'' and ``ought'')である.この錯誤は「この行動/状態は 自然である.であるから,この行動は正しい」という形をとる.たとえば,
1 自然状態では競争社会である.競争のない社会はおかしい.
2 自然状態では,病気になっても薬など飲まない.だから,薬を飲んではいけない.
がこれに当たる.もちろん,自然状態があるべき姿かどうかは一切検証されてゐ ない.これらの命題は「自然状態は絶対の善である」といふ前提に基づいて提示 されてゐる.
また,自分の意見に合致する命題は受けいれやすく,自分の意見と対立する命題 には批判的になる傾向が人一般に認められる.この傾向のためもあるかもしれな い.命題1のようなことを云ふものはたいてい,勝者か,自分は勝者になると思っ てゐるものである.敗者が命題1のようなことを云ふことは少ない.ただし例外 はある.スポーツや武道である.そこでは負けることによって得るものがあるの で敗者が競争・試合を讃美することはある.また,スポーツや武道では競争・試 合は本質的に自主参加であるのに対して,多くの競争はしたくてしてゐるのでは なく,息むなく卷き込まれてしまったり,気がついたら渦中にゐたと,本人の意 思とは関係なく競争してしまってゐる.望んだ競争で,しかも勝った競争であれ ば,競争を肯定する命題は説得力をもつ.ただ,それは自分に都合がよいからで ある.
3 社会人類学的(文化人類学的)には,一麩一菜(一夫一妻)は最近のことであり, 現在でも少数派である.したがって,一麩一菜は不合理な制度である.
少数だから不合理だとは云へない(多数決の誤謬).また,「最近のこと」であれ ば,今後は一麩一菜が主流になるといふ結論だって導くことができる.もっとも その場合は「新しいものはよい」といふことを前提にしてゐるが.
社会学的?生物学的?な話題についてもうひとつ.
4 生物の目的は自分の遺伝子を残すことにある.だから,人間もさうしなければいけない.
the ``is''-and-``ought'' problem; ``事実と当為''問題
「事実としてそうである」ということと「そうであるべきだ(当為)」ということ は別である.これは社会の問題や倫理学の問題として提出されているが,似たよ うな事例として,科学理論でも起りうる錯誤である. つまり
例:理論がこうなっていて,こういう結果を予想している.この理論はこれまで 正しかったので,事実(観測結果)のほうが間違っている.事実(観測結果)はこう あるべきだ.
たしかに,観測方法や実験方法が間違いで,よい結果が出ないことはある.しか し,それ(観測方法の失敗という假説)に固執して,自分の假説の正しさを疑わな いのは,自分は正しいと思いたいだけだからかもしれない.
これはNaturalistic fallacyとは逆に,自然状態はなんでもダメだという錯誤で ある.
例:「人間は努力して向上しなければいけない.なぜなら,人間は自然状態では他の 動物と同じで堕落の一途だからだ」
`自然派の誤謬'(自然主義の誤謬)と似てをり,科学的に正しいものは,社会的に も正しいといふ誤謬である.取扱ひ上,自然主義と違ふのは,「科学的に正しい」 といふ意味での「正しさ」はいつでも蓋然的なもので,絶対的な正しさではない ことである.
どんな命題であれ,この世での命題は蓋然性から免れ得ないが,自然主義が引用 する命題はかなり確実に正しいと云へるが,科学での命題はそうではない.つま り,自然主義でのargumentは命題の売人も買い手もargumentの前件命題にあたる 事実認識ではほぼ一致し,クリティカルシンキングからも事実の正しさでは異論 がつきにくい.たとえば,「自然状態では,病気になっても薬など飲まない」に は異論がつかない14.が, 科学的な命題の正しさはいつでもヒックリかえる可能性がある(といふことを科 学者は認識してゐる).ヒックリかえり易さにはいろいろあって簡単にヒックリ かえるものとなかなかヒックリかえらないであろうものがあり,その見極めがで きることが科学者としては重要な能力である.
たとえば,上の一麩一菜の文脈では次のような主張がなされることがある.
生物学的には愛が続くのは4年間だけである(正確には,結婚によりドーパミンが 分泌されるのは多くの場合,最初の4年間だけである).したがって,ながながと 結婚生活をするのは合理的ではない.結婚と離婚と再婚を繰り返せすのが生物学 的にあるべき姿なのだ.
「自然ならば,あるべき姿」といふ論法が自然主義の誤謬で,それはそれとして 批判されるべきであるが,これには科学主義の誤謬も含まれてゐる.「愛が続く のは4年間だけ」といふのはどういうことか,それが正しいのか,どれだけ正し いのかが曖昧である.「統計的にみて」ということであれば,例外だってあるし, どれくらいに有意なのかも重要な判断材料である.愛の継続期間が人により大幅 に違い,すごく分散してゐるのにかかわらず,平均すれば4年になるというので あれば,この命題はあまり意味をもたない.もし,ほとんどの人で,愛というか ドーパミンの分泌が4年で止まってゐるのなら,そもそもドーパミンと結婚とは 因果関係がないのではないか,ということすら疑わせる.結婚生活にはドーパミ ンが必要である,というのが暗に前提とされてゐる命題であるが,これが正しい ことも実は担保されてゐない.
この誤謬は初期値に引きづられて予想するheuristicsである.
例:
甲:「ケニアの人口は5000万より大きいですか,小さいですか?」
乙:「大きい/小さい」
甲:「それではケニアの人口はどれくらいだと思いますか?」
乙:「6000万/3000万くらい?」
最初にある初期値(この例では5000万)を提示されると,それに引きづられて値も 初期値に近いだろうと予想するheiristicsである.
これは具体的な証拠を過大評価し,系統的・統計的な証拠の評価を軽んじる誤謬 である.認知メカニズムの研究から人間は統計的で系統的な証拠よりも具体的な 事例を重んじることが知られている.
例:私の妹は,ボルボに乗っていて,たてつづけに故障したり事故ったりして, まったく安全性が高くない.ボルボは安全性が高いというが,統計とか系統的な 安全性評価とか,そういう抽象的な根拠はよくわからない.それより,たてづつ けに故障と事故があったという事実のほうが説得力がある.私はボルボに乗らな い.
例:
Argument#1: 化石は当時生きていた.したがって,当時のそこはその化石種に適した環 境だった.
Argument#2: 化石はそこで死んだ.したがって,当時のそこはその化石種にとって不適当な環境 だった.
Reader: ほんとうはどっち?化石はなにを示しているの?
古生物学者は,このような乱暴な議論はしない(古生物学者の名誉のため敢て記 す).古生物学者は化石が現地棲なのか異地棲なのか.死因についても自然死な のか事故死なのかきちんと把握した上で,化石がその化石種に適した環境を示し ているのか,むしろそうではなかったのかを決定する.
しかし,証拠が「あることの証拠」なのか「そうではないことの証拠」なのか, 常に意識しておくことが重要である.
「神が存在するかしないか,どちらかに賭けてみようではないか」
こんな話があったとする. パスカルといふ人(圧力の単位のもとになった自然哲学者)はいふ.
「神が存在するはうに賭ける,勝てば全てに勝つことになる.」
神がゐるかゐないか,確率は今のところわからないとして, もし存在した場合,神の存在を信じた人は天国に召されるわけで,逆に, 存在を信じてゐなかったら,地獄に落とされてしまふ. 一方で,神が存在しなかった場合は,神の存在を信じてゐようとゐまいと 天国も地獄もないのだから関係がない,と言ひ,だから パスカルは神の存在を信じるやうにすすめる.
パスカルのいふ論理の後半は別として,前半のやうな事例, すなはち, ある方策が成功した時に効果が大なものは,その方策に賭けるべきだ,あるいは それに賭けたくなる, といふのを,「パスカルの賭け」といふらしい.
ただし,「パスカルの賭け」は純粋に神学的議論でもとりあげられる. 論理の用語として「パスカルの賭け」といふ術語を並行して用ゐると混乱するし,パスカルの真意も そこにないので, ここでは,「期待値無限大の錯誤」と呼称したい 15. 「神=無限大の恩寵がある」と假定してのことである. 期待値が計算上,無限大になることは,その成功確率がどんなに低くても それに乗っかってしまひがちである.
神がゐるかゐないかは無差別の原理(後述)によれば半分半分(50%)で,恩寵は無限大 (と本人は考へてゐるの)だから,期待値は 無限大の半分で,無限大,といふわけであ る.
ロバート・L・パークは著書「わたしたちはなぜ「科学」にだまされるのか [Voodoo Science]」において, 個々人の,話のとおりうまくいくなら多大なメリットがある話 (無給エネルギーの自家発電装置の導入や病気の治療)を 成功の見込みはゼロなのに...と批判すると同時に, 国策においても, 永久機関・無限エネルギーの開発(エネルギー保存則からいふと無理筋なのだが) など, 成功した(もし,すればの話だが)時の成果・効果がものすごいもの, (無限エネルギーなら無限の成果)には,巨額の出資をして賭けてしまひがちである. その成功確率がどんなに低いものであっても...と指摘してゐる.
おそらく,確率の認識において 当人の想像してゐる数字と科学的に妥当な範囲の数字との間に非常な隔たりがあるのであらう. 実現確率は,当人が思ってゐるよりずっとずっと低い,そしてそれを 当人が認識してゐないことが問題なのであらう. 「どんなに確率が低くったって,無限のエネルギーが手に入るのなら,それでチャラ以上になる」と思ってしまひがちである.
無限大の効果があるものでなくても,成功すれば絶大の成果があるものに対しても 目が眩み,惑ひがちである(でも到底,成功しさうにない). パーキンソンのトリビアの法則(後述)により,実現可能性が本当のところ,どんなもんなのかと立ち入って検討(技術的問題を正確に把握)するのはめんどうなので, 安易に,採用してしまふといふこともあらう.
前述のパークは,米国の国策科学技術プロジェクトのうち,有人宇宙探査や宇宙防衛構想も 実現可能性が著しく低い「パスカルの賭け」であると指摘してゐる. 効果無限大だけでなく,効果が絶大であることに目が眩んで誤った撰択をしてしまふことも含めて, ここでは,「期待値無限大の錯誤」と呼称することにしよう.
考へられる対応としては,2段階ある.最初に,その話がほんとうにうまく行く 可能性が原理的に(あるいは根本的に)あるのかどうかちゃんと考へること.効果 無限大のものは,確率も無限小かもしれない(ある程度の確率があるものなら誰 かやってるかもしれないと考へてみる).無限大×無限小は世間的なレベルでは 計算結果が確定しない.永久機関の例でいへば,エネルギー保存則に反してをり, 原理的に実現可能性はないし,これまでの知見の集積にもとづけば実現可能性は ゼロである(「これまでの知見を超えるものなんです!」と主張されがちだが). これまでのものを超える何かがあるのかどうか吟味していくのがよからう.
第二に,原理的・根本的には,うまく行くこともあるだらうとして,どれくらい コケさうな,つっかかりさうな,ネックになりさうな,律速になりさうな段階が あるか検討してみよう.骨太でいふと原理的には可能なんだが,技術的にクリア しなければいけない課題が山積みで,実際問題として限りなく不可能に近いとい ふプロジェクトもある.
私見では根本の問題は,よく考へないで,安易に期待される成果につられて, (あるいは別の理由で)ある方策を決定してしまふことにあると思ふ.
余談: パスカルの賭けの真意は,パスカルご本人が思ってゐたのは上と は違ふらしい.その意味で,この錯誤に「パスカルの賭け」といふ名称を与へる のはパスカルに悪いやうに思ふ.さういふわけで,ここでは「期待値絶大の錯誤」 と新称した.ただ,世間ではこの錯誤のことを「パスカルの賭け」と呼んでゐる やうなので,項目としては「パスカルの賭け」も含めておく.
ちなみに,人間は神の存在を信じたとしても,信じたとほりには行動できないこ ともある弱い存在である.「さういふのは信じたとは言はないのだ」といはれる のなら,信じるのは能力であって,能力のない人は信じたくても信じられない. そもそも賭けとはどちらにも賭け得る人ができるものなので,どちらかにしか賭 け得ない人には賭けは成立しない.
必要条件と十分条件をとりちがえる錯誤である(必要条件・十分条件については4 枚カードのところで紹介した).この錯誤は,必要条件を十分条件と誤解する錯 誤と,十分条件なのに必要条件と誤解する錯誤の二種類ある.
必要条件を十分条件と誤解する錯誤である.「PならばQ」という命題があった時 に,「Qがある.だからPだ」と推論する間違いである.これは古くから「逆は必 ずしも真ならず」として知られている.
例:月の石編その一
月の石の化学組成はカクカクシカジカだ.
この石は同じ化学組成をもつ.
したがって, これは月の石だ.
(月の石と同じ組成をもつ地球の石もある)
例:月の石編その二
月の石は長石岩(長石からなる岩)と玄武岩からなる.
これは長石岩だ.
ゆゑに, これは月の石だ.
(地球からも長石岩が産する)
例:
東京で大地震が起きたら大災害になる.
東京で大災害が起った.
したがって,東京で大地震が起きたのだろう. (災害の原因は地震以外にもありえる)
例:
豊臣秀吉は太閣(関白をリタイヤした人)である.
この人は太閣だ.
したがって,この人は秀吉だ.
(太閣は秀吉以外にもいる)
わかりにくい場合はVenn図を書くように.
十分条件なのに必要条件と誤解する錯誤である.「PならばQ」という命題があっ た時に,「Pではない.だからQでもない」と推論する間違いである.「逆は必ず しも真ならず」として知られている.
例:月の石編その一
月の石の化学組成はカクカクシカジカだ.
この石は月の石ではない.
したがって, これはカクカクシカジカの化学組成ではない.
(月の石と同じ組成をもつ地球の石もある)
例:月の石編その二
月の石は長石岩(長石からなる岩)と玄武岩からなる.
この石は月の石ではない.
ゆゑに, これは長石岩や玄武岩ではない.
(長石岩も玄武岩も地球で産する)
例:
東京で大地震が起きたら大災害になる.
東京で大地震は起きていない.
したがって,東京では大災害は起きていないのだろう. (地震以外の原因で大災害が起きることもある)
例:
豊臣秀吉は太閣(関白をリタイヤした人)である.
この人は秀吉ではない.
したがって,この人は太閣ではない.
(太閣は秀吉以外にもいるので,この人が太閣である可能性も残されている)
例: 「ナニガシは学者だから, 学者らしく勉強家(まじめ,融通がきかない,研 究熱心等々)なはずだ.」
「学者らしい」像は, 学者の平均から導出されている. しかし, あるサンプル (ある学者)が, 平均的な学者像をしている保証はない.
ドミノ理論は,1970年代にアメリカで提唱された世界戦略理論のひとつで,「ベ トナムが共産化されれば,それにともなってドミノ倒しのように東南アジア全体 が共産化し,自由主義国家の安定性が脅かされる.だから,ベトナムに派兵し共 産化を食いとめなければいけない」というものである.
Slippy slopeとは「最初は限定された現象でも次第に拡大し,やがて最悪の事態 になる.だから,そうならないように限定した段階で手を打っておかねばいけな い」という錯誤である.確かに成りたつ現象もある(たとえば,虫歯).しかし, なんでも必然的に拡大する,というのは錯誤である.また,どこまで拡大するの かを明確にせず,最悪の事態になるというのは乱暴な議論である.ある程度のと ころで拡大がとまり,その程度なら問題がない場合であるだろう.
たとえば,重い病に罹患しかけの人は早急に治療するべきだ,という命題には賛 成する人も多いだろう.しかし,その人の期待される寿命に比べて,その病気の 進行性が小さく,治療によるリスク(手術の失敗や体力の低下)が大きいとしても この命題は妥当だろうか.このように条件によっては拡大しない/しても問題な いのに,その検討を省略/隠蔽して,なんでも対策を講じなければいけないとい うのがこの錯誤である.
なにかを指し示す言葉に,解釈や主観的な判断をもりこんだ言葉遣いをすること がある.もちろん,言葉の意味がそのモノの実体を反映している保証はない.
例:合衆国政府のDefence Departmentが用いる 「戦略的撤退 Strategic Withdrawal」といふ用語の意味は, 「退却 retreat」といふ意味である (Critical Thinking Across the Curriculum Project, Longview Community Collegeによる).
さらに アメリカの政府や企業の例を示す.
underutilization(低雇用?) あるいは reduction in forceはunemployment(失業)のことだ.
これはrifと略されて,I was riffed.(馘になった)のように普通の動詞として も使はれる.
revenue enhancement/ enhancer(歳入増加/増 加策)とはtax raise(増税)のことだ.
responsible of reorganization (組織再編の責任?)とはfired, dimissal(解雇) のことだ.
employee empowermentとは増員のように見せかせて実は人員削減のことだ.
clear bomb(きれいな爆弾?)とは nuclear bomb(核爆弾)のことだ.
(nuclearをnew clearと勘違いしてゐる人も多い)
最近の日本の例では
高経年化 (老朽化),ほかいろいろ
政府の経済政策担当者や企業のリストラ推進室のようなところは悪い言葉をなん とか見た目だけでもとりつくろうとする姿勢が伺い知れる.その結果,実体はボ ケて,あるいは歪んで伝はってしまってゐる.言語は本質的に実体から遊離する 傾向があるから,こういう言葉遣いとしてゐると語る方も聞く方も卒直な現実認 識ができなくなることが危惧される.端的には,空襲で焼野原になってゐるのに 戦争に勝つというかなり現実離れした思念がそれである(この思念はどうやって 勝つの?という現実的な質問には答へられない).
これらの錯誤は婉曲表現の虚偽(fallacy of tuphemism) the laguage of evasion, hypocrisy and deceit(言い逃れ,偽善,ごまかしの言葉)と呼ばれる こともある.日本語でいふところの「オブラートにつつんだ言葉遣い」に近いが, それよりひどいものもある.
「退却」を`Strategic Withdrawal'といいかへるdeception(虚飾)を見ると昔, 日本の戦争指導組織である大本営が「退却」と言はずに「転進」と言ってゐたこ とを思ひだす.このような言霊信仰的な言葉遣ひは日本に限ったことではない. ただ,この件だけについて云へば,ごまかしの程度は「転進」と「戦略的撤退」 では随分異なる.「転進」というとどっかに進んだような印象を与へるが「戦略 的撤退」というと少なくとも退いたことがわかる(もちろん「戦略的」という言 葉の裏に,撤退は意図的なものだというごまかしが認められるが).後半に提示 した例は「大本営的傾向」が強い.たとへばempowermentが削減を意味するなど deceptionを越えて詐欺(fraud)の域に達してゐる.このことからも言霊的言葉遣 いは日本に限ったことではなく,どんな言語・文化であっても注意しないと 虚飾に耽溺する傾向をもっていると推測できる.
政治の分野においてはこの種のレトリックは常套手段になっているが,科学の分 野でも命名の錯誤はしばしば認められる.分析データを解釈する時にタイプ分け やパターン分けをする.その時,タイプやパターンにどう名称を与へるかは注意 を要する.名実ともに一致する名前を与へることができたらいいが,実際には実 体とは違う名称をつけたり,筆者がそうであってほしいという名称をつけること がある.それではタイプA, B, Cと無色の名前をつければいいか,といふと一概 にはいえない.少なくとも,薔薇はどんな名前で呼んでも薔薇であることには違 いがないから,A, B, Cでももっと解釈誘導的な言葉でも,論理的に考へる人に とっては同じである.どんな名前であっても実体を伴なってゐるか解釈は実証さ れてゐるかということは論理的な人は常に注意してゐる.さうであれば解釈誘導 的な言葉のほうがあとから思い出しやすい.A, B, Cのような無色な名称は無色 なだけに何を意味してゐるのかわからないため,タイプAってなんだったっけ? と一々思い出す必要がある.
科学的議論においては命名は発表する者の特権なので,どう命名してもよい.私 は無色な名前よりも,実体を的確にあらはすと筆者が信じる名前をつけることを 推薦する.科学的議論においては名称の妥当性は常にチェックされる(学問の流 行に影響されて,いつでもチェックされてゐるとは云へないが).だから名称が 議論を左右することはないので,筆者の主張がよりわかりやすい命名を採用する べきである.まだ,あまりに露骨な解釈誘導型の命名をするとかえってargument の信憑性が下ってしまう.そのことからも,あまりにもに露骨な命名は避けられ る.なお,これはあくまで論理的に考へることを尊ぶ人間集団でのみ通用する. いいかえれば,自分でモノを考へることを当然とする文化で通用する.議論は自 分でモノを考へることをる(少なくとも建前としては)当然とす文化でのみ成立す るので,それ以外については命名の是非は議論の範疇にない.
例:地質学では海洋底拡大により大陸が引き裂かれて生じた大陸縁をpassive marginといふ.大西洋沿岸のヨーロッパ・アフリカ,アメリカがそれである.日 本のやうな沈み込み帯や横ずれしてゐる大陸縁をactive marginとふ.passive marginといふと,一般には受身な印象を受け,active marginといふと活動的な 印象を受ける.確かに地質構造運動はactive marginのはうが一般には活発であ るが,ではpassive marginは活動的でないかといふとこれは違ふ.また,どうし て引き裂かれて生じた大陸縁がpassiveなのかわからない.
G.M.Weingberg は《「金ピカ法則:機能にできなかったら,それらしく見せてし まへ.」》を紹介した後で,《「逆金ピカ法則」:何かが「らしく見せられてゐ る」とすれば,それはなおす必要がある》と釘を指す(「コンサルタントの秘密- 技術アドバイスの人間学」).なぜ,根本的な解決がなされないのかのだらうか, Weinbergは言ふ(前掲書)《それは,それらしく見せる方がなほすよりずっと楽だ からである...「らしく見せる」ことがうまく行き出すと,われわれは本当に なほすにはどうしたらよいかをもはや学ばなくなってしまふのだ.》これが, 「解釈誘導型の言葉遣ひ」の恐しい点である.
前提の中に, 論証する結論が含まれている.
例:
甲:「彼は傷害の前科があるから, 乱暴な人間に違いない」
乙:「いや, 彼は温厚な人間に見えるのですが」
甲:「彼はきっと猫をかぶっていて,それは本当の姿ではない. もし, 乱暴な人 間でなかったなら傷害の前科などあるわけがない」 (足立幸男による)
結論の正しさを証明するために, 前提の正しさをもちだす(ここまでは通常の推 論).そして前提の正しさを保証するものとして結論をもちだしている. 論点先取 というのは,結論を先取りする命題という意味である.これを日本語で堂々めぐ りといふ(ただし「堂々めぐり」の適用範囲は循環論法のそれより広い)
傷害を起こした時期と今とは時期が違うことを考慮すると, 時期を考慮しない間 違った推論である. 傷害の前科を実績のなさ, 乱暴を無能に置換しても同じよう な循環論法になるのがわかる(この例も足立幸男による).
例:
甲:「彼は業績がないから無能な人間だ」
乙:「有能かもしれないけれど」
甲:「いや,そんなことはない.無能でなければ業績があるはずだ」
補足:この例では,有能さを発揮できる状態にあるかどうか(環境要因)は議論されてお らず,業績のあるなしの原因を単純に本人(の能力)に帰属している「原因帰属の 誤謬」を含んでいる.
恐らく,デカルトの有名な文言``cogito ergo sum'' (我思う故に我あり)も論点 先取の疑いがある.なぜなら,「我思う」という前提の中に,「我」の存在が assumptionになっているためである.ラテン語では主語は動詞の格に含まれてし まうので論点先取と認識しにくいが,日本語や英語では主語が動詞とは別に立つ ので認識できる.主語を消した文「考えることは存在することである」とすると 論点先取になるだろうか?
下記はどうか.
「逆断層があるから, 圧縮応力場だと考えられる. なぜって, 圧縮応力場でなかっ たら逆断層があるわけないではないか」
これに関係するものに,「実験屋の悪循環」がある.
恒真命題は名前のとおり,恒(常)に正しい命題である.常に正しいなら問題 ない,結構なことではないかと思うかもしれないが,常に正しい命題は,なんの 情報ももたらさない.
たとえば,「明日は雨が降るか降らないかのどちらかだ」という命題(一般化 するなら「pまたはnot p」)はいつでも正しい,明日,雨が降ろうと降らまいと. 雪が降っても, それは「雨が降らない」ということなので正しい.しかし,こ ういう命題を聞いても明日の天気についてわかった気は少しもしないだろう.
例: 「やるときはやる. 」
いつやるのか,やるときまでわからない.やらなかったとしたら, それは やるときではなかったのだ.
このように恒真命題は循環論法と同じ論理構造をとる.
Argumentとexplanationの混同. あること(Y)を証明する際に, 別のこと(X)を証 拠として, 「XだからY」というのがargumentであり, Xを証明する際に,「Xだか らY」というのはexplanationである(Atheism Webによる). この説明は,わかり にくいかもしれない.Argumentは,証拠によって理論(假説)を証明するものであ るが,Ad hoc explanationでは,ある理論(假説)を証明するために,「その理論 があっていたとすればこういう証拠があるはずです.ほらここにあります」とい うことである.その証拠は,その假説でなくても,偶然や自然のなりゆき(愛鳥 家の錯誤)など別の理由で説明がつくかもしれない.
一般的には,理論(假説)にあわない証拠を説明するために,その時だけ例外的な ルールを適用することである.
例:海王星の軌道はニュートン力学が予想する軌道とすこし異なっていることが 19世紀にわかった.ニュートン力学はこれまで全ての惑星で(当時の精度では)精 度よく軌道を予想できたので,なにか例外となる現象があるのだろうと ad hoc な解釈がさかんに行われた.もっとも有名なのは,海王星と太陽との間に引力を 狂わせるような渦が存在しているのではないかという説明である(渦假説).
これは帰納法を適用する際に犯しやすい誤り(帰納法の虚偽)である. 少ない事象 (極端な場合は一回かぎり)に対して, それにしか当て嵌らない法則を適用するこ と. それしか当て嵌らない法則とは, 実際には法則ではなくて説明であり論証で はない. 説明を論証を見倣す虚偽. ある命題を反証する証拠の正当性を棄却する ために, 命題にあとから付けくわえられることが多い.
Ad hocなのか, 正当な例外なのか, ちゃんと個別に理由があるのかどうかの区別 は, 他の証拠や個々の推論の妥当性で判断される.
例:海王星の軌道については,別の人は海王星よりも外側にもう一つ惑星がある (未知の惑星假説)と考えると,海王星の変な軌道が説明できるのではないかと考 えて,海王星の軌道を説明する惑星の軌道と質量を試算した.これは後に冥王星 として存在が証明された.
渦假説と未知の惑星假説では,ニュートン力学に対する逸脱の度合が異なる.未 知の惑星假説では,ニュートン力学の適用の際に初期条件を変えているだけなの に対し,渦假説ではニュートン力学で定義されない,別概念で説明しようとして いる.
スティワート・カウフマンが愉快な例を引いている.
私が医学生のときに篩骨というものを教わった.それは小さな穴がたくさんあい た骨で,鼻と額のつなぎになっている.教授は篩骨が進化の中で生き残ってきた 理由を説明した.やれ,軽くて強いのでそれが果すべき機能にうまく適応してき たからだと云ふ.しかり,もし仮に,篩骨がでこぼこの骨からできて硬くて大き なブロックであって,しかも角のような突起物を作っていて,人間の鼻の上を大 きく覆うようなもの(スタートレックのクリンゴン人を想像するよい.筆者註)だっ たとしよう.それでも,その教授は間違いなく,したり顔で,その大きな瘤が如 何に人間に役に立っているかを雄弁に語るであらう.転んだ時や戦闘において頭 をガードするとか理由づけするかもしれない.進化に関しては,このような「ま ことしやな話」が多数存在する.もっともらしい筋書きだが,それを実証する 証拠はない.我々はその手の話を聞くのもするのも好きだが,学問的な信頼を 置くことはできない.
上の例は,後付けの虚偽(post hoc reasoning)でもあるが,これはその場しのぎ (ad hoc)の虚偽に似ている.重要な違いは,post hocが,結果を先に見て,そこ から推論するのに対して,ad hocは先に推論して実際が推論と違う場合に,先の 推論はそのままで更に補足的な推論(とってけたような話)を重ねて,お話を作る 虚偽である.この手の議論は,全部が全部虚偽というものでなく,あるいは正し い推論になっていることもある.しかし,ある命題を肯定する証拠も,否定する 証拠もない場合は,話半分に聞いておくほうが危険が少ない.
「反証不可能な命題」の項目の「あやしい壷」の例を参照のこと.これもpost hoc reasoningである.
次の例はどうか.
例:患者が母親を愛してゐるのなら,それが神経症の原因だ.もし憎んでゐるの なら,それが神経症の原因だ.(P.F.ドラッカー「傍観者の時代」の「フロイト の錯誤とその壮大な試み」より)
これもかなりad hoc reasoningに見えるが,神経症が強い感情の経験(愛憎を含 む)を原因としてゐるのだとすれば,合理的な理由づけにもとれる.ただ,それ を認めたとしても,どうすれば治療や改善に有効なのかはこの命題からはわから ない.つまり,それが原因の一つだったとしても,神経症の勘所は別にあるので はないかといふことを想起させる.
例:患者が母親を愛してゐるのなら,それが神経症の原因だ.もし憎んでゐるの なら,それが神経症の原因だ.加えて,患者が母親に無関心なら,それが神経症 の原因だ.
と改変すると…それが正しいかどうかはともなく…何が原因だと云へるのかわか らない.
重要な証拠を考慮せずに除外した推論である.
例: 日本は全体的に山地が多い. 大阪城は日本に位置している.したがって, 大 阪城は山地にある可能性が高い.
ところが, これは「大阪城は大阪市に位置しており, 大阪市には山地はない」と いう事実を無視した推論である. わざとすれば詭弁だが, 意識せずに(人間の認 知メカニズムから意識できないことがある), ある証拠を排除してしまうことも ある.
この誤謬は「データが少ないのに結論を出す錯誤」と同じである.
ワトソン博士は,コナン・ドイル作の推理小説シャーロックホームズの合方の名 前である.あまり知られていない作品に「ワトソン博士は如何にしてトリックを 学んだか」といふのがある.
あらすじ:
ワトソン博士が朝からホームズをじっと見てゐる.ホームズがワトソン博士にど うしたんだいと尋ねると,ワトソン博士は答へる.「ホームズの推理力は表面的 なトリックであって簡単に身につけられる.世間の人が驚嘆するのはおかしな現象 だ.私もホームズの推理術くらいマスターできる.ためしにホームズのことを推 理してみるといふ.
推理1:今朝ホームズは髭をそってゐなかった.ホームズはきちんとした人.きっ と考へ事(それも深刻な)がある.
推理2:ホームズは封筒をかかえて唸った.きっと,依頼人からの手紙だらう. 唸ってゐるのは依頼された捜査がうまくいってゐないためだ.
推理3:ホームズは新聞の株の覧をみて驚いた声をあげた.きっとホームズは株 をはじめたのだらう.
推理4:いつもと違ふ(いつもより礼儀ただしい)黒い服を着てゐる.きっと来客 があるのだらう.
これに対してホームズががっかりしたやうに反論する.
反論1:髭をそってゐないのは剃刀を研ぎに出してゐたから.
反論2:手紙は歯医者からの予約の返事.唸ったのは歯医者に行くのが嫌なため.
反論3:株を見てゐたのではなく,株の覧のとなりのクリケットの覧を見てゐた.
反論4:来客があるのではなく外出(歯医者)するため.
ワトソン博士の推理の手法はホームズがいつもやっている方法である.博士はホー ムズの手法どほりに推論してゐるのだが,全部はづれてゐる.ホームズの推理と ワトソンの推理とどう違ふのであらうか? 方法が同じなのに結果が異なるのは, シャーロックホームズの推理小説が「お話」だからである.ホームズの方法ばか り当るのは,ホームズの推理方法が正しいからではなくて,ホームズの推理が あたるやうに「お話」を書いたからに過ぎず,ホームズの推理の蓋然性はワトソ ン博士の推理の蓋然性をなんら変らない.ワトソン博士の推論の誤謬はもともと ホームズの推理の誤謬だったのである.
補足:少なくとも作者のドイルはホームズの推理力をこのくらいのものだと位置 づけていたと考へられる.もっとおとなし目の主張としては,凡人がホームズを 気取っても天才的推理力は身につかず,かへって滑稽である,といふことかもし れない.しかし,前述のやうに,ワトソン博士とホームズとの間に手法の違ひは ない.この.ドイルのホームズの推理力に対する過小評価はドイルはホームズを 嫌ってゐたことが個人的な感情が原因かもしれない.ドイル自身は歴史研究をし たかったがホームズシリーズが流行したので研究に専念できず,また,研究の評 価も低かった.
この誤謬は結果論で歴史上の人物や事件を評価する誤謬である(D.H.Fischer; 1970; Historian's fallacy).我々は歴史を知っているから,ある事件やある行 動の結果を知っているが,歴史上の当事者は(その時は)結果を知らない.現在の 人間と当時の人間とではもっている情報が異なっている.にもかかわらず,同じ 情報をもっていると思って歴史上の事件や当事者を評価してしまう誤謬である.
たとえば,真珠湾の攻撃について「どうして予期できなかったのだ」「いや知っ ていたが,日本が先に攻撃するようにわざとアメリカは討たれるようにしたのだ (陰謀説)」という議論がある.歴史は,日本が真珠湾を攻撃するという情報を攻 撃前にアメリカ側が得ていたことを示している.歴史を知るものは真珠湾の攻撃 があったことを知っているので,どんな情報に注意すべきであったかわかる.し かし,当事者は,その時本当に日本が攻撃するかどうかは知らないから,どの情 報に注意すればいいのかわからない.正しく議論したいのであれば,一足跳びに 陰謀説に傾むかずに,当時どんな情報がどれだけあって(全体),当時それらの情 報をどう整理し分析するのが妥当であったのか,についての緻密な検証が必要で ある.たとえば情報が錯綜し,相互に矛盾していた場合,結果を知らずにどれが 未来を語る情報かを判別することができたのかできなかったのか.
例:第一次世界大戦後,敗戦国ドイツに多額の賠償を請求すべきではなかった. それが第二次世界大戦をひきおこした.(Wikipediaによる)
第一次世界大戦は参加国の国力を使い尽す総力戦であった.日露戦争では賠償金 がなかったため暴動が起きた(日比谷焼き打ち事件).このように,戦争で失なっ たものの償いを戦勝国が求めるのは,政治担当者の決定というよりも国民の意思 であって,その意思を叶えるのが政治担当者の仕事であった.もし戦勝国が使い つくした国力に見合う賠償金を請求しなければ,戦勝国の政治担当者は国民から 罷免されていただろうから,低額の賠償金を請求するというもっと穏当な決定は できなかった.
例:平 清盛は平治の乱の後,源氏の子供の頼朝を生かしておくべきではなかっ た.生かしておいたため平氏は源 頼朝によって滅ぼされた.
源氏の子供を生かしておくことの危険性は清盛は十分理解していた.清盛も最初 は殺そうとしたのである.それでも乳母の願い(頼朝は乳母が亡くした子供に似 ていたので助命を嘆願した)を蹴ることはできなかった.歴史家は結果を知って いるので,清盛はどうやっても頼朝を処刑しておくべきだったといえるが,当事 者にはどうやってもできない判断だった.
例:大坂城冬の陣では,大坂側は絶対に講和を結んで堀を埋めたりしてはいけな かった.堀を埋めたことによって夏の陣で滅んだ.
結果論からいっても戦略的に見ても堀を埋める講和が有害な決定であることはわ かっていた.それでも当時の大坂側にそれが有害であると進言する参謀はいなかっ たし,講和を蹴ることもできなかった.
例:徳川慶喜がどんなに優秀であっても,朝廷との間に揉め事が起きている時に将軍 にしてはいけなかった.慶喜の母親は皇族だから朝廷との間に揉め事が起きた場 合,朝廷側につく可能性があったし,実際にそうであった.
このように当事者にしてみれば「できない相談」ということもあるだろうし, 当時の状況では「その決定がもっとも正しい選択だ」と考えられる決定もある. 後になってみて,その決定が間違いだったと気がつくかもしれないが,それは後 にならないとわからない.
例:彼は病気の時に抜血(中世の医療の一つ.血を抜く)をしたために,かえって 病気の進行が速くなって早世してしまった.抜血など非科学的なことをするべき でなかったのだ.
(特に建設中:fixit)いろいろな周期の変動が不完全に記録された媒体から歴史 (時系列変動)を読みとることはむつかしい. 地層はこの典型である.カオス的 ふるまい,偶然がリズムに見える微妙な変動パターン,データのもつ揺らぎ, サンプル間隔の問題,プロキシーの保存の問題と問題山積である.
例1:
1年目は1月に気温を測定.
2年目は2月に.3年目は3月に....これを10年くりかえす
結論:気温は年々上昇する傾向にあるようだ(当然間違い).
例2:
ランダムなタイミングで気温を測定.
6月,毎日,測定時間はランダム.
6月は気温がだんだん上昇する季節.
しかし,ランダムサンプリングだと,
6月中の気温上昇分より,日中の変化のほうが変動が大きいため,
観測データは,変な変動を描いているように見える.
例1は極端な例だが,短周期の大振幅の変動と長周期の小振幅の変動とか組みあ わさって変な周期や傾向が見えてしまうことはあり得る.
標本化定理などの情報数学(書籍が多数あるのでここでは紹介しない.大学の先 生が講義録をWeb上で公開している.これは安くてお薦めである)や,時系列解析 (例えば「時系列解析と予測,ブッロクウェル・デービス;CAP出版」)を参考に されたし.より具体的な事例研究には,「先物市場のテクニカル分析;マーフィー; 金融財政事情研究会」がある.
この例は,森浩一氏「ぼくは考古学に鍛えられた」に依る.
例:大阪府和泉黄金塚古墳から,景初3年の銘をもった銅鏡が出土した.製作年 代は銘にあるとおり景初3年(AC238年)であり,中国(魏)の年号を使ってゐること から,中国製である.(景初3年は卑弥呼が魏に朝貢した年)
森浩一氏はこの推論は誤りだと指摘してゐる.たとへば,近所のラーメン屋で, 乾隆年製と銘打たれたラーメン鉢は,はたして,清国の乾隆年製(1735-1795)か. 清国で製作されたものか.そんな高価な骨董品がラーメン屋で使っている可能性 はきはめて低い.ありさうな結論は,乾隆年製の磁器があまりに有名なために, それにあやかるために乾隆年製と銘打ったものであらう.
また,「天皇陛下在位御60年記念」(昭和)の10万円金貨の偽造コインが外国で差 押えられた.そこには当然,昭和61年(1986)か62年の銘が打ってあるが,ほんと うに昭和61年か62年年製か,日本製か(事後に偽造したのであるから昭和61年か 62年年製の可能性はきはめて低い.日本製かどうかもあやしい).
銅鏡の例にしても,景初3年の銘があるからといって,単純に景初3年製とか,中 国製とは云へない.銘は,打てばいつでもどんな銘でも打てる.ただ,その鏡の 製作にあたって景初3年に強く影響されたことは確かに云へる. たとへば,自分たちは卑弥呼の後裔だと主張したいのかもしれない.
例:京都府福知山から,景初4年銘の銅鏡が出土した.これは中国製, それも景初4年製作の銅鏡...か?
景初4年はない(3年まで).景初4年にあたるのは正始元年である.これは,後世 (といっても現在から見ると太古の昔であらうが),景初が3年で終わりといふこ とを知らない人が卑弥呼に関連づけるために景初4年と偽造(?)したものの可能 性が高い.これを踏まへると,福知山と地理的に近い黄金塚古墳の銅鏡について も同様の疑いをかけることは妥当である.
極めつけは次の例である.
例: アメリカのニュージャージ州からBC145年と銘打たれたローマ時代のコイン が出土した.このことから,紀元前1世紀ころにはローマはアメリカに到達し, そこの民と交易をしてゐた可能性が高い.
相手のロジック(argument)を,「虚偽だ」「fallacy」だとレッテルを貼って, それ以上の議論をしない錯誤である.「虚偽の論理だから推論は間違い」という 命題は正しい(というより同語反復だ)が,どこがどう虚偽で,どう間違えている のか明確にしない限り,つまり,前件の妥当性を論証しない限り,有効な反論と は言えない.また,推論は間違ってゐても,結論が正しい(偶然に)ことがある. 更に重要なことは,fallacyやheuristicsには,完全に間違っているものから, 相当黒に近い灰色,黒とも白ともつかない灰色,まぁ妥当なもの,ほとんど白と 云ってもよいものまでいろいろ含まれる.それらを十把一絡に``断罪''するのは 虚偽である.
相手のargumentを「非論理的だ」とか「論理的ではない」とだけ云って,それ以 上の議論をしないのも同じ錯誤である.確かに,相手のargumentが「非論理的」 でついていけないこともあるだらう.しかし,それでも相手のargumentを「論理 的に変」とだけ云って片付けることは「論理的」に妥当な態度とは云へない.こ の場合における,自分の「論理的」に妥当な状況分析は,「あなたのお話にはつ いていけません」である.もし自分がどうしてついていけないのか分析できて, 相手がそれを聞きたいのなら,ついていけない理由を語ることは建設的な態度だ ろう.しかし,自分がどうしてついていけないのか分析できないのなら,相手の argumentが「論理的に変」かどうかは言明できない筈である.人間は誰しも自分 が理解できないことは「論理的に変」だと思いがちである.もしそれが正しいな ら,自分が理解できない数学の本は「論理的に変」な内容になってしまう.しか し,世の中の技術のほとんどはその理解できない数学に依存している.自分が理 解できないからといって「論理的に変」かどうか判別できないことは論を俟たな い.
であるから,相手の言明に対して,単に「虚偽だ」「fallacyだ」「非論理的だ」 とか「論理的ではない」とだけ云って,どこがおかしいのかを指摘しないのなら, それた単に無責任は放言(根拠に裏打ちされていない命題)として処理されてもし かたがない.
自分がどうして理解できないのか分析できない場合は「あなたのお話にはついて いけません.なんでついていけないのかもわかりません」というのが正直な回答 になる.相手のargumentがわからない,という事実だけでは,自分の理解力のな さによるのか,相手の説明不足や間違いによるのか決定できない.どちらかかも しれないし,どちらともかもしれない.方程式が一つで未知数が二つのようなも のだ.
もし真に論理的なargumentを展開したいなら,「論理的」「論理的でない」とい う言葉を極力避けるほうがよい.「虚偽だ」「fallacy」「非論理的」「論理的 でない」という短い言葉はかえって「論理的に」意味のあることを何も伝へない. 大体のarugmentにおける論理展開というのは,三段論法程度の簡単な論理構造と その複合体からなっている(そうでないと人間は考えるほうも聞くほうも論理を 追えない.計算機は逆に回路になってしまへば簡単に論理を計算できる)なので, どこがおかしいのか明示できるはすである.大抵の論理的なargumentは明快なも のである.一方,非論理的なargumentも,論理的に明晰な人からみればその非論 理性は端的に指摘できるので,わざわざ「論理的でない」という必要はない.お かしいところを具体的に指摘するだけだ.「...の点は論理的(に正しい推論) ではないので,結論が正しいか正しくないか判断できない」「それは論理が正し くないと思う.なぜなら...」,さもなくば「論旨の運びが複雑すぎて理解で きません」となるだろう.「...」を端折った場合,自分が批評した内容が本 当に正しいか正しくないかを判断する論拠を相手や聴衆に提示してしないことに なる.
もし,複雑な論理構造,複雑なブール代数(「かつ」「または」の複雑な組合せ からなる回路のような論理式.なかでも3値論理(○×?)は非常に複雑.人間が 計算することは難しいが,計算機がもっとも得意とするところ)だったら結果を ダイジェストして端的な結論だけ云うということはあるかもしれない.それは 「どこが間違っているのか論理回路(や論理プログラム)を精査しなければわから ない.しかし,論理回路の演算結果だけは矛盾している」という意味である.し かしもしそうなら,``valid,'', ``invaild''であって,「論理的」とい う曖昧な言葉はつかない.「間違っている」「間違っていない」のどちらかであ る.
How is he wrong ?
How am I wrong ?
How are you wrong ? Can I explain ?
と問うことが大切である(引用 Big O).
この虚偽は,あるargumentに反論する際に相手の前提や論拠を過剰に単純化・誇 張したものを,相手の前提や論拠として提示(misrepresentation)し,それにつ いて反論を加えることである.当然ながら,過剰に単純化したり誇張した意見に 反論することは,もとの意見に反論するより易しい.そうやって,自分が歪曲し た相手の意見を否定することにより,もとの意見も間違っている,という印象を 与える虚偽である.この虚偽は,引用されているargumentともとのargumentとが 異なっており,もとのargumentは,strong argumentであることにより判別でき る.原典を確認することが重要である.
例:
甲:田丸君はご自身の著書の中で,固有名詞のローマ字綴り方は自由だとお書き になりました.つまり,地名はそれぞれが勝手にローマ字で綴ってよいという ことになります.それでは今までの表記を改めなくても結構ということになり, 同時に,ある綴とある綴が同じ地名であるにもかかわらず異なることになり混乱 します.
乙(田丸): 私は著書の中で固有名詞は自由とは書いておりません.私は,自分の 名前は自分の希望するように綴ってよいと書いているだけであります.地名は 一個人,一機関の支配すべきものではございませんから,自由に綴ることはあ りえないわけであります.
また,また聞きで情報を得た場合,伝言ゲーム効果によって,相手の言説が Straw Manに変質している可能性もある.また,一見なにがいいたいのかわから ないargumentもStraw Manに変質したargumentを検討することで,最初の argumentの`本質'について情報を得ることができる.ただし,本人のargumentと Straw Manに変質した後のそれとは論理的には別のものであることを失念しない ように.
Straw Manとは人間を打倒するのは困難だが,人間に似た案山子(かかし)を打倒 することは簡単だ,ということに由来している.
万有引力の法則を反証するには, 万有引力の法則にあわない現象を見付けて提示 すればよい. ある假説・命題を否定するには, その假説に反する証拠を提示すれ ばよい. これを反証という. 科学が提示するpropositionは必ず反証可能 (Falsifiability)でなければならず, 原理的に反証ができないargumentsは, 科 学的なargumentsではない(カール・ホッパーによる).
例: 「疑った場合には, この現象は起きない」
この現象=精霊, 奇跡, 成功, 治癒,データの傾向
検証して, この現象が起きなかったとする. この命題を信じるものにとっては検 証者が疑っていたから, 当該現象が起きなかったのだと説明するだろう. たとえ, 検証者が疑っていなかったとしても, 検証という作業自体が存在を否定する可能 性がある(反証可能)のだから, 検証する作業自体が疑いがあることの証明になる. 命題を信じるものにとっては,どうやっても検証者が疑っていたからだとするこ とができ, 検証作業そのものを否定することができる. 命題を信じる者にとって は, 常にこの命題は正しいと思うかもしれないが, 科学的には正しくない.
科学的には, すくなくともこの検証方法では, 当該現象は再現できなかったと考 えるのが妥当である. 直ちには否定しない. ただし, 現象が起きることを立証す る責任は, 主張する側にある(立証責任の転嫁の項を参照).
例:「実は..宇宙は,ある偉大な存在によって1万年前に作られたものです. 放射性同位元素や宇宙の膨張なども全て1万年以前に宇宙が存在した証拠のよう に見えますが,それは全て見せかけで,ある偉大な存在が1万年前に宇宙を作っ たときに,もっと前から宇宙が存在していたと見えるように全ての証拠を調整し, したのです」(この例は畏友K氏による)
誰も1万年前を見たものはいない.人は残された証拠から過去を推測するのみで ある.1万年前に前述のようなことが起きていたのかもしれない,起きていなかっ たのかもしれない.しかし, このargumentには反証のしようがない.
例: 「経験のないものにはわからん」
どこまで経験を積めば,わかるようになるか定義するのなら, 反証可能な命題で ある. そうでないなら, どこまで経験しても一向にわからなかったとしても, わ からない理由は経験の不足ということで片付けられる. これは反証不可能な命題 となる. この例文の論理構造は恒真命題と同じで,この命題は「絶対に間違えな い」ようにできている.「絶対に間違えない」命題は「絶対に間違えない」が故 に,なんの知識・情報も得ることがない.
なお,この命題の話者はむしろ,「私には説明できない」といふべきであったか もしれない(妄想*).素直に,できないことをできないとふ勇気はなかったのだ らうか(妄想**)? 妄想は付きないが,実際はケースバイケースだし,ご本人が どうなのかは他人にはわからないのだから,安直に,『むしろ,「私には説明で きない」といふべきだ』といふこともできない.それは余計なお世話である.
例: 「あやしい壷」
あやしい団体の人が「幸福の壷」というものを売りつけてきた.なんでもこの壷 をもっているとあらゆる災から逃れられるという.気が弱く,幸薄い私はつい 何十万も出して買ってしまった.しかし,次の日,私は交通事故にあって,一ヶ 月入院の重症となってしまった.あやしい団体の人が見舞いに来たので,「こ の壷は全然私の幸福には貢献していない」というと, あやしい団体の人は目をまるくして,
「あなたはなにもわかっていないですねー.この壷を買っていなかったら,今ご ろ,あなたは死んでいたんですよ」
そうだったのか.私は納得した.もう壷に足を向けて寝れない.
もし,宝籤で1億円当選したら,それこそ壷のおかげだと,あやしい団体の人は したり顔で云うだろう.あらゆる幸運は壷で説明できる.不運にだってこの壷は 万能である.どんな不運でも,それよりも不運な状態というのは假定できるから, 「壷の御陰で,それより悪い不幸にならなくて済んだ」ということで,どんな不 運に対しても壷の効力は認めることができる.死んでしまったらさすがに反論で きないが,それでも遺族に向って「この壷の御陰で天国に行ったのです」と強 弁するかもしれない.
このような論理(虚偽)で納得してしまうのは,心が弱い(暗い)ためだろうと思う (妄想***).その心の暗さ,弱さは,幸の薄さが関係しているのかもしれないが, そういう人にこそ,論理のパワーを体得してほしい.論理は人を自由にするとい うことを.
このように,「とってつけたような論理」で命題を防衛することをad hoc fallacyと云う.
議論の原則として立証責任は立論をする側にある. 立証責任の転嫁は,立論する 側が立証責任を放棄し,立論を否定する証拠を反論する側に求め, 立論を否定す る証拠が出せないなら立論が正当なものであると主張する錯誤である.
例: 「金を借りていないというなら, 借りていないという証拠を出せ. その証拠が出ないなら, 借りているということだ. 金を返せ.」
科学の世界では, generally-acceptedな命題(定説)が(とりあえずの: 暫定的)真 とされる. 従って, 定説に反する意見を述べるなら, 意見を述べる側に立証責任 がある. 定説を支持する側は意見が間違っていることを立証する必要はな い. 意見の立証を批判し,意見のもとになる証拠や論拠の推論の一部を否定すれ ばよい. このように, 立論を批判し反証するのは比較的やさしいが,立証責任 を負うことは重い負担である. このために, 議論では,できるだけ立証責任から 逃れようと, 立証責任を相手に押しつけあう議論になってしまう危険性があ る. このために, 科学の世界では定説と異なる意見を述べる方に立証責任がある, とはじめから決めておくことによって, 立証責任の押しつけあいを回避しようと している.
問題となるのは, 定説というものの曖昧さである. つまり, あるコミュニティA にとっては定説でも, 別のコミュニティBにとっては定説でもなんでもない, あ るいはまったく反対の考えが定説になっているときに問題が発生する(一種の通 約不可能性/共約不可能性; incommensurability). Aに属する人間aは, Aにとっ ての定説に基づいて推論をするが, Bに属する人間bとってはそれは定説ではない から, 立証責任をaに求める. aにとっては,それは定説であるために, 立証責任 はbにあると思う. 結局, どちらも立証責任を負わない結果となる.
例:「念力で空中浮遊する」
「念力で地震を起こす」
このような主張に対して,「どうやったら念力で空中浮遊できるんですか?」 「では,念力で地震を止めれますか?」といった反論(正確には質問)をしがちだ. 真面目な科学者ほどさうかもしれない.が,この種の反論は深刻な穴がある.そ れは,質問それ自体が「念力」の実在を前提としているからだ.私はここで「念 力」がないといふことを主張したいのではない.「念力」の実在を前提とした反 論は,前提として「念力」が存在してゐるために最後まで念力の存在自体が残る ので無効だ(効果が乏しい)とい訴えたいのである.
この命題に反論したい人はおそらく「念力」はないと思ってゐるだろうが,よく 考へてみれば「念力」とはなにかを知らないことに気がつくだらう.おそらくは 勝手な思い込みで「念力」を定義して,それで批判してゐるのだろうが,それが 相手の主張する「念力」と同じかどうかはわからない.自分が存在しないと思っ てゐるものについての言明を,自分が存在しないと思ってゐるものを使って批判 するのは自己矛盾である.なにかを0で割るようなもので,決して結果はでない (あくまで比喩).最初にすべき反論(正確には質問)は,「念力とは何ですか?」 だ.相手の定義をきちっと押えておいてから,それに従って反論する.かうする と相手は言い逃れできないし,「念力」といふものが実際にある場合でも,真実 を埋没させる心配はないし,「念力」と称してゐるものは実際は,他の科学的に 認知できるなにかの作用と混同している場合でも,実験や議論自体を意味あるも のとして評価できる.この定義にもとづいた反論(質問)法を定義による反論(質 問)といふ.
この錯誤は,都合のわるい事実を例外にし,錯誤であり,体のよい言い逃れに見 える(Antony Flew; 1975; Thinking about thinking).たとえば下記のような argumentである.
甲: 本物のスコットランド人はスコッチをなにより愛する.
乙: そう? コナンドイルはスコットランド人だけど,スコッチはおろか 酒の類を飲まないよ.最愛のものは ボクシングだといっていた.(真偽不明.ここではそうておく)
甲: だから,彼はヘナチョコスコットランド人なのだ.
乙: そういえばショーンコネリーもスコッチはあんまし好きではない といっていた(真偽不明).
甲: 彼もホンモノのスコットランド人ではないのかもしれない.
甲: 本物のプログラマーはキッシュを喰わない.
乙: しかし,ビルゲイツは キッシュを好んで食べるよ(事実かどうかは不明.ここではそうしておく).
甲: だから,ゲイツは本物のプログラマーではないのだ.
乙: そうそう,カーニハンやビルジョイ16は キッシュを好んで食べるよ(事実かどうかは不明.ここではそうしておく).
甲: えぇ?そう? でも,本物のプログラマーはキッシュを食べないものだ.
(甲は「彼らは本物ではない」と言いたいが,彼らはもっとも本物といってもよいプ ログラマーの一人なので,そうは言えずに,暗に「彼は例外」と示唆してお茶 を濁して逃げている.)
「本物」のフレーズが「典型的な」に置き換わって使用されることは頗る多い. 「本物」は定義が曖昧だが,白黒つきやすい概念なのに対して,「典型的な」は 感覚的な言葉で,更にどうとでも言い得る.なお,この錯誤はAd hocと関係して いる.Ad hocと同様,この論法は常に間違っているわけではない.理論が正しく ても実際には,その理論だけでは現象をうまく説明できないことがある.
この誤謬は「完全なものでない限り認めない」という誤謬である.世の中には完 璧なものなどないことを考えれば,この誤謬は現実無視のいいがかりにも思える が,完璧でなければ意味がないと真面目に思っている人もいるし,自分自分を完 璧主義で縛っていることも多いため,知らず知らずのうちにこの誤謬に陥いって いる危険がある.
どんなに法で規制しても無駄だ.法の網の目を潛るやつは必ずいる.(確かに, 法整備で100%違反をなくすことはできないし,実際に脱法違法はあるだろう. しかし,法を整備することによって脱法違法行為が減るのであれば, 政策とし て有効であろう.政策の無効性を訴えたいのであれば,メリット--100%でない にしてもメリットはあるだろう--に対してデメリットが大きいという論拠のほ うがstrong argumentになる.)
この錯誤は,容認してもよい例外を許さない錯誤である.たとえば,「普通の車 両は速度制限されているのに,緊急車両は法定速度を無視してもよいのはおかし い.例外は認められない」という錯誤である.科学の世界の推論の例では,
例:空飛ぶペンギン
鳥は空を飛ぶ.
ペンギンは鳥である.
したがって,ペンギンは飛べる.
(確かに,跳べるから海から陸に上れるのだが)
例:哺乳類は胎生ではない.
哺乳類は胎生である.
カモノハシは哺乳類である.
カモノハシは卵を生む.
矛盾があるので,哺乳類は胎生でない.
例外を許さない態度は二種類に分類できる. 例外の絶対否定(accident)と例外の絶対肯定(converse accident)である.
この錯誤は例外を絶対に認めないことによる錯誤である.
例:「車両は60kmを超えてはいけない.したがって,警察の車両も60kmを超えてはい けない」
これは内包的定義(「犬とは何か」)と外延的定義(「何が犬か」)の混乱と関係が あるかもしれない.「犬はワンと吠える」という内包的定義を外延的定義と解釈 して,「うちの犬はワンと吠えないから犬ではない」というargumentがそれだ.
この錯誤は,例外の絶対否定とは逆に,あの例外を認めるのなら,こちらも認め ろ,という錯誤である.
「あの警察車両は120kmで走行している.だから,この車両も120kmで走ってもよ い」
名称は新称(假称)である.これは,いくつもの理由をたたみかけて,理由の多さ によって説得しようとしてゐるのだが,実はスベってゐるといふ例である.
甲が乙からヤカンを借りた.しばらくして甲は乙にヤカンを返したところ, ヤカンには穴があいてゐた.乙は,甲に対して抗議する.
甲はなんと返答したかといふと...
「第一,私は,乙からヤカンを借りてゐない」
「第二に,乙から借りたヤカンには既に穴があいてゐた」
「第三に,私は乙に無傷の状態でヤカンを返した」
一つ一つは検討の価値のあるargumentであるが,全体を通してみると矛盾してゐ る.つまり,「第一」のとおり借りてゐないなら,「第二」で借りたヤカンにつ いての言及は不可能で,借りてゐないヤカンを無傷の状態で返すことも不可能で ある.もちろん,「第二」既に穴のあいたヤカンを「第三」のやうに無傷で返す ことも不可能である.
これを同じ人が同じ口で同じ時に話すことは(個人的には)著しい知性の欠如, あるいは,知性を欠如させようとする意図を感じる.
実際は,理由の多さによって「議論の厚さ」や「論証の厚さ」が増すこともしば しばある.しかし,理由が 多ければ攻撃力が増すと考えるのは早計である.一 貫性をもって考へずに思ひつきで(知性を欠如させで)理由を上げていけば,かう なってしまふかもしれない.
Pax et dignitasといふ作物において,私は次のやうな例をあげた.
例:ある収賄事件の容疑者英.相手の某との収賄現場となった会合について A 英「当日,私は自宅にゐた」 B 英「会合には某氏は來てゐなかった」 1 英「私は某氏とは面識がない」 2 英「私が受けとったのはカステラであって,金銭ではない」
がんばって例を考案したのだが,初出はフロイトのほうが先であらう(Der Witz und seine Beziehung zum Unbewuten, 1905).以前,ヤカンの話を聞いたの だが思い出せず,似たやうな話を創作したように思ふ.さて,フロイトは無意識 の抑圧による現象として考察してゐるが,もともとはフランスのジョーク(独語 der witz)である.
これまで述べてきた虚偽や錯誤,heuristicsの事例では,互いに矛盾している内 容を述べていることがある.たとえば,「重大な例外を無視するあやまり」と 「原則論の徹底,例外を認めないあやまり」,「観察の恣意性」と「観察の客観 性」,「理論にあわせた観測方法の錯誤」と「理論によらない観測方法の不可能 性」,「データの捨象の錯誤」と「データ整理しないと理解できない」,「ある 実験は假説がまちがっているため失敗」し「ある実験は実験方法がまちがってい るため失敗した」.ここで述べてきたことは,ある事例を,ある時には錯誤に分 類し,ある時は正しい推論と分類していて,恣意的なもののように受けとられる かもしれない.どこに線を引けばよいのか(線引問題),程度問題なのか?
In this world, nothing can be said to be certain, except death and taxes. (Benjamin Franklin, 1789)l
「世の中に死と税金以外に確実なものはない」(フランクリンの法則)
諸行無常.諸法無我.世間虚仮.
世の中には確実に正しいといえることはない.正しさは,正しさの程度において 判断するしかない.これを蓋然性と呼ぶ.蓋然性は,これまでの信念に比べて新 しく提出された結論による信念が,どれだけ正しさが増えるだろうか,というこ とで定義できる.したがって,正しいものと正しくないものとの境界に線引はで きず,正しさは程度問題である.程度問題であるが,あまり正しくない命題と, かなり正しいだろう命題とは,真理値が0のすぐそばの値と,1近くの値ほど異な る.たとえば,「どんな理論でも(ad hocな假説を継ぎたしていけば)どんな証拠 に対してもつじつまをあわせられる」という命題は,「どんな理論でも確実に間 違いとはいえない」という極まともな命題に他ならない.この場合,理論の蓋然 性は,非常にたくさんの假定を設定しないと物事を説明できない理論と,それよ りは假定が少なく統一的な理論とを比べて,どちらがより正しいだろうかという ことで判断できるだろう.それでも後者が完全に正しいということではない.
おそらく,蓋然性の程度をはかるものが確率であろう.本章では確率から蓋然性 までを紹介する.
タクシー問題というのがある.
ある町でひき逃げがおきた.目撃者によると,青のタクシーだったという.事件 は夜起きた.夜暗かったので(またはナトリウムランプなど色をかえてみせる外 灯のせいで),目撃者の見た色は誤認している可能性がある.実験の結果,同じ ような条件では青と緑を混同することがわかった.色を正しく認識する可能性は 80%だった.また,この町のタクシーの青と緑の割合は15%と85%である.他の 町のタクシーは被疑者にはならないとする.この場合,ひき逃げタクシーが青で ある確率はいくらか?(ダニエル・カーネマン&トバスキー:ノーベル経済学賞)
この問題は非常にむつかしいらしい. 理系でも,たとえば医者や学者でも正答率は低く(20%),多くの人が80%から 68%(=80%*85%)の間だった.
答えは
ベイズの定理 Bay's theorem, written in 1763, published in 1764
ある事象とIとし,P(I) = 事象Iが発生する確率とする. P(J,I) = Jが既に発生している場合に事象Iが発生する確率(条件つき確率; 事後確率) とすると,P(J,I)は下記によって求められる.
P(I,J)はIが発生した時にJが発生していた確率であり. ここでP(J)は事前確率と呼ばれる.
ベイズの定理をタクシー問題にあてはめてみる.Jをひき逃げタクシーが青であっ
た事象,Iを目撃者が青色に見る事象とおくと,P(J,I)はひき逃げタクシーが青
色であった場合に目撃者が青色に見る確率となる.P(I,J)は目撃者が青色タクシー
を青色と見る確率なので,80%.P(J)は青色タクシーの確率(存在割合)なので,
15%.P(I,)は目撃者が青色タクシーを青色に見ない確率いなので,20%.P()は
タクシーが青色でない(緑色)確率なので,85%.よって
非常に繁雑でわかりにくいが,自然頻度(natural sampling)で計算するとわかり やすい.タクシー100台のうち,15台が青色で,85台が緑色である.15台の青色 タクシーのうち,15*0.8(=12)台を目撃者は(正しく)青色と見る.一方,85台の 緑色タクシーのうち,85*0.2(=17)台を目撃者は(誤って)青色と見る.目撃者が 青色を見るタクシーの総数は29台である.このなかで青色タクシーは12台だから, 青色タクシーの割合は12/29=41.3%である.
41%という確率を見て,意外に小さいと思う人が多い(つまり,もっと高めに見積 る人が多い).目撃証言には価値がないんだと思いやすいが,目撃証言の価値は 考えようである.目撃者が色を証言しなかったら,青タクシーがひき逃げをした 確率はバックグランウドの割合(事前確率)の15%になるので,目撃証言によって, より青タクシーがひき逃げをした確率が高まっている.
正答率が低くて問題になる(つまり事前確率の軽視により判断を誤る)のは,たと えば医者の場合である.診断結果が陽性とでても,偽陽性の可能性があるかどう か,その可能性はどれくらいか,医者が正しく理解し,それを患者に伝えるかど うかである.たとえば乳癌で,バックグラウンドで乳癌になっている人の割合 (ベースレート;事前確率)が1%(百人に一人)で,診断で正しく判定できる確率が 90%だったとする.乳癌の検診で,陽性に出た場合の本当に陽性である確率は?
あんがい低くなってしまう. それを医者が認識しておらず,したがって患者に も伝えていないという問題があるようだ(Calculated Risks; Gerd Gigerenzer による).このように乳癌の検診で,陽性と出たからといって直ちに悲観するこ ともない.しかし,事前確率の1%に比べると,ずいぶんと確率が高まっている ので検診によって,乳癌の疑いは強まった.
Gigerenzerは,下記のように主張している.
訴追者の誤謬とは「証拠が偶然一致する確率=証拠が一致し,かつ無罪である確 率」と見倣す錯誤(Thompson and Schumann; 1987; Balding and Donnellly; 1994; Nature)である.
「裁判長.これらの証拠,すなわち, 犯人を同じ性別,服装,背格好,靴のサイズ,車の色... すべてが偶然に一致する確率は1%であります. つまり,被疑者が無罪である確率は1%. いいかえると,被疑者が有罪である確率は100%-1%, すなわち,99%の確率で彼は犯人です」
非常に説得力があるやうに見えるこの論証,実は誤りである. この論証は訴追者の誤謬と呼ばれ,事前確率の無視に起因する錯誤である. これが誤りであることは,次のたとへでわかる.
例: ある人の性別が偶然,大統領と一致する確率は約50%であります. すなわち,残りの50%の確率で,ある人は大統領です.
ベイズの定理を使って考へると誤謬であることがわかる.また,この論証は帰属 の誤謬を含んでゐる.Gigerenzerにならって自然頻度で説明する.
その事件を犯すことができる人が一体何人ゐるのか,わからない(または知って ゐるけど伏せられてゐる)ことが問題である.潜在的には1000人ゐたとする.こ の場合,証拠が偶然に一致する人は1000人の1%なので,10人ゐることになる. 犯人は,この10人の中にはゐないので,証拠が一致する人は11人ゐることになる. さうすると,ある人が犯人である確率は1/11となり,10%未満になってしまふ. 99%の確率ではない.
例:DNAしか証拠がない非常に証拠の乏しい事件があったとする. 警察は,とにかく被疑者をひとり特定した.DNAからどの程度の確率で犯人と推定できるだ らうか?
「被疑者とDNAが偶然に一致する確率は100万分の1」といふ発表(命題)を聞くと, 100分の1の確率で被疑者は無罪だといふ推測をしてしまひがちである(断定に近 いかもしれない).しかし,証拠がDNAだけしかないならば,潜在的な被疑者の数 (背景情報)は,国内にゐる人全てになってしまふ.人口と仮に1億人とすると, 母数は1億人*100万分の1=100人になる.さうなると,被疑者が犯人である確率は 101分の1になる.ここまで極端なことを持ち出さなくても,潜在的な被疑者の数 をもっとありさうな数,ある都市の人口程度,50万人という"少ない"数まで絞り こめたとしても,0.5人は偶然に一致する人がゐる.そうすると,DNAが一致する のは,1(犯人)+0.5(偶然の一致)=1.5人になるので,被疑者が犯人である確率は 1/1.5=2/3, 約66.7%の確率である.
もしDNAしか証拠がないとしたら,背景情報は非常に漠然としてゐるので事前確 率(ベースレート)が低くなる.そのため,たとへDNAが一致しても証拠としての 強さは人が「100万分の一」という言葉でイメージするよりはるかに乏しい.し かし,もし,「犯人は,この中100人のうちの一人です」といふところまで背景 情報を明確にできたら,非常に強い証拠になる.
「訴追者」といふ名前がついているのは偶然ではない.この錯誤は,できる だけ有罪にしたい(確率を高く見積りたい)側が陥いる錯誤である.
帰属の誤謬は特徴の一致と,その特徴が帰属する事物を混同する誤謬である.
十分条件と必要条件の混同による錯誤「月の石と同じ組成をもつ石は月の石か?」 を思ひ出してほしい.どれだけたくさんの証拠がある事物と一致したからといっ て,それらの証拠の帰属者がその事物を一致するとは限らない.帰属の誤謬は論 理学的には無限個の証拠でも成りたつ.なお,帰属の誤謬を数量的,確率論的に 考察したのがベイズの定理である.
たとへば,髪型は被疑者と一致する,血液型は被疑者と一致する,服装は被疑者 と一致する,背格好も被疑者と一致する,人相も被疑者と一致する...これを, どれだけ積み重ねていっても,被疑者が犯人だとは断定できない.たとへば極端 な話,被疑者には双子がゐたとしたら,被疑者を犯人とは特定できない.そこま で極端でなくても,同じ条件を見たす全く別の人物がゐてもいい.この可能性を 排除するためには同じ条件を満す人がほかに存在しないことを証明しなければい けないが,不在(ゐないこと)の証明は非常に困難である.
ミステリーや小説,映画などで,犯人のアリバイや重要人物の二重人格の理由 (オチ)として双子や影武者,クローンが陰で活躍してゐた,といふのがある.オ チとしての出来はよくない(ずるく感じる,意外性にかける,作者が伏線を膨ら ませたが最後になってオチに困って思ひついたやうに見える等の理由で)が,帰 属の誤謬を認識させる上では参考になる例かもしれない.
神はゐるかゐないかの二通り.であるから,神は1/2の確率で存在する.
無差別の原理とは,確率や割合が一切わからない(背景情報がなにもない)時のベー スレート(事前確率)は,選択肢の数で平等に(無差別に)分配される,といふもの である.たとえば,子供の父親が「某」であるかどうかは,「某である」, か,「某でない」かの二通りなので,50%の確率で某が父親である,といふ論 理のことである.
この原理には問題がある.つまり,「某」と,「某以外全員」が同じ扱ひになっ てゐることである.なにが問題か? 命題を少し変形させて,父親候補に「ナニ ガシ」と「ソレガシ」がゐる場合,可能な選択肢は,「ナニガシが父親」,「ソ レガシが父親」,「それ以外」が父親の3通りであるから,「ナニガシが父親で ある確率」は1/3になる.
このように選択肢が複雑になったことでナニガシ(某)の確率は低められる.逆に, 選択肢を単純にすれば確率は高く見積れる.これには悪用の危険がある.たとへば, 自分が犯人でないことを印象づけたければ,他にも犯人の候補者を列挙すればよ い(「あいつかもしれない,こいつかもしれない,いや,お宅だってあやしい...」). 被疑者を犯人であると印象づけたければ,「犯人は被疑者か,それ以外の誰か」 といふ風に二者択一にもっていけばよい.このやうに選択肢の数を変更すること によってあるpropositionの信憑性が大きく変ってしまふ.であるから,無差別 の原理の適用は考察や検討の出発点とすべきであって,最後になって無差別の原 理で判断することは問題である.
これは錯誤ではないが,議論をしてゐてしばしば陥りやすい思考パータンである. 以下はParkinson(1956)による.
法則:些細な物事ほど重点を置きがちである.
たとへば,原子力発電所を立てるべきかどうかといふ議題はあっさり可決される ことが多い(らしい)が,一方,自転車置場をどうするかについては議論が紛糾する,とい ふ(Parinson, 1956, Parkinson's law, and other studies in administration).
大抵の人(会議に呼ばれる高名学識のある人であっても)は,原子力発電に関係す る高度に専門的で技術的な問題を正確には把握してゐないので,そもそも議論・ 質問すらできない(出席してゐるだけ).声の大きい小数の人が議事を進行してい きつつ,他の人達は,しかるべき人がしかるべき議論をしてくれてゐるものだと 思って静観する17.かくして,小数の人の意 図どおりにコトが進む.一方,自転車置場の問題は誰でも気安く口を出せるし, 自分の存在をアピールしやすいため,様々な人が自分の意見を述べ,議論が収束 しない.自転車置場の屋根の色を赤色にするか黒色にするか,どっちでもいいよ うな問題である.が,どっちでもいいだけに結論が出ない.
法則の言ひ換へ:トリビアな話題ほど熱中してしまふ.
なお,パーキンソンの法則と普通に言ってゐるものは,「仕事は,もてる資源 (時間も含め)をすべて使ひ切ったところで完成する」といふものである.たとへ ば,締切ぎりぎりまで仕事せずに,手前で打ち切りすることも理論的には可能な はずであるが,締切ぎりぎりまで根を詰めて仕事をしてしまひがちである.また, 「本棚が一杯になるまで本を買い込んでしまふ」とか「どんなに大きなハードディ スクを買っても,一杯になるまでためこんでしまふ」といふのもこれに相当する.
どちらも出典は.Parkinson's Law (C. Northcote Parkinson, 1958)による. BSD(unixの一派)ではこれを bikeshed (any colour will do)といふ.
これまで正しい推論を妨げるものについて紹介してきた.正しい推論を妨げるも のと正しい推論を推進するものとは互いに補ふ関係にある.片方を詳細に見るこ とで,もう片方も理解することができるのである.われわれは間違った推論に興 味があったのではなく,正しい推論をしたいからこそ,正しい推論を妨げるもの について考察してきた.最後に正しい推論について的確に述べてゐると私が思ふ Siddhttha Gotama(Pali; Siddhrtha Gautama in Sanskrit; 邦文では釈迦, 敬意を込めて釈尊,いはゆる佛陀;これらのdhのaはmacroned aである.PDFでは印字されるがHTML では印字されないかも)の逸話を紹介する(with modified18).
何をもって信ずればよいのか? ある国の貴族が釈迦に問ふた.
釈迦はこれに対して:
伝統的に,あるいは我々の文化でこれまで正しいと信じだれてきたからと云って, それが正しいと思う必要はない.あるいは
これは当家で代々伝わってきたことだからという理由で信じる必要はない.また,
テレビでいってゐるから,新聞に書いてあるから,王が云ふから,大臣が云ふから, 偉い人が云ふからといふ理由で信じる必要もない.
教科書にあるから,聖典にあるから,本にあるからといふだけで信じる必要もな い.
理屈があってゐる,合理的だといふだけで信じる必要はない.
道義にあってゐる,論理が成り立ってゐるというだけで信じる必要もない.
証拠があると人が云ふからといって信じる必要もない19.
人の話す言葉もそのまま信じる必要もない.
自分の意見にぴったしだからといって,あるいは,なんの躊躇もなくサクっと納得できる からといって信じる必要もない.
みんながさう云ふからといって信じる必要もない.
それが当然だからと安易にものごとを信じるな.最後に,
私(佛陀)が云ふからといって信じるな.
証拠に基づいて自分の中にある智慧で理解したことを信じるのがよい.
準備中 - possiblly most useful section in this manuscript.
この文書はLaTeX2HTML 翻訳プログラム Version 2002-2-1 (1.70)
Copyright © 1993, 1994, 1995, 1996,
Nikos Drakos,
Computer Based Learning Unit, University of Leeds,
Copyright © 1997, 1998, 1999,
Ross Moore,
Mathematics Department, Macquarie University, Sydney.
を日本語化したもの( 2002-2-1 (1.70) JA patch-1.6 版)
Copyright © 1998, 1999,
Kenshi Muto,
Debian Project.
Copyright © 2001, 2002,
Shige TAKENO,
Niigata Inst.Tech.
を用いて生成されました。
コマンド行は以下の通りでした。:
latex2html -local_icons -accent_images textrm -split 0 fallacies_euc.
翻訳は tuzino によって 平成27年8月16日 に実行されました。