テキストは 「寺田寅彦随筆集第四巻」[小宮豊隆編:岩波文庫:岩波書店]に収録されています. また,青空文庫 http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2359_13797.html においても閲覧で きます.青空文庫の寺田寅彦のページもご参考ください.
科学者になるには「あたま」がよくなければいけないか,もしそうなら,
どの程度,そしてどういう内容の「あたまのよさ」が必要か.
正しい直観を得,緻密な論理を構築する能力が必要という意味では「あたま」の よさが必要だが,目先が効く「あたま」のよさ故に,わかった気になって研究し なかったり,完璧主義に陥ってまとめられなかったり,自分の「あたま」のよさ を過信して,おもしろいものを見落とすことがある.かえって愚鈍な人のほうが 学問の進歩に貢献することが多い.
PFドラッカーが同じようなことを別の分野,別の言葉で述べている.筆者なりに 咀嚼して言うと,「将来予想は,たとえどんなに頭のよい人が考えたとしても, あてにはならない.たとえば,技術革新は社会の未来を大きく左右するが,未来 にどんな技術が進歩するかは予想できない.なぜなら,未来に得られるであろう 技術は今ないからである.もし今,どんな技術が得られるのか確実にわかるのな らそれは未来ではない」
自分の頭で考えていることは当然ながら自分が知っていることを根拠に 組み立てられている.しかし,自然についても社会についても自分あるいは人間 が知っていることより,知らないことのほうがずっと多い(知らないことは,ど れだけ知らないかも定量できないから比較にならないかも).知らないことが多 いのに,知ったことだけで断定するのは,論理的には正しくないし聰明とは言え ない.(もっとも,知らないことが多いけれども知ったことだけで判断しないと いけないのは当然であるが,判断するというのと決めつけるというのは雲泥の開 きがある)
さて,上記の欠点を超克した意味(つまり,わかった気にならない,完璧主義で はない,過信しない等)での「あたまのよさ」が,ほんとうの「あたまのよさ」 であって,科学者は「あたまのよさ」が必要なのだと主張する人もいるかもしれ ない. しかし,そういう命題はトートロジーになってしまって意味をなさない ので本稿では「あたまのよさ」を寺田の限定した意味で用いる.どうしてトート ロジーなのかについては,自分ではどうしたらいいかわからないことについて上 司に指示をあおいだ時に「適切に対応しろ」といわれたらどうか考えてみるとよ い.どんな人も自分が適切でないと思った対応はしない.全ての対応は--少なく とも当事者にしてみれば--それが適切と思ったか,それしか選択肢がなかったか のどちらかである.「適切に対応しろ」というのはなにも部下に指示していない. 科学者として必要な「あたま」のよさを備えていることは科学者として必要なこ とに決っているので,なにも読者に伝えない.
いくつもおもしろい言い回しがあるのだが,厳選して紹介する.
いわゆる頭のいい人は、言わば足の早い旅人のようなものである。人 より先に人のまだ行かない所へ行き着くこともできる代わりに、途中の道ばたあ るいはちょっとしたわき道にある肝心なものを見落とす恐れがある。頭の悪い人 足ののろい人がずっとあとからおくれて来てわけもなくそのだいじな宝物を拾っ て行く場合がある。
頭のいい人は見通しがきくだけに、あらゆる道筋の前途の難関が見渡 される。少なくも自分でそういう気がする。そのためにややもすると前進する勇 気を阻喪しやすい。頭の悪い人は前途に霧がかかっているためにかえって楽観的 である。そうして難関に出会っても存外どうにかしてそれを切り抜けて行く。ど うにも抜けられない難関というのはきわめてまれだからである。
楽観は重要だと思う.できるだろうと思うことは,研究を進める上で必要条件だ と思う.というのは,人間はできないと自分で思うことをすることはできないか らだ.ただ,まったくできもしないことをできると思うのは違う.
頭のいい人は批評家に適するが行為の人にはなりにくい。すべての行為 には危険が伴なうからである。けがを恐れる人は大工にはなれない。失敗を こわがる人は科学者にはなれない。科学もやはり頭の悪い命知らずの死骸の山の 上に築かれた殿堂であり、血の川のほとりに咲いた花園である。一身の利害に対 して頭がよい人は戦士にはなりにくい。
これは言い得て妙である.
頭のいい人は、言わば富士のすそ野まで来て、そこから頂上をながめただけで、 それで富士の全体をのみ込んで東京へ引き返すという心配がある。富士はやはり 登ってみなければわからない。
寺田は東京の人だから,東京に引きかえすと考えたのかもしれないが, 京都からわざわざ富士まで来たのなら,すそ野まで来て頂上を眺めて富士を知っ た気になって引きかえしたりはすまい.
世間の人は「科学者になるには『あたま』がよくなくてはいけない」と思ってい
る.これは,ある観点からは正しい.同時に「科学者はあたまが悪くなくては
いけない」という命題も,ある観点からは正しい.この二つの相反するかに見え
る命題は,「あたま」の内容の曖昧さに由来する.
論理の連鎖のただ一つの輪をも取り失わないように、また混乱の中に部分と全体 との関係を見失わないようにするためには、正確でかつ緻密な頭脳を要する。紛 糾した可能性の岐路に立ったときに、取るべき道を誤らないためには前途を見透 す内察と直観の力を持たなければならない。すなわちこの意味ではたしかに科学 者は「あたま」がよくなくてはならないのである。
しかしまた、普通にいわゆる常識的にわかりきったと思われることで、そうし て、普通の意味でいわゆるあたまの悪い人にでも容易にわかったと思われるよう な尋常茶飯事の中に、何かしら不可解な疑点を認めそうしてその闡明(せんめい) に苦吟するということが、単なる科学教育者にはとにかく、科学的研究に従事す る者にはさらにいっそう重要必須なことである。この点で科学者は、普通の頭の 悪い人よりも、もっともっと物わかりの悪いのみ込みの悪い田舎者であり朴念仁 でなければならない。
ハイライトにいくつか紹介した.それ以外には...
頭のよい人は、あまりに多く頭の力を過信する恐れがある。その結果として、自 然がわれわれに表示する現象が自分の頭で考えたことと一致しない場合に、「自 然のほうが間違っている」かのように考える恐れがある。まさかそれほどでなく ても、そういったような傾向になる恐れがある。これでは自然科学は自然の科学 でなくなる。一方でまた自分の思ったような結果が出たときに、それが実は思っ たとは別の原因のために生じた偶然の結果でありはしないかという可能性を吟味 するというだいじな仕事を忘れる恐れがある。
頭のいい人には他人の仕事のあらが目につきやすい。その結果として自然に他人 のする事が愚かに見え従って自分がだれよりも賢いというような錯覚に陥りやす い。
一方,頭の悪い人は,他人の仕事のむつかしさがわからないから,自分もやっ てみようと思ってやってみる.
頭のいい学者はまた、何か思いついた仕事があった場合にでも、その仕 事が結果の価値という点から見るとせっかく骨を折っても結局たいした重要なも のになりそうもないという見込みをつけて着手しないで終わる場合が多い。
頭の悪い学者はそんな見込みが立たないために、人からはきわめてつま らないと思われる事でもなんでもがむしゃらに仕事に取りついてわき目もふらず に進行して行く。そうしているうちに、初めには予期しなかったような重大な結 果にぶつかる機会も決して少なくはない。
頭が悪ければいいかというとそうでもない.「予期しなかったような重大な結 果」を見てその重要性に気がつく頭がよさが必要だからだ.
ましな例
頭のいい人で人の仕事のアラはわかるが自分の仕事のアラは見えないと いう程度の人がある。そういう人は人の仕事を臭しながらも自分で何かしら仕事 をして、そうして学界にいくぶんの貢献をする。
悲惨な例
もういっそう頭がよくて、自分の仕事のあらも見えると いう人がある。そういう人になると、どこまで研究しても結末がつかない。それ で結局研究の結果をまとめないで終わる。すなわち何もしなかったのと、実証的 な見地からは同等になる。そういう人はなんでもわかっているが、ただ「人間は 過誤の動物である」という事実だけを忘却しているのである。
前者は,ピアレビューとして組織化すれば十分有用な資質だと思うが, 後者は,しばしば指摘されているとおり,組織にとっても個人にとっても悲惨な ことになる.おそらく本人が「人間は過誤の動物である」ということを自覚しな い限り解決はしないであろう.
私の好きなフレイズに
Sloppy authors rarely get published, - but perfect authors never do.
Every finished book contains something wrong.
All you have to do is
produce a manuscript which says something worthwhile,
says it well and is not sloppy.
Perfection is not the proper standard for authors;
an author's should be `my best work at this time.'
---Jerry Weinberg
というのがある. 科学的法則が経験的に十全であればいい,というのと似て, 人が読むに足る以上の内容であればいいと考えている. 完全なものを求めているといつまでたっても世に出せない. 世に出すというより世に問うというのでいいでは? 書いものは自分から見て, 人が読むに足る以上の完成度があることが 書いた人の義務であって,書いたものをどう思うかは,読む人の権利.
頭の悪い人は、頭のいい人が考えて、はじめからだめにきまっているような試み を、一生懸命につづけている。やっと、それがだめとわかるころには、しかした いてい何かしらだめでない他のものの糸口を取り上げている。
賛成.ただし,最後に得られる糸口は,頭のいい人も悪い人も当初には予想しな かった,まったく別種類のものの糸口であることが多い気がする.もっとも,最 後の糸口にたどりつくまでに諸般の理由で挫折することも多いと思う.
一方ではまた、大小方円の見さかいもつかないほどに頭が悪いおかげで大胆な実 験をし大胆な理論を公にしその結果として百の間違いの内に一つ二つの真を見つ け出して学界に何がしかの貢献をしまた誤って大家の名を博する事さえある。し かし科学の世界ではすべての間違いは泡沫のように消えて真なもののみが生き残 る。それで何もしない人よりは何かした人のほうが科学に貢献するわけである。
寺田寅彦も指摘しているが,これはなんでもメチャメチャなことを言えばよい (どれかは当たる),ということでは決してない.愚直にデータを見,そこから導 かれる結論がどんなに奇妙なものであっても,それがもっとも自然をよく説明で きる仮説なら,それは公表に値するということである.
自然の神秘の扉への糸口とは,
はじめからだめな試 みをあえてしなかった人には決して手に触れる機会のないような糸口である場合も少なく ない。自然は書卓の前で手をつかねて空中に絵を描いている人からは逃げ出して、自然の まん中へ赤裸で飛び込んで来る人にのみその神秘の扉とを開いて見せるからである。
畢竟,
頭のいい人には恋ができない。恋は盲目である。科学者になるには自然を恋人としなけ ればならない。自然はやはりその恋人にのみ真心を打ち明けるものである。
科学の歴史はある意味では錯覚と失策の歴史である。偉大なる迂愚者の頭の悪 い能率の悪い仕事の歴史である。
研学の徒はあまり頭のいい先生にうっかり助言を請うてはいけない。きっと前途 に重畳する難関を一つ一つしらみつぶしに枚挙されてそうして自分のせっかく楽 しみにしている企図の絶望を宣告されるからである。
頭のよい人を見て,しばしば残念に思うのは,頭のよい人にはdiscouraging な人が多いことだ.頭のよい人にコテンパンに難点を指摘されても,実際やってみると,
委細かまわず着手してみると存外指摘された難関は楽に始末がついて、指摘され なかった意外な難点に出会うこともある。
ということはよく目にする.知っていることより知らないことの方が何倍も多い ことを痛感する.
頭がよくて、そうして、自分を頭がいいと思い利口だと思う人は先生に はなれても科学者にはなれない。
私はこれには賛成できない.というのは,頭の悪さを理解できない人は人にモノ を伝えることができないからである.頭のよい人は,理解の遅い人がどうして遅 いのか理解できないから「どうしてこんなこともわからないの?」というだけで 先生として役には立たない.
人間の頭の力の限界を自覚して大自然の前に愚かな赤裸の自分を投げ出し、そう してただ大自然の直接の教えにのみ傾聴する覚悟があって、初めて科学者にはな れるのである。
しかしそれだけでは科学者にはなれない事ももちろんである。やはり観察 と分析と推理の正確周到を必要とするのは言うまでもないことである。
つまり、頭が悪いと同時に頭がよくなくてはならないのである。
この事実に対する認識の不足が、科学の正常なる進歩を阻害する場合がしばしば ある。これは科学にたずさわるほどの人々の慎重な省察を要することと思われる。
それは、科学が人間の知恵のすべてであるもののように考えることである。科学 は孔子のいわゆる「格物」の学であって「致知」の一部に過ぎない。しかるに現 在の科学の国土はまだウパニシャドや老子やソクラテスの世界との通路を一筋で ももっていない。芭蕉や広重の世界にも手を出す手がかりをもっていない。
そういう別の世界の存在はしかし人間の事実である。理屈ではない。そういう事実を無視 して、科学ばかりが学のように思い誤り思いあがるのは、その人が科学者であるには妨げ ないとしても、認識の人であるためには少なからざる障害となるであろう。これもわかり きったことのようであってしばしば忘られがちなことであり、そうして忘れてならないこ との一つであろうと思われる。
この老科学者の世迷い言を読んで不快に感ずる人はきっとうらやむべきすぐれ た頭のいい学者であろう。またこれを読んで会心の笑みをもらす人は、またきっ とうらやむべく頭の悪い立派な科学者であろう。これを読んで何事をも考えない 人はおそらく科学の世界に縁のない科学教育者か科学商人の類であろうと思われ る。