$date: Wed Feb 7 14:38:33 JST 2007
もの事の決定方法は,議論と多数決の観点から次の4種類に大別できる.
例:「ピタゴラスの定理とその証明」
「ピラゴラスの定理」については,「知っている」か「知らない」かのど ちらかしかない.これについては話し合いの成立する余地はない.また,「知っ ている」場合は,更に「証明できる」か「証明できない」かのとちらかに細分 できる.これらは厳密に区別でき,証明も論理的に正しいか正しくないか明確 に区別できる.論理を明確にするため議論する必要はあっても,多数決の必要 はまったくない.
議論:不要(あってもよいが本質的ではない)
多数決:不可(あってはいけない)
例:「私はどう生きるべきか」「人間はどう生きるべきか」
個人の問題に限定すれば人生相談になるし,一般的な問題として考へれば 哲学的な問題になる.これらは,議論の余地はあるが,議論によって答えが得 られる保証のない問題である.多くの場合,これらには答えは存在しないか, あったとしても当り前のことだったり,一般的なことだったりして問題に対し てquick-fix (てっとりばやく問題を解決)できるものではない.たとえば, 「人生はカネだよカネ」という答えをもらったとして,それで問題が解決しな い.むしろ,何時間も話を聞いてもらい,ずっと黙りこんだ後に「私にはわか らない」という答へをもらったほうが,その人の悩みが軽減されたり,問題に 近付けることもあるだろう.また,この問題は多数決によって決定することは できない.各々がそれぞれ自分の信念に従って,真摯に問い考へるという方法 以外,この問題でアテになるものはなにもない.
議論:必須(自問自答を含めて)
多数決:不可(あってはいけない)
例:「今年の芥川賞は誰にするか」
この問題は,まず第一に各人が意中の人を候補として挙げるべきである. そして,「どうしてその人が芥川賞に相応しいのか」について合理的な reasoningをする必要がある.なぜかというと,賞を与へるというのは,単に 好きだからということとは違う.自分は某が賞に相応しいと考えるだけでなく, 他の人も某が受賞するに値すると考へるべきだ,という主張を含んでいる.そ のためには他の人に対して論拠を示して某が受賞に相応しいということを論証 すつ必要がある.そのため,議論は絶対必要である.しかしながら,論証はい つでも完全ではないし,自分も相手も間違い得る存在で,意見が収束しないこ ともしばしばあるだろう.その時には多数決で決めるべき事柄である.
議論:必須
多数決:必須
例:「楽団が次回の演奏会で演奏する曲はどれにするか」
この問題は各人の希望をそれぞれが主張すればよいだけで,各人がどうし て自分はそう希望するかについて合理的なreasoningをする必要はない.また, できない.個人が何を好きかはまったくの自由で理由など必要ないし説明の必 要もない.「母を愛するのに理由はない(ピーターフランクル)」のである.た だし,集団として一つのことに決めなけれないけないが,それぞれの主張が平 行線を辿る場合,多数決によってもの事を決めることができる.
議論:不要(あってもよいが本質的ではない)
多数決:必須
科学的問題は上記のどの問題に分類できるだろうか? 科学的問題は,数学 的問題ほど厳密に真偽を決せられない.かといって,話し合いで決める内容で は決してない.もちろん,議論は考察を深める上で望ましいものであるが.多 数決では決せられない.
もし多数決で決めるとしても,それはたとえば雑誌(ジャーナル)に掲載す るかしないかを決するのであって,科学的命題の真偽を決めるのではない.こ の場合,雑誌に掲載するかどうかは,社会的意志決定問題と見倣すことができ る.雑誌というのが一つの社会(コミュニティ)を形成しているのである.同様 の手続きにプロポーザルを採択するかしないの意思決定もある.また,ある学 説が定説になるかどうかも,社会的意思決定の問題と見倣すことができる.こ れらの場合では,論拠(議論)と多数決が有効な意思決定の手段であり,社会的 営みで遭遇する意思決定の問題である.ただし,科学は定義により,完全に社 会的営みのみで決定されるものではない.自然をどれだけよりよくモデリング しているかという重要な判別式がある.どれだけ社会的に認められた通説であっ ても,それよりもよりよい学説が表われば,それが社会的に認められなくても, その学説は科学的問題を解決した(解決に近付けた)ことになるのである.つま り,そこでは,
科学的問題≠社会的意思決定問題である.
一方,科学は社会とは別に個人の問題(信念)もあり,科学的問題は社会的 側面と個人的側面の二種類があることがわかる.
では,科学者が個人として遭遇する問題は,ある仮説(命題)を正しいと考 へるか間違っていると考へるかという信念問題である.この問題は証拠立てで 論拠に基いて判断する問題であるものの,本質的には多数決では決められない. 本人が真剣にその問題に取り組む以外に道がない.その点で,哲学的問題に近 いものがある.ただし,その人個人の中で,証拠の強さを定量(評価)して,証 拠の強さの多数決で命題の真偽を推定することもできる.しかし,この推定は 無謬な判定とは違う.たとえば,命題Aを示唆する証拠の強さの総量が90とし て,Aを否定する証拠の強さが10あった場合,命題Aは確からしいとは云へても, 命題Aが正しいとは云へない.科学的問題は個人においても証拠の多数決では 決められない(推定できるだけ.これが数学的問題と大きく異なる)が,調査・ 研究してもなにもわからないということではなくて,調査・研究しただけのこ とは,わかるし,確からしさも強まる.
このやうに個人における科学的問題は,哲学的問題兼社会的意思決定問題 (ただし社会=個人)の組合せと位置づけることができる.