Why writing textbooks is so important?


辻野 匠(Taqumi TuZino --- personale familie)

現在の日本では,教科書を書くことは論文を書くことよりも価値が低いと 考へられてゐる.論文を仕上げるのも大変だが,教科書を書くことも労を要す. 実際,労力で割り算すると教科書を書くことは組織による個人評価にとっては割 にあはない.だから,教科書を書いている暇があれば論文を書くべし,といふ人 さへゐる.

しかし,本当にさうだろうか? 個人評価で覚え目出度いかどうかはともかく, 学問全体を発展させるためには逆ではないか? ここではどうして教科書を書く ことが重要なのか簡単に述べたい.私見では,現在の日本の科学技術をとりまく 状況を考へると,よい教科書を書くことはよい論文を書くことよりも重要であり, したがって評価等で,教科書を低い評価に落しめることは日本の学問に発展に望 ましくないと考へる.

学問は進めば進むほど,どんどん分野が狭まっていく.推論すれば誰でも わかるように,さうなると自分の学問を理解してくれる人がどんどん減ってい く.隣りの学部,隣りの建物,いや隣りの研究室,ひいては同室でも,互いに 何をやっているのかもわからなくなってくる.こんな状況では後進だって育た ない.なにをやっているのかわからないのに,それが面白いかどうかもわから ないからだ.これが現在に日本の科学技術をとりまく状況である.ここでは, これを学問の重厚長大・細分化による閉塞状況といふことにする.

これを打開するためには研究を総括し,概説化することである.概説化にも色々 なレベルがあり,第一には小学生から高校生までの児童生徒や専門外の市民を対 象とした,これまで啓蒙といわれてきたレベルがある.この人々に伝えることは, 新世代を獲得するために必要である.どんな人も100年もすれば確実に死んでし まふ.受け継ぐ人がゐなくなればどんな立派な学問も打ち捨てられる.更に,学 問は税金を営まれることが殆どである.税金を払った人たちに学問を成果を伝へ ることは代金を受けとってちゃんと納品するくらい重要である.そして,市民と いふのは,時に人の親である.

第二のレベルは大学生レベルである.必ずしも専門としてゐないが,専門に近い 人達である.このレベルはまだ分野が定まってをらず,大学の潜在的に広い交友 関係を生かせれば広い視野をもち得るので,この段階で様々な学問分野を吸収で きるやうに,よい教科書を準備しておくことは彼らにとっても我々にとっても重 要である.大学生の全てが勉強熱心であるわけではないし,またさうである必要 もないが,大学生は学問を修めに入学してゐるのであるから, 学問としては最 低限,彼らに影響を与へられなければならない.

第三のレベルはほぼ同僚といってもよい,プロの研究者を対象する.他の 学者が最先端の研究をどうやってゐるのかを知らないでゐることは,自身の研究 や学問全体にとって非常な損失である.現在は専門が細分化してしまってをり, 余所の分野の細部にわたってなにをしてゐるのか,詳細に把握することは時間的 にも能力的にもキツいものがある.だからといってそれを怠ってゐると,狭くて 深いタコツボに落ち来んで,それから這い上れない.学問の重厚長大・細分化に よる閉塞状況である.なぜ,閉塞状態になるのか?

その原因のひとつはアイディアの枯渇である.G. M. ワインバーグは「コンサルタントの秘密」「スーパー エンジニアへの道」などで,アイディアについて興味深い考察をしている.氏は アリストテレスの

It is not once, nor twice, but times without number that the same idea makes its appearance in the world.
あるアイディアがこの世にあらはれるのは,一度ではない,二度でもない.同じ アイディアが何度となくあらはれるのだ.(拙訳)
を引用し,アイディアの遍在性・応用性について述べている.要約すると,
「新しい」アイディアとは---実際は---ある分野のアイディアが別の分野でうま く適用されたものだ.

アイディアは土壌と同じで,同じところで同じことをしてゐると枯渇するもので ある(土壌ではこれを連作障碍といふ).だからせめて,タコツボではなく塹壕に しなければならない.タコツボと塹壕の違ひは,それが閉じてゐるかどこかに繋 がってゐるかである.どこかと繋がるために,学者として有能な人にほどよく簡 略化された教科書を書いてもらわなければいけないのである.現在では,普通に 有能な学者であっても少し分野が離れた論文を読みこなせないのである.よい教 科書があれば,近接分野の論文を読めなくても,近接分野やかなり畑違いの学問 でも大体の理解ができる.

これまでは教科書を書くのはリタイアした教授で,啓蒙書はサイエンスライター の仕事だと考へられてきた.もちろんその人達の貢献は重要である.私は彼らに 加へて,学者として有能な人を起用することを主張したい.なぜか?それは,最 先端の分野の簡略化といふのは,研究してゐない人には実状が理解しがたいもの であることから現役の学者であることが重要で,話をダラダラ書くよりもズバっ と簡略化するはうが何倍も難しく,有能さの必要な作業だからである.

この作業はこれまで誤解されてきたと思ふ.これまでは,教科書や啓蒙書を書く ことは学者としての有能さは必要ないと考へられてきたフシがあると思ふ.であ るから評価も低かったわけである.個人的な話になるが,私が学生時代私淑して いた植物分類学の先生が書いた図鑑にコメントが書いてあった.コメントの主は その人の先輩研究者で,内容は「本を書くくらゐなら,論文を書け」といふの意 見である.その図鑑がなかった今の私はない,とまでは云はないが,その図鑑が なければその分野は層が薄くなってゐただらう.定量化できないから貶められて ゐるだけで,ちゃんと定量化できたらその影響力が非常に大きいだらう.私から すれば図鑑を書くことは論文を書くこと以上に影響力のある,したがってスゴい 仕事であって,学問にも社会にも貢献してゐる.

どんな凄いことであっても,それを理解してくれる人ゐて,はじめて 意味をもつことはいふまでもない.

誰がさういふ人を育てるのか? そして,育てる人に冷笑で報ひるのか,相応の 処遇で報ひるのか.これは単なる人道主義ではない.逆を考へてみよう.論文 を書く人を評価し,教科書を書く人を冷遇することは後進を育てるな,学界の発 展を心配するな,とふメッセージを出してゐるのに等しい.こんな環境では,い づれ学界は衰退してしまうだらう.論文を書く人だって学界の一員である.

(よい)教科書を書くことは学問の重厚長大・細分化による閉塞状況に陥ってゐる 今,学問と社会の健全な発展を期成するための方法である.安直だからと今のま ま,教科書著者冷遇を続けてゐて,今後どうなるか考へてもらいたい.それは來 るかどうかわからない未来の話ではない.今そこにある未来である.

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アリストテレスのアイディアについての格言について匿名の読者から出 典に関する質問を受け,検討したところ,文言を修正した.なお,この格言はOn the heavens 1-3と思はれる.(2011-03-07)