とこしへの假名遣(常陛假名遣)

-- the Name of diachronic Kana orthography, so-called traditional Kana orthography

辻埜匠ゝ(TUZINO Taqumi ; famillia personale)

MMXII Humituki-12 起筆
MMXIII Yayohi-11 誤字・文言修正

ここでは,いはゆる舊假名(旧仮名)の名称として とこしへの假名遣といふ名称を提示する.
「とこしへ」は漢字では「常し辺」「常し方」と宛てられるが,私は,「常陛」と宛て ることを提唱したい.

「とこしへ」とは,永遠・磐石といった意味である.語源あるいは語構成は 次のやうである.

・「とこし」は「常し」(形容詞シク)であり「いつもある」といふ意, 「へ」は辺,あたり,あるいは方向を意味する.「常し辺」[新版 明解古語辞典,金田一京 助春彦監修,三省堂] 同じ著者による明解国語辞典では「常し方」とも.私見: シク形容詞なら連体形は「常き」となる筈だが,さうなってゐないのはどうして?
・床石上「とこいしへ」の意,磐石とこしへ(日本書紀の訓読にあり) [岩波古語辞典,大野晋・佐竹明 広・前田金五郎,岩波書店]

とこしへの假名遣を漢字で書けば,「常し方の假名遣」 「常し辺の假名遣」あるいは「磐石の假名遣」となる.大野他説では, 「常石」といふ漢字もあて得さうだ(個人的には「いし」より「いは」 のはうが好みだが,さうすると「常磐」(ときわ)になってしまう.). 古代(平安時代)より連綿と続いてきた日本語の基層を支へるものとして,ふさはしい名称と考へる.

漢字としては上で見てきたやうに,「常し辺」あるいは「常し方」などと宛てる ことができやう.「磐石」もあり得る.「へ」を「辺」で宛てるのは日本語では金石 文時代から常例のことだが,もともとの漢字の意義(道に晒した死体)は別として も,「水辺」「山辺」「海辺」等々と一緒で,まったく私の好みだが重厚感に欠け ることを懸念する.「常し方」だと,「方」で「へ」と訓ずるのがむつかしい. 「磐石」はかなり意訳が入ってゐるので,直感的に理解がむつかしい上,既に 「ばんじゃく」といふ訓がある.それこそ「常磐」のはうがぴったりだが, 「常磐」には既に「ときわ」といふ訓がある.

万葉假名でば,「へ」に「陛」を宛てることがある(「陸」については橋本進吉 の論考「国語の音節構造と母音の特性」がある).これは甲類エで,一応は「辺」 と同音になってゐる.実例として,たとへば,次の萬葉集の一首がある.

伊母我陛邇 由岐可母不流登 弥流麻提尓 許ゝ陀*母麻我不 烏梅能波奈可毛
     小野氏国堅---(*陀は正しくは,陀の扁に,施の旁からなる)
いもがへに ゆきかもふると みるまでに ここだもまがふ うめのはなかも
大意:愛しい人の家に 雪が降ってゐるのかもと 見間違へてしまふほどに  梅の花が散ってゐるのですね.
「へ」を「陛」に宛てるのはあまり多くはないらしい.「陛」が重すぎるからで あらうか(説文解字には升高階也とあるが,普通は特別な高さを意味する).画数 かもしれない(笑).この「陛」を遣って,「とこしへ」を標記すると,「常し陛」 あるいは「常陛」になる.まったくの個人的感性であるが,「常陛」はそれなり に重厚感があっていい.「磐石」にも似た,泰山然として動かないイメージが 「陛」の漢字にはある.「し」の送り假名はないはうがよい.読めないかもしれ ない,しかも「常陛」は「常陸」(ひたち:ひたかみち)と紛らはしい.が,まっ たく感性の問題として「常陛」はそれを補って余りある(笑).ということで, 「とこしへ」の漢字標記を「常陛」としたい.

呼称「歴史的假名遣」について

いはゆる舊假名は学術的には歴史的假名遣と呼称されるが, 「歴史的」の意味が曖昧なのでここでは採用しない.たとへば,江戸時代には ハ行転呼でないところにハ行を書いたり 「ショウ」といふ発音のところをデタラメに「せう」とする なんちゃって假名遣が横行した. 前者の例は「さふいふはけだ/(正)さういふわけだ」, 後者の例は「せうばいはんぜう/(正)しゃうばいはんじゃう」(商売繁盛)などである. それでも意味は通じたし,それはそれでよい. ただ,さういふなんちゃって假名遣が歴史的に存在したからといって,それを「歴史的假名遣」 といふべきではない.が,歴史的といふ名称は,なんちゃって假名遣も含んでしまひかねない.
 ところで,文法には規範文法と記述文法といふ二つの側面がある. 江戸時代に横行した,なんちゃって假名遣は,実際さうなってゐるのだから記述文法的側面としては 「歴史的假名遣」の範疇に入り得る.しかし, ここで問題にしてゐるのは規範としての「歴史的假名遣」なのである. 一般には単に歴史的仮名遣といへば,「規範」としての歴史的仮名遣の筈であるが, なかなかさういふ認識は広く共有されてゐない.
 また,歴史的に規範として通用した期間が長いのは定家卿(あるいは行阿)の假名遣であって,契沖を始祖とするそれではない.

呼称「契沖假名遣」について

現在,(規範として)歴史的假名遣とされてゐるのは 契沖の実証的文献調査が発端である.かといって これを契沖假名遣といふこともできない. なぜなら後の研究の結果,契沖の説は修正を受けてゐるためである. 人名を関する名称の場合は,修正を受けた時に, 名が指す先が前のか後のか,曖昧になる.契沖が16XX年に提唱した個々の假名遣 を指すのか,契沖が提唱した假名遣の理念を指すのか. 契沖一代で復元されてゐるのであれば 契沖假名遣といっても曖昧さはないが,さうではないので, 契沖假名遣とは契沖が到達した假名遣のルール集を指し,理念は別にしたい. その意味ではこの理念に基づく名称は復古假名遣とするのが適当な名称と考へてゐる (なにを復古したのかやっぱり曖昧さが残るが).

呼称「旧仮名遣/舊假名遣」について

もちろん,舊假名といふのも「戦前」と同じくらい曖昧な名称なので使へない. 京では應仁の亂(応仁の乱)の前が戦前である. 今だって次の戦争の戦前になるかもしれない.
 つまり,舊假名は,古ければなんでも舊假名になってしまいかねないので, これも採用しない.たとへば,「究極超人あ〜る」といふ漫画においては 「ごきげんやう」といふ假名遣?が提示されるが, いはゆる舊假名(正しい舊假名?)では「ごきげんよう」である. これは「ごきげん」+「よく」の「く」が音便で「う」になったものだからである. かういふものも「舊假名」は含みかねない. 曖昧さを排除するために,かかる名称は用ゐないことにした. ※ちなみに,「おはやう」は「おはやう」が正しい.「おはやくおなりですね」等の略語だからである.

通時的假名遣や汎時的假名遣,傳世假名遣あるいはdiachronic Kana orthographyといふ呼称について

通時的假名遣や汎時的假名遣とふ呼称もある.これは,diachronic orthography の訳語で あらう.diachronicとは言語学である言語において時間を越えて,といふ意味である(<Greek, dia = through, chron = time). 「とこしへの假名遣」も常し方(時を越えたところ)の假名遣とふ意味で あり,同じ立場にたってゐる.他,傳世假名遣とふ呼称も同列としてよいかもしれない(結果として伝世したというニュアンスが含まれるが). これらは,「とこしへの假名遣」の漢語的表現といってもよい.

呼称「整假名」について

常陛假名遣は個人の感性であるが,非常に整ってゐる.それで整った假名とふこ とで整假名といふ云ひ方もあるかもしれない.もちろん,「整ってゐない」と思 ふ自由はある(勿論,「とこしへ」にも用字「常陛」にも).