\title{「邪悪なものの鎮め方」(内田 樹著)抜き書き}
\author{辻埜匠}

假名遣は常陛假名遣に改めた.漢字の用事はそのまま(配列を排列とは改めなかった)

扉のフォントが変ってゐる.明朝ではなく書法にある字に似せてゐるし,
ところどころ康煕字典体になってゐるが全てではない.

康煕字典体のもの「邪」「派」「害」「器」「殺」「全」「肩」

さうではないもの「悪」「数」「教」「読」「要」「霊」「者」「号」「体」「変」
「闘」「構」「権」「両」「剣」「効」「視」「 独」「内」「神」「学」「条」
ツメは当用字体.シンニョウは1点の楷書.

両字体で微妙な差異の時のみ康煕字典体を使ってゐるやうにも見えるが,
それなら「教」とか「要」とか「者」とか「構」,「内」で
康煕字典体にしてもいい筈だが,さうなってゐない.単に趣味なのか.

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p.18 
正義を一気に全社会的に実現しようとする運動は
必ず粛清か強制収容所かその両方を採用するやうになる.

p.31
その「仕事」とは,選別の時点では
「死んだ人間」と「生き残った人間」の間に存在しなかった「差異」を
それからあとに長い時間をかけて構築することである.
言ひ換へれば,「私が生き残ったことには,何か意味があるはずだ」
といふ(自分でも信じてゐない)言葉を長い時間をかけて自分に信じさせることである.
だから,「生き残った人間」たちは「葬礼」を行ふことになる.

p.53
どうして自分の名前を三人称に置き換えて文章を書くことがたいせつなのか.
これについてはモーリス・ブランショが間然するところのない言葉を書き記してゐる.

\begin{quote}
「どうしてただ一人の語り手では,ただ一つのことばでは,
決して中間的なものを名指すことができないのだらう?
それを名指すには二人が必要なのだらうか?」
「さう.私たちは二人ゐなければならない.」
「なぜ二人なのだらう?どうして同じ一つのことを言ふためには二人の人間が必要なのだらう?」
「それは同じ一つのことを言ふのがつねに他者だからだ.」
(Pourquoi deux paroles pour dire une m\^eme chose? --- C’est que celui qui la dit, c’est toujours l’autre.」
Maurice Blanchot, Entretien infini, Gallimard, 1968, pp.581-2
\end{quote}

ブランショの最高傑作である『終はりなき対話』はついに翻訳されぬままに終はった.

p.55
実は最初に白紙に文章を書いてゐる「私」は,
時間を置いてそれをもう一度読み直し,
文字の間違ひを正し,事実誤認を訂正し,必要な情報の追加を
必ずしてくれるであらう「未来の私」の協力を
はじめから勘定に入れて書いてゐるからである.

p.79
宗教的体験はむしろ「話を複雑にする」ことによって私たちの思考力と感受性
を向上させる契機だからである.
宗教的体験を(否定するにせよ,肯定するにせよ)「シンプルな話型」
に回収することは人間の潜在的な力を開発する上で有害無益である.

宗教体験のもたらす最大の贈り物は,
それについて簡単な説明を自制することによって「人間の出来が良くなる」ことである.

p.81
「呪い」といふのは「他人がその権威や財力や威信や声望を失ふことを,
みづからの喜びとすること」である.

p.84
お互ひの学力を下げることに熱中しているうちに,
日本の子どもたちの学力は国際的に最低レベルまで下がってしまった.

これを是正するために,教育行政は「さらなる競争を」が必要
であることを主張しているが,競争圧力を加へれば,学力はさらに低下
するとことは避けがたい.
どうして教育行政がこのやうな単純な理路を見落すのかと言へば,
それは官僚たちが,彼ら自身「他人のパフォーマンスを下げること」を通じて,
今日の地位を得てきたからである.
そのやうな人々に「他人のパフォーマンスを上げる」方法について
妙案があるはずがない.彼らは自分たちが権限を行使しうる領域については,
人々が怯へ,萎縮し,卑屈になるためのアイディアしか思ひつかないのである.
そして,当の役人たちは自分たちが「そんなこと」してゐることに気づいてゐない.
これが「呪い」の効果である.

p.85
批評的言説はつねに「呪い」に取り憑かれるリスクを負ってゐる.
だから,私たちは絶へず自分の言動のうちに含まれてゐる「呪い」を「祓ふ」必要がある.

p.89
以前,精神科医の春日武彦先生から統合失調症の前駆症状は
「こだわり・プライド・被害者意識」と教へていただいたことがある.

p.89
統合失調症の特徴はその「定型性」にある.\\
「妄想」といふ漢語の印象から,私たちはそれを
想念が支離滅裂に乱れる状態だと思ひがちであるが,実はさうではない.
妄想が妄想として認定されるのは,それがあまりに定型的であるからである.

p.92
「被害者である私」といふ名乗りを一度行った人は,その名乗りの「正しさ」を
証明するために,そのあとどのような救済措置によっても,
あるいは自助努力によっても,「失ったもの」を回復できない
ほどに深く傷つき,損なはれたことを繰り返し証明する義務を負ふことになる.

p.97
人間性の暗部に触れることはしばしば人の心に回復不能の傷を残す.
といふか,それに触れてしまった人にしばしば生涯にわたって
回復不能の精神外傷を負わせるものを私たちは「人間性の暗部」と呼んでゐるのである.

p.129
「アメリカに従属する」ことを唯一の外交戦略だと信じてゐるような国を
「一人前」の国として遇するような国は存在しないという平明な事実
を痛苦に受け止めている政治家も外交官も存在しない
といふことが「日本が一人前の国ではない」ことの紛ふかたなき証拠であると私は思ふ.

134
(アメリカに非合理にも追従するのは)日本人が心の底から欲望しているのは
一度は「アメリカに心中立て」して死んでみせ,
そのあと亡霊となって蘇り,アメリカを呪ふ殺すことだからである.

147
「努力と成果は相関すべきである」というこの「合理的な」考え方が
モラルハザードの根本原因であるという事実について私たちはもう少し
警戒心を持った方がよいのではないか.
(略) \\
これは一見すると合理的な主張である.

けれども,「自分の努力と能力にふさわしい報酬を遅滞なく獲得する
こと」が100%正義であると主張する人々は,それと同時に
「自分よりも努力もしてゐないし能力も劣る人間は,
その怠慢と無能力にふさわしい社会的低位に格付けされるべきである」
といふことにも同意署名してゐることを忘れてはならない.
おそらく,彼らは「勝ったものが獲得し,負けたものが失ふ」ことが
「フェアネス」だと思ってゐるのだらう.

しかし,それはあまりにも幼く視野狭窄的な考へ方である.

人間社会といふのは実際には「さういふふう」にはできてゐないからである.
集団は「オーバーアチーブする人間」が「アンダーアチーブする人間」を
支援し扶助することで成立してゐる.これを「ノブレス・オブリージュ」
などと言ってしまふと話が簡単になってしまふが,もっと複雑なのである.\\
「オーバーアチーブする人間」が「アンダーアチーブする人間」を支援するのは,
慈善が強者・富者の義務だからではない.
それが「自分自身」だからである.
「あなたの隣人をあなた自身のやうに愛しなさい」といふのは
『マタイ伝』22章39節の有名な聖句である.

それは「あなたの隣人」は「あなた自身」だからである.

148
(勝つものが取るのが正しいと考へることができるのは)
自分がアンダーアチーブメントの状態になる可能性を(つまり
自分がかつて他者の支援なしには栄養をとることもできなかった幼児
であった事実を,
いづれ他者の介護なしには身動きもできなくなる老人になる可能性を)
「勘定に入れ忘れてゐる」からできるのである.

モラルハザードといふのは「マルチ商法」に似てゐる.

149
「自分のような人間」がこの世に存在しないことから利益を得てゐる人は,
いづれ「自分のやうな人間」がこの世からひとりもゐなくなることを
願ふやうになるからである.
その願ふはやがて「彼自身の消滅を求める呪ひ」となって彼自身に返ってくるであらう.

150
道徳律といふのはわかりやすいものである.

それは世の中が「自分のやうな人間」ばかりであっても,
愉快に暮らしていけるやうな人間になるといふことに尽くされる.
それが自分に祝福を贈るといふことである.

154
Evidence based といふ考へ方それ自体はむろん悪いことではない.
けれども,evidence で基礎づけられないものは「存在しない」
と信じ込むのは典型的な無知のかたちである.

といふのは,私たちが「客観的根拠」として提示しうるのは,
私たちの「手持ちの度量衡」で考量しうるものだけであり,
私たちの「手持ちの度量衡」は科学と技術のそのつどの「限界」
によって規定されてゐるからである.

158
「人を見る目」といふのは,突き詰めて言へば,目の前にゐる人の
現実の言動を素材にして,その人の「未来」のある瞬間における言動
をありありと想起することである.

170
「みんながやってゐる非合法はほとんど合法である」といふつごうのよい解釈
は「危険」よりも「利益」を優先させる思考が落ち込むピットフォールである.

180
「詰め込み勉強」といふ比喩そのものが「容器とそのコンテンツ」といふ,
知の働きについてのイメージを固定化させてゐる.
だが,これは知性の実相とは程遠い.
知的パフォーマンスの向上といふのは,
「容器の中に詰め込むコンテンツを増やすこと」ではないからである.

ぜんぜん違ふ.

容器の形態を変へることである.

183
(役に立つかどうかわからないことは努力もなく覚えられる)
ところが,その有用性や実利性が熟知されてゐる「これは絶対
覚えておかなくてはならない」ことはなぜかさっぱり脳内にとどまってくれないのである.
まさに,その有用性や実利性が熟知されてゐるがゆえに,
「これはいったい何の役に立つのだらう?」といふ問いのセンサーが,
さういふ情報についてはまったく作動しないからである.
だって,もともと有用であることがわかってをり,
世間の人々も「有用である,価値がある」と太鼓判を押してゐるのである.
何が悲しくて自力で,それに「こんなふうにも使へます!」といふやうな用途
を探してあげる必要があらうか.

 189
 (昔の人がお稽古ごとをよくした理由)
 それは「本務」ですぐれたパフォーマンスを上げるためには,
「本務でないところで,失敗を重ね,叱責され,自分の未熟
を骨身にしみるまで味はう経験」を積むことがきはめて有用
だといふことが知られてゐたからである.
 
189-190
私はこれまでさまざまな失敗を冒してきたが,
そのすべては「いかにもウチダがしさうな失敗」であった.
「ウチダがこんな失敗をするとは信じられない」といふやうな印象
を人々に残すやうな失敗といふものを私はこれまで一度もしたことがない.
すべての失敗にはくろぐろと私固有の「未熟さ」の刻印が捺されてゐる.
だからこそ,私たちは「自分の失敗のパターン」について,できるかぎり情報
を持っておくべきなのである.
そして,そのパターンを学ぶためには,「きわめて失敗する確率の高い企て」
を実行するのだが,どれほど派手な失敗をしても「実質的なペナルティがない」
といふ条件が必要なのである.

190
素人がお稽古することの目的は,
驚かれるかもしれないが,その技芸そのものに上達することではない.
私たち「素人」がお稽古ごとにおいて目指してゐる「できるだけ多彩で多様な失敗
を経験することを通じて,おのれの未熟と不能さの構造について学ぶ」ことである.

192
「死んだときの私」という想像的な消失点から現在を回顧的に見る力が,
ほかならぬこの現実にリアリティを与えてゐる.

195
(上の理由)
「今この瞬間のリアリティ」を基礎づけるのは,
「今この瞬間」を含む物語の全体だからであり,
「物語」の中で「今この一瞬」が何を意味してるのかを知るためには,
どうしたって「私といふ物語」を読み終へてゐなければならないからである.

219
もし,その政治党派が上意下達の管理組織であれば,
その党派が実権を掌握して実現することになる未来社会は
「上意下達の管理社会」である.
党派が権謀術数うずまく党内闘争の場であれば,
その党派が実現する未来社会は「権謀術数うずまく国内闘争の場」となるほかない.
蟹が自分の甲羅に似せて穴を掘るやうに
,私たちは自分の「今ゐる場」に合はせて未来社会を考想する.

自分が今ゐる場所が「ろくでもない場所」であり,
まわりにいるのは「ろくでもない人間」ばかりなので,
「さうではない社会」を創造したいと望む人がゐるかもしれない.

残念ながらその望みは原理的に実現不能である.

人間は自分の手で,その「先駆的形態」あるいは「ミニチュア」
あるいは「幼体」をつくることができたものしか
フルスケールで再現することができないからである.

どれほど「ろくでもない世界」に住まひしようとも,その人の周囲だけは,
それがわずかな空間,わずかな人々によって構成されているローカルな場
であっても,そこだけは例外的に「気分のいい世界」であるやうな場
を立ち上げることのできる人間だけが,「未来社会」の担ひ手になりうる.

220
私が二十代の終はり頃に「カタギ」の世界に戻らうと決意したとき
自戒としたのは「気をつけよう,暗い言葉と甘い道」といふ標語であった.

222
「スターリン主義とはつまり,個人的な慈悲なしでも私たちはやっていける
といふ考へ方なのです.慈悲の実践にはある種の個人的創意が必要ですが,
そんなものはなくてもすませられるといふ考へ方なのです.
そのつどの個人的な慈愛や愛情の行為を通じてしか実現できない
ものを,永続的に,法律によって確実なものにすることは可能である
といふ考へ方なのです.
スターリン主義はすばらしい意図から出発しましたが,
管理の泥沼で溺れてしまいました.」
(エマニュエル・レヴィナス,『暴力と聖性』,国文社,1997年,128頁)

「公正で人間的な社会」を「永続的に,法律によって確実なものにする」ことは不可能である.
それを試みる過程で100%の確率で「不公正で非人間的な政策」が採用されるからである.
「公正で人間的な社会」はだから,
そのつど,個人的創意によって,小石を積み上げるようにして構築
される以外に実現される方法を知らない.

224
「仕事」には「私の仕事」と「あなたの仕事」のほかに「誰の仕事でもない仕事」
といふものがある.そして,「誰の仕事でもない仕事は私の仕事である」
といふ考へ方をする人のことを「働くモチベーションがある人」と呼ぶのである.

228
考へてみれば当然だが,
「政治的に正しい」人たちは「よけいな仕事」をしたがらない.
「誰の責任でもない仕事」をさくさくと片付けたせいで
システムの不調が前景化しないと,彼らの「世の中間違っている」
といふ主張が裏付けられないからである.
だから,「誰のものでもない仕事」を「あ,オレがそれやっとくわ」
といふふうに片付けてしまふ「おせっかい」を彼ら彼女らは快く思はない.

232
(野球チームの監督がうなだれているナイン相手に
問うてゐる「どうして負けたんだ?」といふような問い,
別れ話を持ち出したときに彼女から「私のどこが気に入らないの?」と訊かれた場合)
かういふ「答へのない問い」に対しては,今申し上げたやうに
個別的な一問一答で答を暗記してもしょうがない.「術」を以て応じるしかない.

この場合の「術」は,
「ひとはどのような文脈において『答へのない問い』を発するのか?」
といふふうに問ひの次数を一つ繰り上げるのである.

それなら,答へは簡単だ.

ひとが「答へのない問ひ」を差し向けるのは,
相手を「『ここ』から逃げ出せないやうにするため」である.

だから,多くの場合,「答へのない問い」は相手に対して
権威的立場を保持し続けたい人,相手を自分の身近に縛り付けておきたい人が口にする.
それゆゑ,この場合の正解は(「お前の『そういうとこ』がキライなの」
と言った男がしたやうに)可及的すみやかにその場から逃げ出すことなのである.

238
小国には「小国の制度」があり,大国には「大国の制度」がある.
「小国」では「いろいろなものを勘定に入れて,さじ加減を案分する」
といふ統治手法が可能であり,大国ではそんな面倒なことはできない.
だから,大国では「シンプルで誰にでもわかる国民統合の物語」
をたへず過剰に服用する必要が出てくる.
小国が「したたか」になり,大国が「イデオロギッシュ」
になるのは建国理念の問題や為政者の資質の問題ではなく,
もっぱら「サイズの問題」なのである.

240
興味深いのは,この「日本と比較してもしようがない他国の成功事例」を
「世界標準」として仰ぎ見,それにキャッチアップすることを絶えず「使命」
として感じてしまふといふ「辺境人マインド」こそが徹底的に
「日本人的」なものであり,そのことへの無自覚こそがしばしば
「日本の失敗」の原因となっているといふ事実を彼らが組織的に見落としてゐる点である.

かうも立て続けに日本の選択が失敗してゐるといふのがほんたうなら,
「日本の選択の失敗」のうちには「日本の選択の失敗について論じる言説
そのものの不具合」が含まれてゐるのではないかという懐疑が兆してよいはずである.

ある人が,立て続けに人生上の選択に失敗してゐたとしたら,
私たちはその理由を彼が
「成功した誰かの直近の事例をそのつど真似してをゐないこと」
にではなく,むしろ「彼の選択の仕方そのものに内在する問題点」
のうちに求めるであらう.

ふつう私たちがバカなのは,私たちが「りこうの真似をしていない」
からではなく,端的に私たちがバカだからである.
さう考へはじめて「私たちの愚かさの構造」についての吟味が始まる.

243
「私はこれから英語で発信して,世界標準の知識人になるのだ」
といふことを日本語で発信して,日本の読者たちに「わあ,すごい」
と思はせて,ドメスティックな威信を高めることを喜んでゐる人間は,
夫子ご自身の思惑とは裏腹に,頭の先からつま先まで「国内仕様の人」なのである.

248
かつて小さな市場,乏しい人口,ぱっとしない経済活動の下でも,
私たちの父祖たちはそれなりに快適に威厳をもって社会生活を営んできた.
どうして,私たちに限ってそれができないと断定できるのか.

経済条件の切り下げによって,人間はたちまちその矜恃を失ひ,
生きる希望まで失ふといふことがメディアでは「当然」のやうに語られる.
失職した人間や労働条件を切り下げられた人間がどれほどみじめで,
どれほど絶望的な状況になるかをメディアは毎日のやうにこわばった筆致で報道してゐる.

さうすることでメディアの諸君は何をなしとげようとしてゐるのか.

249
「一度生活レベルを上げると,下げることができない」
というのは資本主義市場が消費者の無意識に刷り込み続けてきた「妄想」である.
さう信じてゐるせいで,人々は給料が減ると,
アイフルやプロミスから金を借りてまで「今の生活レベル」を維持しようとする.
金を借りることを合理化できるのは,「いずれ給料が上がる」と
(無根拠だとわかってゐながら)信じたがってゐるからである.

260
「原則を立てる私」と「原則を適用されて言動を律される私」に二極化
するという芸当が私たちにはできる.
そして,自分自身のために立てた原則はどのやうな外在的な規範よりも拘束力が強い.

「プリンシプルのある人間」といふ評言が,表面的にはほめ言葉でありながら,
ある種の皮肉を含んでゐるのはそのせいである.
きびしい原則を立てて自分を律してゐる人間は,
それと気づかぬうちに自分を「幼児」とみなしてゐる
ことを私たちは無意識に察知してゐる.
その人は,自分自身のうちで擬制的に「親と子」を二極化して,
理想我としての「親」によって,現実の幼児的な自我を「訓導」させようとしてゐる.

261
親は教師にはなれないし,なろうとしてはいけない.
親が立てる「シンプルで一見合理的」な原則は
子どもにも反証を列挙できるほどに実は底が浅いのである.
子どもが乗り越えやすいやうに,わざとそういうしつらへにしてあるのである.
親がどんどんハードルを高くしては,子どもは成長できなくなる.
親の仕事はハードルを適当な高さに設定して,
「とりあえず,ハードルをクリアーした」といふ体感を子どもに経験させることである.

262
自分の無知や無能を認めることは,「よくある向上心」にすぎない.

「ブレークスルー」は「向上心」とは次元が違ふ.
自分自身が良否の判定基準としている原則そのものの妥当性が信じられなくなる
といふのが「ブレークスルー」である.

ところが,「原則的な人」はこのやうな経験を受け容れることができない.

自分が立てた原則に基づいて自分自身を鞭打ち,罵倒し,冷酷に断罪
することにはずいぶん熱心だが,その強権的な原則そのもの妥当性
については検証しようとしない.
原則の妥当性を検証する次元があるのではないかといふことに思ひ及ばないのである.
それが「原則的な人」の陥るピットフォールである.

276
「異性が10人ゐたらそのうちの3人とは『結婚できそう』と思へる」
のが成人の条件であり,
「10人ゐたら5人とはオッケー」といふのが
「成熟した大人」であり,
「10人ゐたら,7人はいけます」といふのが「達人」である.
Someday my prince will come といふやうなお題目を唱へてゐるうちは子どもである.

276
子どもをほんたうに生き延びさせたいと望むなら,
親たちは次の三つの能力を優先的に涵養させなければならない.

何でも食へる

どこでも寝られる

だれとでも友だちになれる

279
「誰とでも結婚できる」というのは,言葉は浮ついてゐるが,
実際にはかなり複雑な人間的資質なのである.

それはこれまでの経験に裏づけられた「人を見る眼」を要求し,
同時に,どのやうな条件下でも「私は幸福になってみせる」といふ
ゆるがぬ決断を要求する.

279
いまの人々がなかなか結婚できないのは,
第一に自分の「人を見る眼」を自分自身が信用してゐないからであり,
第二に「いまだ知られざる潜在可能性」が自分に蔵されてゐることを
実は信じてゐないからである.
相手が信じられないから結婚できないのではなく,
自分を信じていないから結婚できないのである.

284
危機のときに「失ったもののリスト」を作る人間には残念ながら未来はない.

304
「妥協」において他者と「妥協」しているのは,「存在していない私」である.
「(すべてが100%うまくいった場合に)そうなるはずであった私」
「そうなるといいなと思っていた私」を
「それこそが現実の私」であると強弁することではじめて
「妥協」といふ考へ方は成立する.
非現実を現実だと思ひなす,かなり身勝手な人間の場合にしか
「妥協」ということは起こらない.

「他者との共生」者は,
そのやうな「現実になるはずだったのに,ならなかった私」のやうな幻想
についていつまでもこだはらない.
(略)
それはもう「織り込み済み」の与件として,それを「勘定に入れた」上で,
自分に何ができるかを考へている.

310
家族の条件といふのは家族の儀礼を守ること,それだけである.

324
コミュニケーションといふのは本質的に時間的な現象
なのではないかといふことです.「言ひたいこと」がある.
でも,自分が何を言ひたかったのかは言ひ終はってみないとわからない.
言ひ始めたときには,自分のセンテンスがどこかに「ぴたり」と着地する
であらうといふことについては確信がある.でも,それが「どこか」はまだ言へない.
何ごとかを直感したのだが,何を直感したのかは,
言葉を統辞的に適切に配列し,
カラフルな喩へと引き,
リズミカルな音韻を整へないと自分にもわからない.